伍:有明の鳥が啼いた -2-
互いに傷を負い、互いに刃を立て合い、色の違う一つ目同士が睨む。
火の手が上がり続ける富嶽は、既に半壊していた。政宗の連れてきた部隊の手によって、陥落するのも間もなくだろう。
雨足が弱まった間に本陣から出航した船団は、海上で富嶽が落ちることを待っている。強く燃える炎は富嶽を制圧したことに対する証であるため、辺りは赤々と色付き、大きな一つの篝火となる。
それが合図だ。大阪の陣の最中に使った大筒が、幾つかの船に乗せてある。鉛の雨を沿岸部に降らせ、一気に伊達の軍が上陸してくる手筈となっている。
決着をつけるのならば今しかない。柄を握る指先に力が篭る。
天下を取るため。そして、元就を――。
伸びた鎖が政宗の刀に当たり、大きな音を立てる。続けて襲ってきた碇の刃を寸で避けた政宗は、そのままの低姿勢で踏み込む。
遠心力と重みで速度を増した碇は、それ故にすぐさま引き寄せることはできない。その隙を突いて懐に入り、右の三爪が元親の腹目掛けて振り上げられる。
元親は碇が伸びた状態のまま、空いていた片手で柄を素早く引いてそれを受け止める。
「伊達、何故お前はあいつを傍に置いた」
「たまたま拾っただけだぜ。目の前で野垂れ死にそうだったからな」
答えになっていない、と苛立ちを含んだ怒声と共に、互いの武器が弾き合い距離を取る。
酔狂な振る舞いを常とする政宗の答え方は、確かに彼らしいものではあった。
だが元親には、わざとらしい言い訳にも聞こえたのだろうと政宗は思う。
相手の内情に踏み込むことを滅多にしない元親が追求してくるのは、そこに気掛かりな――もしくは抑えきれない感情の高ぶりがあるからこそだ。だから台詞の中に含まれた僅かな違和感を、彼は見つけたのだろう。
強ち嘘ではない。出会いは、偶然でしかありえなかった。
だが無意識に言葉の端々に滲んでしまった、元就への愛しさを見抜かれた政宗は苦笑を浮かべてしまう。
手を差し伸べたのは自身の気紛れか、それとも惹かれることを感じ取った第六感が起こした必然だったのか。
分からなかったし、今はもう分からないままでも構わなかった。
伊達政宗という男は、素性も分からぬ落ち延びた武士が一人くらい死んだとしても、揺るぐような者ではない。
天下を目の前にし、上洛まで果たした政宗は自身でも自覚していたはずだった。犠牲が出ても後悔しない。自らの糧となって散って行った者達に言い訳をしたくなかったから。
そうして生きてきた。
――だけど。
その時だけは、彼の開かれない瞳を見て魂がざわめいた。
このままでは後悔すると、そう思ったから。
気付けばこの手は、元就を抱き上げていた。感じる確かな鼓動に安堵が零れ、初めて聞いた声が紡いだ言葉に切なくなった。
全ては政宗が感じたものだ。宿命だの、運命だの、誰かに定められたものではない。
鮮やかに蘇る穏やかな記憶もまた、自分自身。喜びも悲しみもあの日々はもたらしたけれど、そこには何の偽りもない。
離される事に怯えてながら。苛立ちと焦れったさと、慈しみを持って見守られていながら。
それでも傍にいたという、証がある。
彼の身を案じたのは。弱々しく伸ばされた手を掴んだのは。淡い朝陽の差し込む厩で、交わした言葉は。
政宗が、元就に恋をしていた大切な思い出。
誰にも消せない――自分でも捨てることの出来ない想いの結晶。
「なあ、長曾我部。あいつを攫って行ったのは、あいつの首が欲しかったからか?」
先程間近で見た元親の表情に、政宗は似たような顔をしていた頃の自分を思い出す。
行かないでと必死に手を伸ばしていた。奪わないでと心の中で叫んでいた。
傍にいたいと、望んでいた。
同じ思いを抱いたからこそ、分かる。きっとこの鬼も元就のことが好きだったのだ。
似合わぬ戦略で中国を襲ったのも、その行き場のない迷宮のような感情が元親の中でわだかまっていたからか。元就から、鎖でもあった家を奪いたかったからか。
それとも――彼にただ、温かさを教えてやりたかっただけだろうか。
元親を見やれば、嫉妬に焼かれた必死の形相と、行き場を見失いそうになっている迷子のような顔と再び出会う。
苦しげな、悔しげなそれは自分と同じ。同じ恋を知っている者。
だからこそあえて政宗は尋ねたのだ。元親の覚悟を聞き出すように。
「違う! 俺はっ!」
激昂しかけた元親は一瞬口を噤み、力なく自分の望んだ、望もうとした理想を口にした。
ただ、元就を守りたかったのだと。
あんな寂しそうな顔をしなくてもすむような場所に、連れて行きたかっただけだだと。
一人ぼっちで佇む元就を、元親は見ていたのだろう。政宗よりもずっと前に、元就の抱える危うさに元親は気付いていた。
伸ばそうとした手は拒まれたけれど、投げかけた言葉は凍り付いて揺れることもなかった心にきっと波紋を生んだ。
そうして、元就は気付いたのだろう。
氷河のように冷たかったはずの己の内は、本当はただ雪解けを待っていた冬の季節の中にあっただけで、溶けることが出来るのだということに。
時は遅く、きっかけとなった元親に攻められ、元就は守られ逃がされ本当の意味で一人となってしまったのだが。
元就が時折、自分の中に元親を見ているということは知っていた。高松城が襲われた戦を、それとも厳島で出会った時の事を思っているのか、政宗は知らない。
けれど第三者としての係わり故に、確信がある。
人形として生きてきた元就の凍った眼に、強い日差しを当てたのはきっとこの男だ。
元就の遠い何かを思い出すような視線を、政宗は隣で見ていた。
故郷に思いを馳せているのだろうと最初は思っていたが、それだけではないのだと気付いた。
元親が何を言ったのか、知る術は無いし聞く意味ももはやない。
それでも長曾我部と不可侵条約を結んだのは、元就が元親を受け入れたという確かな証拠ではないのだろうか。
駒だと言い聞かせていた兵士達のことを、真剣に考え始めたからこそ。彼らのおかげで落ち延びることが出来たからこそ。
元就は自分を責めて、後悔して。無事を祈り、死者に追悼を続け。
それでも、生き続けることを望んだ。
胸が疼く。微かに浮かぶ羨望。決意を選んだ今の自分にはその痛みは耐えられないわけではなかったけれど。
嫉妬に囚われた元親の眼差しを見ていると、彼もまた似たような痛みを感じているのだという事実が皮肉に思えた。
――元親は、戦場で耐えるように立っていた元就を知っている。
――政宗は、仮初の楽園で元親の知らない元就を知ってしまった。
互いに無い物強請りをしている。願うことの根底ですら、同じだというのに。
どちらが欠けても、恋慕を抱いた彼の人は形作られない。元親との出会いも、政宗との日々も、無かったことにはできない過去だ。
「そこは一体何処だ、長曾我部。戦とは無縁の檻の中か、楽園のような籠の中か?」
返答に窮した元親を畳み掛けるように、一気に間合いを詰めて刀を振るう。受け止められた体勢をそのままに、体重をかけていけば元親の足元が地を擦って後退していく。
遠くで聞こえる喧騒や炎の轟く音など、当の昔に二人の聴覚から消え去っている。捉えるのは互いの言葉のみ。同じ人を想った、相手の声だけ。
自分の見つけ出した答えのために、政宗は元親を倒さねばならない。
天下のために四国を平らげることは勿論、そして何より捕らわれている元就を表に出さなければいけないのだ。
「そんな場所、要らないぜ」
決意はしたが、口から出て行く声は案外固かった。
苦笑を嘲りと捉えたのか、元親は妬ましげに政宗を睨み付けようと顔を上げてきた。
衝動に任せて上げた視線は、交わった途端に勢いをなくしていく。
元親は目の前に佇む、天下人としての器を持つ独眼の竜をじっと見つめた。元就に笑顔というものを与えただろう相手。感情を呼び戻した、元就にとって特別な相手。
なのに政宗は、まるでそんな彼を突き放すように言う。
寂しいと思わないでいられるような場所は、きっと政宗の傍にあったのだろうと、元親は心中で半分位諦めていたのに。
だからこそ湧き上がった怒りに任せて睨みつけようとして、元親は政宗の瞳の奥に灯る感情に気付いた。
それは未練なき清廉な想い、だった。
「知っているか? あの人はアンタに焦がれていたよ。死者への弔い方も忘れちまっていたあの人は、きっと、アンタみたいな人間になりたかったんだ」
どうすれば弔いになるのだと泣き出しそうな目は、もう遠い昔のことだけれども。
元親が死んでいった者達に毎年花を贈っていると聞いたのは、最近のことだけれども。
元就が毛利と見えない絆で深く結ばれているように、元親と元就は自分にはないものをお互いに見て惹かれたのだろう。
何事もなければ、きっと二人は隣あって笑えていたのかもしれない――もしかすると、まだその可能性は残されているのだろうけれど。
遠い北の国にいた自分は、それこそ彼らと直接出会うことなく。
何も知らないままで彼らを殺していたか、それとも、奥州という井の中から出られずに自分が死んでいたか。
元親と元就の出会いは、同時に政宗と元就を繋いでいる。
それは切ないくらい嬉しくて、そして哀しいこと。
でも、と政宗は続ける。
元親が元就になれないように、元就は元親になれない。
政宗が、ただの政宗になれないことと同じ。どんなに望んでも約束をしても、自分という人間を全て捨てることなんて出来やしない。
楽園は永遠ではないのだ。
自分らしくあるために、誰もが皆、我を通して歩く時代なのだから。
「あの人が行くのは、どんなに辛苦であろうとも自身で決めた道。俺が伊達政宗としての生き方を変えられないように、あの人もまた毛利元就としての生き方を変えることはない」
それは以前、元親が嫌った元就の佇まいなのかもしれない。
けれど政宗は分かっている。元親だって気付いているのだろう。
もう、一人ぼっちではないから。
元の同じ場所に立とうとも、鎖に縛られようとも、彼の周りは誰もいない雪原ではないはずだから。
彼の中の鷲は生きている。
飛び方を忘れたわけではなく、今も空を見上げ続けている。
毛利の名は、血は、国は、確かに元就にとっては無自覚な重荷なのかもしれない。だが同時に翼でもあったのだと政宗は思う。気高く生きようと、太陽を目指す対の羽だと。
その傍らを風が支えてくれることを彼は知ったから、もう一度、力強く羽ばたくだろう。
――どれだけ辛くとも、きっとそれが元就のあるがままの姿なのだ。
「あの人の居場所は、あの人自身が決める。今の俺にできることは、囲っちまったちっぽけな籠の扉を開いてやることだけだ」
政宗は、微笑んでいた。
飾らない笑い方は十代の少年特有のもので、彼がどれだけ元就を真に想っているのかがひしひしと伝わる。
同時に浮かぶのは彼の持つ大人びた一面。全て理解した上で、受け入れて笑う大器の気配が立ち上っている。
恋しいと想う元親と同じ一つ目が目の前にあるというのに、そこに映るものは何と違うことか。
傍で、笑ってくれたらいいと元親は望んでいた。いや傍でなくても構わない。隣の国で静かに明るく暮らせていれば、十分だった。
そこに時折自分の姿があって、酒でも飲み交わせればよいというささやかな希望を灯していた。
――だが、政宗は違う。
隣にいたいとは望まないと言ったのだ。
自分という存在が何処にもなくとも、自分というものを過去にしてしまっても、もしくは無かったことにされても構わないのだと。
知らない世界で元就が元就らしくそこにあれば、それだけでいいのだと。
自分が自分であるために。相手が相手であるために。
この恋を捨てても構わないと告げたのだ。
「だからな、長曾我部。アンタがあの人を縛るというのなら、容赦しねぇよ」
再び構えられる刀の輝きに負けぬ、独眼の光の強さ。
そこにある真似の出来ない覚悟に、猛々しくも鮮烈な王者の気迫に元親は息を呑んだ。
「……お前、それでいいのかよ。ずっと一緒にいたんだろう」
呆気に取られて思わず力を抜いてしまった元親は、ぽつりと呟いた。
煙に覆われていた天は、いつの間にか雨を降らせてはいなかった。
時刻は夜明けに差し掛かる。淀んでいた雲間から、微かに明るくなっていく空が覗く。
その下で、もう一度政宗は笑ってみせた。
「So what? 馬鹿な約束をしちまったからな。だからもう、俺はそれだけで――生きていけるんだ」
――約束を、した。小さな、拙い約束を。
個としての政宗は、伊達がなければ存在しないのに。
個としての元就は、毛利がなければ存在しないのに。
なのに交わした、愚かな願い。
生きている。それだけで良かったのに。傍にいればいるほど、人は貪欲になり臆病になり綺麗な形を失っていった。
でも約束の姿は変わらないまま、いつでも胸の内に住んでいた。
だから。
もう、空っぽなんかじゃない――。
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(2006/12/11)
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