終:残された籠を手に -2-
海岸線の街道で、竹に雀の旗がいくつも風に煽られていた。
瀬戸海の漣を背景に、季節の変わり目に吹く風が並ぶ馬達の毛並みをゆっくりと撫でていく。その背に乗っている男達は、少しばかり離れた場所にいる自分達の主君を黙って待っていた。
「何を話しているんだろうね」
「もう我々が口を挟める内容ではない。それだけは確かだよ」
成実は従兄の後姿を眺めながら、隣にいた延元に尋ねた。
彼は苦笑いを浮かべて肩を竦めてみせた。そして、見守るような眼差しで成実の見ている方向へ視線を投げた。
誰も立ち入ることの出来ない、特別な空間がそこにはあった。
別れという、きっと誰もが一度は体験する終わりと始まりの通過儀礼。決意した者達を圧し止めるほど、自分達は高慢にはなれないから。
政宗が選んだ道を信じて、受け入れることしかもう出来ないのだ。
兜を小十郎に預け、政宗は栗毛の愛馬をそっと撫でる元就を眺めていた。
互いに黙ったまま、何かを理解し合っている。
元就の隣に立っていた元親は、その空気を読み取って口を挟まずに二人を見ていた。
長くも感じた時間はほんの数分のことで、元就が手を離したことを確認した政宗は、手綱を引き寄せて馬の側に立った。静寂が続いていた辺りに、蹄の音がやけに響いた。
「行くのか」
誰よりも先に口を開いたのは元就だった。
彼の周りには毛利の兵は一人もいない。長曾我部の船と毛利水軍、そして伊達の艦隊に送られて、元就と元親は四国から中国に渡ってきた。これから正式に、領土返還の問題を話し合わなければならないためだ。
直接安芸へと送ってもらった元就は、毛利の者達を先に郡山城へと帰した。共にと、離れることを強請った息子達を諭し、今も人質の身として心細くしているだろう隆元へと知らせを伝えるよう命じた。
――本当は、政宗との別れの時間を一人でいたかったからなのかもしれない。
けれど心細くもあった。彼が行ってしまえば、ここに残るのは自分だけとなることに。
それを感じ取ったのか、元親も長曾我部の者達を先に行かせた。毛利の者達には必ず数刻後に迎えに来るよう、言い含めておくことを忘れずに。
元親らしからぬ気配りに、元就は密かに笑ってしまった。だから彼を、どうしても嫌いになれなかった。
「ああ、行くぜ」
簡潔な答えを返した政宗に、元親は眉を寄せる。
素直な気持ちを欠片も見せようとはしない政宗に、苛立ちと呆れが湧き上がる。
「お前、本当にこのまま進軍するつもりなのか?」
元就を置いて、と続けることはしなかった。
切ないまでの二人の決意は理解している。けれども、感情が納得出来ずに思わず口にしてしまうのだ。
二人は惹かれ合っている。
傍目から見ても、ましてや元就を好いている元親から見ても、その事実は確かにそこに存在しているというのに。
「天下は目前だぜ、元親? 今からお前も狙ってみるか?」
にやりと笑んだ政宗に、何て不器用な奴なんだ、と元親は溜息を吐き出した。
冗談を言うのは余裕の表れのように最初は思えたが、それは政宗が本心を言わぬための取り繕われた一つの鎧だ。元就とは違う方向に作用しているが、根本が同じであるそれに元親が気付かぬはずはなかった。
こんなところでも、政宗と元就は似ている。
歯痒すぎて、羨ましいなんて思えないけれど。
政宗と元親の声を聞きながら、元就は沈黙していた。視線だけはじっと馬の側に立つ男へと注ぎ、言葉を探しているようにも見える。
そんな淡い双眸に気付き、政宗は目を細めた。そしてすぐに視線を外す。
「なぁ、元親。俺が前に言っていたこと覚えているよな」
突然真摯な顔付きで言われ、元親は思わず背を強張らせた。こくりと首を縦にすると、政宗も同じように頷いた。
何のことだと問わなければいけないほど、鈍くはない。この場で出る話題など、今は一つしかないのだから。
元親はそっと隣の元就を横目で眺める。
彼が変われたきっかけは、自分だと己惚れても良いだろうか。政宗が認めるほどだったと、胸を張っても良いのだろうか。
好きになってしまったけれど、その想いに応えて貰えない事実が横たわる今、喜ばしいものなのかは正直言って分からない。だが元就が政宗だけではなく元親にも死を望まなかった時点で、確かに自分もまた彼の中で特別であるのだろう。
少なくとも、恋が成就されずとも彼の側にいたいと思ってしまっても良いくらいに。
「どうせ頼まなくてもやるだろうが、その人のこと宜しくな」
「言われなくとも……って本当にいいのかよ?」
「勝負はevenじゃなきゃ燃えないだろう?」
困ったように眉を下げた元親へ、政宗は意地悪そうに口の端を吊り上げた。
元就の心を攫えるなら攫ってみろと言わんばかりの挑戦的な眼差しは、しかしその奥まで汲み取ってしまっている元親相手には苦笑を漏らすだけのものに留まる。
幸せにできるのならそうしてやって欲しい。少しでも元就の助けになってくれと。
政宗はきっと、そう伝えたいのだと思えた。
そろそろ時間なのだろう、数歩後ろで静観していた小十郎が政宗に歩み寄り兜を手渡した。
彼はそれを無言で受け取り、馬へと跨ろうと二人に背を向ける。
「……約束に」
ぽつりと、青い陣羽織に向かって元就は零した。
手を止めた政宗は振り返らず、その続きを待つ。
自身の胸元をぐっと握り締めた元就は、意を決したように微かに伏せていた眼を持ち上げる。政宗の今は見えない一つ目を思いながら。
「あの約束になぞ縛られるな。そなたは、天駆ける竜なのだから」
兜を被りながらそれを政宗は静かに聞いた。
焦ったような元親の気配が読めたが、彼は何も言わないまま元就と政宗を交互に見やっているようだ。
元親は知っている。
約束を糧としてこれからも生きていけると、晴れやかな顔で告げた政宗を。
別れを選び、さらに約束さえも剥奪されてしまった政宗の心中を心配したのだろう。
お人好しな奴だな、と政宗はこっそりと笑い、兜の紐を括りながら振り返る。
「悪いが俺には怖ーいお目付け役がいっぱいいてねぇ。自分からした約束事は破ったらお仕置きだって、昔っから言われている」
肩を竦めてみせながら、政宗は一歩だけ元就との距離を詰める。
小十郎が背中を迷惑そうに睨み付けているが、いつものことなので特に気にすることなく続けた。
「破棄はしない。俺が自分で決めた。それは、縛られたとは言わねぇよ」
交わされたものに喜んだ日もあった。悲しんだ日も、不安だった夜も、苦しんだ朝もあった。
言葉少なく過ごしてきたから、互いの本心が見えないままで。だから一度は、何もかも無くなってしまったかのよう錯覚を覚えた。
――けれど今は違う。
声にしなくとも、分かるものがある。知っている事がある。
「俺が勝手にこの約束を攫っていくだけさ。あんたに願うことは、いつだってただ一つ」
政宗は元就を見つめ、おもむろに彼の額へと軽い接吻を落とす。
素早い行動に、諌める役の小十郎も恋敵である元親も唖然としてすぐさま反応を返すことが出来ずにいた。
「あんたらしく生きて、たまには笑っていてくれよ?」
熱の名残を感じる間も無く、耳元で囁かれた低い声音に元就は瞳を見開かせる。
そんな彼に笑いかけながら、政宗は颯爽と馬へ跨った。馬上の人となった彼の背には、何処までも続く雲一つない蒼穹が広がっていた。
「じゃあな、元就さん!」
そうして手綱も持たずに、政宗は軍の中へと戻っていった。
一度も、振り返ることなく。
慌てて付いてきた小十郎が追いついたことを確認し、彼は鬨の声を上げる。
残すは最西端、九州の地。竜の野望が成就する日は目前まで迫っている。この国に訪れた季節の移り変わりのように、時代もまた変わり目をきっと迎える。
自分の望んだ世界が、元就の世界を守れるなどとは思わない。
けれども万が一にでもそうあればと、願ってしまう自分に苦笑を抑えることが出来ないまま政宗は拳を上げた。
「行くぜ、天下を取りによ!」
結果がどうなろうとも、ただ今はいと高き天へと挑むのみ。
竜は再び、空を目指して泳ぎ出した。
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(2007/03/22)
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