伍:有明の鳥が啼いた -4-



 政宗は、不意に思い出していた。
 いつかのある日。
 穏やかな空気が二人の間に流れていた、小さな楽園での出来事。
 それらが走馬灯のように過ぎ去っていき、自分が彼に惹かれていっただろう場面が妙にくっきりと思い起こせた。
 厩で誓い合った時、丘の上で一緒に墓を作ってやった時、共に寝起きしていたあの頃。
 若葉色を基調とした地味な装いを好む元就に、奥州の紅葉のような赤を贈ったことだって鮮明に覚えている。そして、静かに受け取ってくれた彼の、綻んだ眦を忘れたことなど一度もなかった。

 切ないくらい悲しい思い出は、いつしか戦場へと場面を映す。
 冷静な目で戦局を見る、薄い背中。己を庇いながら刀を抜き、叱咤をした彼の声。その度に浮かぶのは、自身の血で身体を染める元就の姿。
 政宗の不安を具現化したような幻が、生身の相手へと重なって見えていた。
 自分の目の前で、彼を鮮血に散らせないと。何度も何度も、それだけはひたすらに誓っていたはずだったのに。
 たとえ自分の野望が潰えようが。離れ離れになろうが。彼の心が拠り所へ向かって、飛び立っていってしまったとしても。
 この命がある限り。己の中の恋が生き続ける限り。
 共にいられなくとも交わした約束を守るのだと、それだけは決めていたのに。

 ――紅に染まっていく華奢な背中を、何故自分はただ眺めているだけなのだろうか。

「も、毛利っ!」

 呆然と振り下ろした刃の先を見つめていた政宗は、上擦ったような元親の声に正気を取り戻した。
 元親の碇槍と、政宗の刀の間に元就は割って入っていた。美しい円を描く輪刀を二つに切り離し、それぞれの獲物の重量を微妙な匙加減で受け止めている。
 元就は鋭い眼光を双方に投げかけながら、鍔迫り合いに軋む音を聞きながら眉を顰めた。
 隙間を縫うような無駄のない動きのおかげで、互いが互いに攻撃を与えることは止めることはできた。
 だが決着を付けるべくして放った一撃は、勢いを殺すことが出来ない。いくら受け止められたとしても、元親の武器のように引っ掛かる場所の無い政宗の刀は、輪刀の上で刃を滑らせてしまった。
 その矛先は案の定、元親が突っ込んでくるはずだった間合いに振り下ろされていったのだ。
 割り込んだ元就の、背中へと。
 重厚な装備をしていない元就の具足を、竜の爪は軽々しく突き通した。外からでは見えない皮膚から、真っ赤な血が生々しく布地を染めていく。
 輪刀との摩擦によって勢いが削られ、向けられていた方向も致命傷には至らない場所へと逸れたため命には別状はないだろう。
 長年戦に出ている大将である政宗にも元就にも、唖然と見ていた元親にもそれは分かっている。
 だが結果的に元就を傷つけてしまった政宗は、背中から一気に血の気が失せたことを感じていた。

 想い人の血液が付いた刀を、鈍い動作で政宗はゆっくりと持ち上げた。
 立ちはだかる者を何度も薙ぎ倒してもなお、煌きを失わなかったはずの愛刀の刃が、この時ばかりは忌々しい凶器にしか見えない。
 大切な人の血を吸った、醜い切っ先。
 まるでそれは自らの右目のように歪で、何と汚らわしいことか。
 幼い頃の暗い影が、脳裏を一瞬で駆け抜けて行った。
 また自分は、愛しく想った者を自らの手で屠るのだろうか。それとも己が手で死地へと送られた者どもの怨念が、最後の抵抗だと言わんばかりに元就を連れて行こうとしているのだろうか。
 ――約束したのに。
 誓ったはずなのに、どうして自分が彼の身体を赤く染めてしまったのだ――。

「情けない顔をするな、独眼竜」

 鈍痛で疼く右目の痛みに耐え、怯えて震えだそうとする拳を抑えながら、政宗はゆっくりと顔を上げた。茶色の前髪から覗く面は、蒼白になり始めていた。
 だが政宗は奥歯を噛み締め、元就と目を合わせる。
 互いを正面から見ることなく突然別れてしまった瞳が、逸らされることなく真っ直ぐと政宗の方を向いていた。
 痛みに動じた様子は微塵もなく、切ない表情で自分の背中を追っていた。攫われる前までの様子は一切見せず。
 まるであの頃の出来事が嘘だったように思えるほど、冷徹な眼差しがそこにある。
 だが掛けられた叱咤の言葉の裏に隠されている、優しい温度は変わってなどいない。
 ――彼だ。
 確かに、元就がここにいる。
 そのことだけは確かに理解し、ざわめいていた心中が僅かに落ち着いていく。

「長曾我部、貴様の軍は我等に既に掌握されておる。これ以上の戦闘は無意味だ」

 政宗を黙って見つめていた元就は、慌てて離れようとした元親に向かって声高らかに告げた。
 遠巻きに見ていた長曾我部の兵達は、元就の連れてきた者達が捕縛していた。富嶽の陥落に巻き込まれぬよう、一足先に下へと戻るように命じてあるのだろう。鮮やかな撤退を開始しているところが、政宗の視界の端に見えた。
 元親は瞠目したが、静かに瞼を閉じた。まるで呆れたかのように、苦笑いを浮かべながら溜息を吐き出す。

「海から砲撃が来ねぇってところを見ると、向こうにも手を回したのか。さすがだな毛利。戦局を引っ繰り返しやがった」

 背中を真っ赤に染めながら凛と佇む元就を、元親は肩を竦めながら呟いた。
 慌てた様子もない彼の口振りに、きっと中国を攻め入った時から――元就の遺体が影武者であったことを知った時から――元親は元就がいずれ自分を報復し、国を取り戻すために動き出すことは予め感じていたのだろう。
 捕らえて己の傍に連れ去って。何もかも取上げて、ようやく安心した。そして元就に手を伸ばす政宗を排除することで、その安心は完璧なものになるはずだった。
 それを、元就自身のために破られた。
 本当はきっと悔しい思いが駆け巡っているだろうに、元親は笑っている。
 二人の間の見えない何かがそこにあるように感じ、政宗は少しだけ寂しく思えた。

「俺達の首でも取って、天下の戦場に返り咲きするのかい」

 元親は疲労も頂点に達したのか、碇槍から手を放して地べたに座り込んだ。
 戦意が完全に消えている元親も、元就の血に染まった刀など振るえるわけのない政宗も、既に戦う力を失っている。首を取るのならば簡単だろう。
 輪刀を一つに戻した元就は、力なく頭を落としている政宗をしばらく眺めた後、分かっているのに尋ねてきた馬鹿な質問に答えた。

「我は、天下なぞ要らぬ」

 戦場で何度も何度も相手に告げたのだろう言葉が、政宗の上から降ってくる。
 自らの痛みなど一切感じていないかのように平然として立っている元就は、いつか聞いた中国の統一者の冷たい顔をしているのだろう。
 隙の無い、表情の消えた仮面。そこに温情というものが一片もないのだとすれば、彼はまさしく人形とでも言えるような悲しい物だったのだろう。
 だが、政宗は既に知っている。
 元就は怖いくらい、自分と良く似ているということを。
 本当は弱くて、迷ってばかりいて、けれど自分という存在を捨てきれることもできなくて。周りの人間達の温かさに、戸惑いながら嬉しく思える。
 そんな不器用なところがある、人なのだということを。
 だからこそ、寄り添い合って生きることはきっと出来ないのだと余計に思い知る。
 顔を上げた政宗と元親は、歩く元就の一挙一動を見守っていた。
 背を向けられている今、元就の赤黒く染まった背中が痛々しく見えた。まるで翼を無理やりもぎ取った痕のようだ、と政宗は微かに俯く。
 元就の言葉は続く。

「我の一族徒党、民一同が静かに暮らせる場所さえ取り戻せたのならば、それで構わぬ」
「……じゃあ何でだ」

 やけに乾いた声音が、政宗の喉から漏れ出す。
 切なさに潰れそうな声のようだと思うと、苦笑が浮かびそうになった。

「何で、一人でこんなところに飛び込んできたんだ!」

 一歩間違えたなら、政宗の刀は元就の身体の急所を貫いていたかもしれない。
 彼が生きられる場所へと逃すため、ここまで来たというのに。
 どれだけ会えぬ日々が続こうとも、交わした約束と元就自身さえ何処かで生きていればそれだけでいいのだと、答えを見つけたというのに。
 そんな自分が、彼を殺してしまうところだった。
 残酷な事実が政宗の中に、再び小さな影を落とす。

「阿呆か貴様」

 政宗を見ても何も言わずにいた元就が、初めて、微かな怒りを伴って声をかけた。

「我が天下に望むのは今も昔もそれだけ。だが、我はもう後悔なぞ残したくはないと思った」

 その様子に元親は困ったように笑っていた。
 自分に対しても随分丸い物言いとなったのだが、政宗であるとやはりまた違うのだと実感した。
 分かってもらえなくて怒ったような口調になるのは、特別な相手だからこそ。
 元就に恋慕を吐き出した時の元親も、そして政宗も、同じような物言いで怒鳴るように叫んでいた。
 元就自身に自覚があろうがなかろうが、元親はやはり政宗にはもう勝てないのだろうということを確かに感じ取れていた。

「長曾我部も、そなたも、失いたくはないと思ったから――」

 辺りが崩れる轟音に、囁くような言の葉は消え入る。
 それでも確かに二人の耳に届いたのは、元就を特別に想うが故だったのだろうか。
 呆けたように顔を上げた政宗は、一つしかない眼で元就だけを精一杯映し出そうとした。
 言われた意味が良く分からない。
 ただ、奇妙なほど胸の奥が熱かった。

「分からぬか、独眼竜。そなたが此処にいるから、来た。他に理由なぞ見当たらぬわ」

 そう言って、政宗の好きなあの微笑を元就は浮かべた。
 政宗は指先から刀を落とした。全身の力が抜けていくことを感じていた。
 ――嗚呼そうだ。
 自分も、彼に会いたかったから此処に来た。助けたくて此処に来た。
 擦れ違ってしまっていたと思っていた。本陣で残されていた羽織の意味を知った時、それは杞憂だったのだと分かったけれども。
 元就自身の言葉はいつもなかったから、本当は不安が消えたわけではなかった。
 でも、信じて良かったと今なら思える。
 同じ約束を同じ心で抱いていてくれていると、元就から暗に告げられた言葉が、悲しいくらい嬉しかった。


 雲がそっと捌けていく。藍染の空が顔を出し、雨上がり独特の清らかな大気が一層その色彩に見事な透明感を与えていた。
 東では、朝焼けが白雲を染め抜いていた。
 夕暮れよりも輝きの力は強く、始まりの胎動を伝えるかのよう。
 信奉している日輪の光に照らし出されて、元就は背中を血に染め上げても凛とした佇まいを崩すことなく、政宗と元親の戦場であった場所を見下ろしている。
 意志を曲げぬ、愚直なほどに純粋な眼差し。あれこそが、元就が自分の居場所と定めたものを守るための決意の表れ。
 綺麗だと思えたのは、見目のことではない。その中に何を映しこむかだ。それだけで、磨き上げた珠玉のように輝きを放つ。
 爛れた自分の片目も、もしそこに今でも醜く存在していたとしても。
 竜たる己を選んだ自分を、元就はきっと同じように何でもないように扱う。眼差しの中に、自分らしさを損なわない固い決意があるのだから。
 きっと、独眼竜と。
 変わらぬ呼び方で、笑ってくれるのだろう。
 彼のくれた小さな笑顔は、きっともう自分だけのものではなくなるけれど。
 弱々しく縋りつく元就よりも、後悔に意識を捕らわれている元就よりも、今そこに立っている姿の方が好きだったから。

「行くぞ」

 落ちる富嶽から脱出すべく、元就は駆け出した。元親もそれに続く。
 軽い言い合いをしながら走り出した二人の背中を見つめながら、政宗はぼんやりと考えた。
 空が似合うと、政宗は元就を包み込む世界の風景を見て思った。高い空と、そしてその下にはきっと広い海がきっと広がっている。いつも空を見上げていてくれる、海が。
 自分がいられない蒼穹の世界に翼を広げる姿は、何よりも美しく誰よりも気高いのだろう。

「……Partingなんだな」

 覚悟していたその時が迫っている事をひしひしと感じながら、政宗は空を仰いだ。
 夜明けに煌いた世界の何処かで、鳥が飛び立つ音を聞いたような気がした。




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(2007/01/28)



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