伍:有明の鳥が啼いた -3-
戦場を駆け回らなくなって、数ヶ月。先日の戦に出た時も船上であったため、こうして地を走ることは本当に久方ぶりだった。
萎えた身体が歯痒く、既に息が上がっている己を軟弱だと罵りたくなった。
それでも、足を止めることはできない。
視界に捉えた富嶽は燃えている。戦闘は始まってしまっているのだ。
――政宗と元親が戦っている。
それを捨て置けるほど、もう自分は心無き人形ではいられない。だから元就は、走り続ける。
「吉川隊は本隊を包囲しろ! よいか、無闇に戦いを起こすな」
手に握った采配をはためかせ、号令をかける。鬨の声が上がり、後方に連れていた部隊が一気に馬で駆け抜けて行った。
戦場独特の気配に、自分の策が成されていく満足感に、武者震いにも似たような感覚が突き抜けていく。このように感じることこそ、確かに己が乱世に生まれた男なのだと思う。理想を追うために、戦うことを選んだ者なのだという証なのだと。
温かな陽だまりの海に、憧れたけれども。
優しい月明かりの天に、触れていたかったけれども。
やはり、自分は毛利でしかあることが出来ない。それを失ってまで近づくことは、どうしても出来なかった。
「元就様、行くのですか」
駆け抜けて行った兵士達を見送っていれば、傍らで馬から降りた一人の武将が小さく呟いた。
彼の視線を真っ直ぐと受け止めながら、元就は頷く。
小早川は既に海に出た。相対するのは伊達の船団。そして陸では、吉川が長曾我部の陣を足止めする。そうして両軍の動きを止めて、元就は陥落しようとしている富嶽へと向かう手筈となっている。
だが吉川隊を率いる将である彼、元春はまだ迷いを感じていた。いや、不安と言った方が正しいだろう。
今生の別れだと思って、中国で別れた父。弟からの情報によって生きていることを知り、地下牢でようやく奇跡の再会を果たせたというのに、元就は再び危険な場所へ単身で行ってしまう。
行かせてよいのだろうか、と迷う元春はじっと元就を見つめた。冷たく感じる無感情な細面に、威圧感を覚えるのは長年の付き合いからだろうか。
だが、それは一瞬のことだった。
そこにあったのはもはや仮面ではない。微かに和らげた眦の下で、元就は微笑を浮かべていた。
「行かねばならぬ。後悔など、一度で十分だ」
子供の頃に、少しだけ見たことのある父の笑顔。
彼は何にも変わっていなかったのだと感じて、元春は不覚にも泣き出しそうになった。
そんな息子の肩を叩き、元就は呼吸を整えながら顔を上げる。
一度目の後悔は、水没しながら燃え落ちていった高松城を眺めながら思っていた。
だが今度は。今度こそは。
生きていてと祈るだけではなく、救える強さを持っていたかった。もう無力ではいたくない。
「我の策を成すべく、励むが良い元春。我は死なぬ……約束もある故にな」
元春の返事を後方で聞きながら、元就は僅かな手勢を連れて富嶽へと再び向かう。
恐れることは何も無い。不思議とそんな気がしていた。
夜明け前の薄暗い景色の中、心強かった日輪の加護も毛利の旗もここにはないけれど。自分と共に歩んでくれる者達が確かに存在して、死しても尚願いを託していった人々の声が背中を押してくれている。
故郷の地を踏むことを。取り戻すことを。戦の無い、国を造ることを。沢山の人と約束した。
だから死ねない。死なない。
――生きたい。
愚かな自分の糧となっていなくなってしまった者を忘れないためにも。愚かな自分に光を当ててくれた元親のためにも。
共にはいられない政宗と、それでもせめて同じ時を生きていたいから。
+ + + + + +
構えたままで対峙し合っている二人の沈黙を、突然の轟音が切り裂いた。
元親が驚いたように音源の方向へと目を向けた。その瞬間激しい爆裂が起こり、足元が大きく揺れ動く。
砲撃の音だと理解した時には、辺りは砂埃と突風に流された瓦礫が飛び交っていた。視界は聞かず、あまりの音の大きさに耳がしばらく使い物になりそうもなかった。
口に入った砂を吐き出しながら体勢を立て直した政宗は、顔を顰めた。
本隊が動いたのだと分かった。成実が砲撃の巻き添えを食らうなよと冗談めかしに言っていたが、洒落になっていないと無意識に愚痴を零す。
崩れた瓦礫を見回すと、先程より離れた位置に元親が膝をついていた。
政宗と同じように大した怪我は負ってはいないが、状況の悪さに舌打ちしているようだ。
だが敵大将が目の前にいるのだ。このまま退くわけにもいかないのだろう。
元親が体勢を立て直して武器を構えた。それを確認した政宗は、口角を持ち上げて自らも獲物を握り直す。
手元には一本しか刀が残されていないが、上等だと彼は笑った。
戦いで感じる高揚感は、以前の海上戦のような鬱々とした気持ちではない。
これが自分だと政宗は思う。
自分の我侭を通すことを決めたことを、元就はどう感じるかは分からない。
素っ気なく余計な事をと呟くだろうか。ほんの少しでも、寂しく思ってくれるだろうか。
切望が僅かばかりに浮上し、慌てて政宗は首を振った。今は、奪われたものを奪い返す。それだけのことだ。
元就の姿を見てしまえば、少しばかり決意は揺らぐかもしれないが、いなくなった日に感じた絶望を知ってからでは耐えられないものではない。
ただもう一度だけ、会いたかった。こんな別れた方は嫌だから。うやむやのままで終わらせたくないから。
彼を抱き締めて、伝えなくてはならない事がある。
そして――自分の手で必ず彼を放すのだ。
爆発音と黒煙が逆巻く要塞の中、他の兵士に後退を告げながらも元親は政宗との一騎打ちを放棄することは無かった。
後ろの方で部下達が心配そうな声を上げているが、元親は気を逸らすことなく独眼竜の爪と対峙し続けた。
刀が一つになろうが、政宗の気迫は変わらない。
楽しい闘いだと湧き上がる喜色を浮かべながらも、微かに切ない感情が元親の胸の内を行き来していた。
そう、切なくて悔しい。
元就を想う気持ちに何の違いも無いはずなのに、離れる決断を下せた政宗。
彼のように潔いことが自分にできるかと問われたら、答えに窮してしまうだろう。
きっと自分なら、未練を残さずにはいられない。
自身でも制御しがたい感情と共に、いつの日か国を傾けてしまうかもしれない。そういう地位に元親が立っているからこその、見えてしまう滑稽な未来。
しかしそれは数ある可能性の中の一つでしかない。
もしかしたら、元就と手を合わせて進める明日があるのだろうし、元親はむしろそういった方向に進めることを願っている。
だがきっと、政宗の瞳の先にあるのは滑稽な未来だけなのだ。
互いに互いを想うが故に食い潰し合ってしまうから、きっと同じ世界を生きられないのだと。
理解して受け入れて、決めてしまった政宗の真っ直ぐな気持ちが切なかった。
そしてその佇まいが――伊達政宗としての生き方を選び取った、彼の気高さは同じく天下を狙う相手としても、端から器の質が異なっているのだと感じ取れて。
自分は彼に適わないと分かってしまったからこそ、悔しかった。
小さく笑った、牢の中での元就を思い出す。
元親では与えられなかった笑顔と、他人を信じるという気持ち。
あの時は何で自分じゃないのだろうと子供のような癇癪を起こしてしまったが、何故元就が政宗の方を向いたのか、今なら分かるような気がする。
それでも、元親はこの場から退くことは出来ない。
先立つのは負けたくない、恋しい人を取られたくないという感情。そして、長曾我部を名乗る以上は自分が四国を治める者だという自覚も共にある。
国主としても、この土地に生まれた者としても、故郷を守ろうと思う気持ちに何の理由がいるだろうか。
――ああ。だからだったんだな。
政宗と切り結びながら、不意に元親は納得した。
冷徹な眼差しで戦場を見下していた元就は、それでも、ずっとずっとこの思いを忘れずに抱いていたのだ。彼の手腕がどれほど陰惨であっても、恐れられていたとしても、兵士達は知っていた。
自分の家を、瀬戸海の向こう側の大地を、元就はただ盲目的に愛していただけなのだ。
元親は、守っているものが鎖や錘だと思ったことはない。
それならば、元就にも同じことが言えるということになるのだと、ようやく理解できた。
元就を守れるほど強くなったと思っていたのに。彼の心情をこれっぽっちも理解していなかったのだと思うと、自分がまだまだ甘いのだと痛感した。
目の前に立つ独眼竜は、理解できたのだろうか。
飄々とした政宗と生真面目な元就では反発し合うのようにも思えたが――むしろ元親と政宗が似ていた。そんな性格の元親は最初、元就といがみ合ったものだ――だがその根底にあるものはまるで鏡映し。
自由になれない居場所でもがきながら、それでも。
彼らは自分らしく生きている。生きて、いけるのだ――。
揺らいだ元親の戦意を感じ取ったのか、薙いだ碇槍を避けた政宗が一気に攻めかかった。
立てた刃の形から、突きが自分の首元を捉えたのだと元親は分かった。だが避ける術はない。
迸る電撃の輝きを眼に焼き付けながら、元親は最後の意地とでも言うように、碇槍を振り切る直前で反対側へともう一度薙いだ。
技をかける際に一瞬無防備になる、政宗の脇腹めがけて刃が迫った。
鬼の首を竜が切り裂くか、竜の身体を鬼が貫くか。
これで決着が付くのだと思った双方の脳裏に、同じ人物の後姿が過ぎった。
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(2006/12/22)
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