終:残された籠を手に -1-



 浮上する意識を持て余しながら、元就は重い瞼をゆっくり開いた。
 見上げた景色に奇妙な既視感を覚える。自分を見下ろす、隻眼の男の困ったような表情にも。
 背中に包帯が巻かれている感触を意識し、上体を起こそうとしてみるものの、起き抜けの身体はうまく反応してくれなかった。
 起床することはとりあえず諦め、元就は布団とは違う触感がある己の片手を見やった。
 肉刺だらけの手が、まるであの失われた京での日々を思い起こさせるように元就の手を握っていた。

「独眼竜」

 名を呼ぶと、政宗は異国語で謝りそっと手を離した。
 互いに久方ぶりに触れ合った温もりが名残惜しかったが、それを素直に口に出来るほど単純ではいられない。
 元就は帰らなければならない場所を取り戻し、政宗は離れなくてはならない理由を見つけた。
 だからこれ以上、未練がましい想いを残してはいけないのだと、互いに言わずとも分かっていた。

「あんたは富嶽から脱出してすぐ後、貧血で倒れた。覚えていないのか?」

 眉をほんの少し顰めて政宗は言った。元就は記憶を遡るように暫し黙り込む。
 彼の記憶は、途中でぷつりと途絶えていた。自分の足で富嶽を降りた事までは覚えていたが、確かにそれからこの部屋に寝かされるまでの経緯が全て抜け落ちている。
 背を切り裂いた政宗の刀の傷から流れた血は、思ったよりも少なくはなかったらしい。
 始終鼻に付き纏った血の臭いだけは、元就も鮮明に覚えていた。
 ――だから、か。
 泣き笑いのような微妙な表情を浮かべている政宗に、元就は手を伸ばした。
 微かに身を強張らせた政宗の頬を、ゆっくりと掌で触れる。眼帯はなく、政宗自身が忌み嫌っている彼の右側の目が露わになっていた。
 富嶽にいた時、確かにそれは隠されていた。
 だが今は、政宗が眼帯をせずにあるがままの姿で自分の目覚めを待っていてくれたのだと思うのは自惚れだろうか。
 まだ少し霧がかった思考の中で考えながら、元就はそっと彼の頬を撫でた。
 最後に二人きりであった日から何日経ったのか、正確な時間は分からなかったが、少しだけ政宗が痩せたように感じる。
 腫れぼったくなっている片目は、元就が拾われた時のように彼が付きっきりで看病していたのだろうことを思わせた。
 馬鹿な竜だ、と元就は微かに口の端で笑った。
 掠り傷のような背中の怪我ごときで、泣きそうになって。決闘の横槍を入れた自分を、寝ずに看病なんてして。
 ――馬鹿で、愚かで、切ないくらいに惹かれてしまう。
 この感情の意味なぞ元就は知らなかったが、近づいてくる終わりの時を思えばそれは断ち切らねばいけないのだろうと、それだけは分かっている。
 元就はそっと手を離し、幾許か力の戻ってきた身体に力を入れて上半身だけを起き上がらせた。

「長曾我部は伊達に降ったか」

 智将としての目を光らせ、元就はそれからの状況を政宗に尋ねた。
 二人の間に行き交っていた何とも言えない雰囲気は消え失せ、顔を歪めていた政宗も常のように飄々とした口調で答えた。

「あんたの息子から詳細は小十郎が聞いた。だがいいのか? 毛利ももれなく伊達傘下ってことになるんだぜ?」

 政宗と元親、双方の首を元就は富嶽で取れる状況だった。だが元就はどちらも殺さず、逆に助けた。それに甘んじた二人は毛利に負けたということになるはずだ。
 けれども元就は、一時的にとはいえ伊達軍の中に属していた。内情はどうあれ形だけ見れば、この戦は伊達の勝利ということになっている。
 既に四国本土への上陸を許してしまった長曾我部は、東国を呑み込んでいる伊達の大軍に対する術が残されていない。これ以上の戦は無意味なのだと、口にせずとも誰もが理解していた。
 何かが吹っ切れた笑顔で元親は和平を願い出た。
 政宗を仇のように睨み付けていた鬼の目はもう潜められ、悲しいのか羨ましいのか、複雑そうに見守っている片目がそこにあった。
 彼から差し出された手を、政宗は暫しの逡巡の後で取った。元から嫌いな人間ではない。以前戦の最中で少し話をしただけで、互いに波長が合うのだと感じていた。
 そうした経緯を見越していたのだろう。元就の言葉を携えて現れた隆景は、後方の水軍を率いていた本隊へと乗り込んで小十郎達と対話を望んだのだと政宗は聞いている。
 そして彼も、倒れた元就の枕元で元春から元就の意思を直接聞いていた。
 元就はただ、長曾我部から毛利領の返還だけを望んだ。
 長曾我部が伊達に降らなければそれは叶わず、元親あるいは政宗の命令でそれが成されるという現状を見れば、今の毛利は従属国としてでしか独立して存在できないのだという現実がある。
 また毛利軍が長曾我部軍を制した行為は立派な反逆行為であるため、毛利が長曾我部傘下のままならば人質となっている毛利の嫡子である隆元は殺されることになる。
 だから元就は、行動を移す時から覚悟を決めていたのだろう。
 それでも聞かずにはいられなかった。
 孤独に近いほど誇り高く、切なくなるくらい故郷を愛している元就の国を、手にしても良いものかと。
 無論、天下取りを野望としているくらいだ。中国を取る気はあった。
 だが想像とは全く違う形で目の前に落ちてきたから――そして自分は、その国の主に惚れてしまったから――戸惑いの方が断然勝っている。

「天下を狙う竜にしては嬉しそうではないな。我が国を内包するのだ、貴様に負けは許されぬからな」

 問い掛けに頷いて見せた元就は、口の端を吊り上げた。
 それは死なないと約束したあの日の肖像。
 天下を取るまで、否、取ってその先を見るために死ねないと言ったあの時の政宗の表情であった。
 政宗は微かに目を瞠った後、ぐっと拳を握り締めた。
 まだこの掌は、元就を刺した感覚を生々しく覚えている。記憶に刻まされた紅は、恐らく消えやしないだろう。
 倒れこんだ身体の感触も。光の下で見た微笑みも。握った温度も。失くしたと思った、あの時の喪失感も。望まれていたのだと気付いた時の喜びも。
 ――全部、政宗の中にはまざまざと残されている。
 きっとどれだけ時が経とうが、想う場所も立つ場所も違ったとしても、自分の中で今までの日々は無かったことにはならない。
 もしも忘れてしまったとしても、自分という存在の中には確かに息衝いているはずだから。
 だから後悔はしないと、政宗は噛み締めていた奥歯から力を抜き去り、唇をゆっくりと開いた。
 今から捨て去らなければいけない想いを、最後の暇乞いのように胸の中で抱き込んで。柔らかい思い出にそっと蓋を閉めながら。
 彼は、告げた。


「お別れ、だな」


 政宗は真っ直ぐと元就を見つめる。
 好きだと言うよりも、もっと重たくて苦しい言葉。言いたくなくて、言わなくて良いようにと、半ば逃げかけていた言葉。
 それを一節ずつ噛み砕きながら吐き出す。

「アンタの帰る場所はもう目の前だ。だからこれ以上一緒にいる理由はねぇ」

 黙ったままの元就もまた、政宗をじっと見つめ返した。
 静かに続きを待つその涼やかな顔付きに、彼もまた同じことを考えていたのだろうことを感じる。頭の良い人だ、薄々なりとも感じていたのだろう。
 もっと自分が狼狽するだろうと思っていた政宗は、いつものような表情の読めない元就の面を眺めながら、穏やかになる心中に苦笑を浮かべる。

「俺は伊達政宗として生きる。背負った宿命を置いてしまっては、俺は俺ではいられないと知ったから。アンタも、そうなんだろ?」
「……独眼竜」

 眉を僅かに寄せた元就に笑いかけ、政宗はそっと彼の背中に腕を回した。
 傷に触らぬように気を付けながら、元就の存在を全身で確かめる。

「我は、我の道を行く。貴様と共には歩めぬ道だ」

 そう言いながら元就もまた政宗の胸へと縋り付いた。確かにそこにある政宗の存在を、己に刻み込むように。

「我は卑怯だな。今も昔も、こちらから言わねばならぬことを言わせてばかりだ」
「Tell it slowly. アンタは一人じゃねぇんだからな」

 くぐもって聞こえてきた元就の声に、微かに破顔して軽口を叩いてみせた政宗は、不意に真面目な表情となり顔を上げた。
 独眼竜の名に相応しい端正な、大人びた顔立ち。
 それを間近で見た元就は、黙って瞼を閉じた。暗くなった視界の向こうに影が差したが、元就は身体を引かなかった。
 近づく他人の温度に不思議と違和感はない。昔は二人とも、それが苦手であったはずなのに。

「I loved you. With love, ……元就さん」

 哀しい響きを持たせた異国の響きと、初めて呼びかけた恋しい人の名は、重なり合った唇の中へと静かに溶けていった。


 先刻から元親は一人廊下で佇んでいた。
 彼の視線は微かに開かれた扉の隙間から、部屋の中へと注がれている。
 数日前に刃を向けた天下を掌握しかけている隻眼の男が、常に隠されていた右目を晒しながら、部屋で寝かされている者をじっと見下ろしていた。
 切ないまでの横顔に、彼が元親に告げた意思の強いその想いを知る。
 そして元就が目覚めた後の会話が、元親の胸をさらに締め付けた。
 自分達が立つ場所をどうしても捨て切ることの出来ない二人の、それでも行き交い合う愛おしい感情の波が悔しいくらいに眩しい。
 政宗とゆっくりと話し合い、元就がいなくなってからの話を全て聞いた。自分と心底が似ている政宗を気に入るのはすぐのことだったし、同じ人に惹かれるのも必然的だったのだろうと思えた。
 本当は未練がないわけではないのだけれども。
 元就は、政宗だけではなく元親も失いたくはないと、あの小さな口から確かに言葉にしてくれた。
 ただそれだけの事実が、元親の心に響き渡った。
 だから政宗と元就が壁一つ隔てた向こう側で抱き締め合っていても、以前のような荒々しい嫉妬の炎は揺らめかない。
 今感じることは、歯痒く思う気持ちだけだ。
 愛しているはずなのに、別れを選んだ政宗の一途な想いに。惹かれているはずなのに、その感情の名前が分からない元就の想いに。

 嗚呼、どうして人は。
 こんなにも擦れ違いながら、明日へ向かって歩き出さなければならないのだろうか。
 元親は重なり合った影を見ないよう、音も無く障子を閉めた。
 そして願うように、祈るように、まっさらな空に小さく浮かんだ白い月を仰ぐ。
 天高くには太陽が輝いているけれども、雲一つ無い青空には眩しくない月が良く映えた。
 昼と夜で光を照らす時間が違っていても、同じ空に浮かんでいる。
 同じ世界に存在していられるというのに――。




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(2007/03/09)



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