伍:有明の鳥が啼いた -1-
遠目に富嶽の姿が窺える、人気の無い岸辺。風で荒れる波間から、小さな船が四、五隻ほど四国に辿り着いた。
船底に身を隠していた乗組員は、辺りをそっと窺い、それから被っていた布を取り攫る。最後の船から現れた男は口の端をつり上げ、そして一同を振り返った。
「Are you ready?」
活きの良い返事を背に受けながら、彼は富嶽の方向を見やる。
雨は一向に止む様子を見せないが、それもまた粋だと腰に差した六本の刀を鳴らす。
水と雷を操り、天へと昇るのが竜の宿命。暗雲こそが飛翔するに似つかわしき空。竜の爪が踊るに相応しき舞台。
けれど、そこに眩い太陽の姿は無い。吹くのは猛々しい烈風。荒ぶ、乾いた音だけ。光も無く、鳥も飛ばない天空。そこはきっと孤独な世界。
けれど竜は、その世界でしか昇ることができないのだ。
大陸から伝わる悲しき伝説を思いながらも、政宗は確かな決意を胸にして進みだす。
迷いはもう無い。
惜しむ気持ちが完全に失せたわけではない――失せてしまえるほど、軟な想いであったはずがない――だが政宗は決めた。
独り善がりだと罵倒されようが、愚かだと無下にされようが構わない。
「行くぜ、長曾我部元親」
爪を抜き去り、独眼竜は取り戻した眼光を鬼へと差し向けた。
+ + + + + +
細くなった雨粒を掌で受け止めながら、物見台の上から瀬戸内の海を眺める。
空は曇天で暗いまま。航海に出れば方向を見失うだろう、嫌な天気だ。
開戦してからずっとこの天候が続いている。
急いて攻めることも出来ず、また向こうも進軍を見合わせていることだろう。
元親は富嶽を見上げ、それから物見台を降りた。
種子島のように雨に晒されて発砲できなくなるわけではない。その辺りは改良してある。
しかし遠距離を攻撃する大筒は、目標が捉え難いこの暗さでは使い辛い。雨の中の海を渡ることは、慣れた者であっても危険を伴う。故に向こうから攻めて来ることはないと思うが、不安はある。
相手は常道では制する事の出来ないだろう、独眼竜だ。
天下まであと半分。この勢いを落とすような真似はしないはずだ。
それに、と元親は思う。
政宗は独占欲の強い男だと薄々感じていた。海賊である自分とその根底は似ているように思える。
だからこそ、盗人のように元就を攫ってきたことに微かであっても憤りを抱えているだろう。静かに燻る感情は、何をしでかすか分からない。
――この、自分のように。
軽く溜息を吐き出し、元親は見張りの兵士達に労いをかけながら宿営地へと歩いて行った。
毛利の軍は元就が見つかった以上、戦に出す気はない。命令をすれば彼らは出陣するだろうが、無関係な戦いの場で命を散らすことは元親が望まない。
これは、自分と政宗の戦いだ。元就を守るため、自分の想いを守るため、四国を守るための。
そのためには一対一で勝負しなければ意味が無いのだ。
「……お前もそう思っているんだろう、伊達政宗」
止まない雨の降る天を仰ぐ。
まるで高松城を落とした時の様に続いている雨。あの日が、運命の分かれ道だったのだろうか。
だがもう関係ない。元就は手の内にいる。何も心配することはないはずだ。
自分に言い聞かせながらも、元親の中の苛立つ気持ちは消えやしない。どうしようもない感情なのだと自覚している上で、感じてしまうのだから始末に悪い。
己の銀髪をくしゃりと撫ぜ、元親はふと過ぎった感覚に足を止めた。雨に打たれ続けていたせいだろうか、奇妙な寒気が背中を通り過ぎたような気がする。
天幕の前まで来ていた元親だったが、冷や汗を流しながら慌てて背後に振り返る。
戦の最中に感じる嫌な予感は、大抵何かしらの形でもたらされる。船の上で勘は重要なものだ。
元親は身体を反転させ、駆け始める。行き先は富嶽。
だが、足を踏み出したその瞬間。
轟音が、大地を揺らした。
「ちっ! やっぱり狙ってきやがったか!」
煙が上がっている要塞を仰ぎ見ながら、元親は全速力で走り出した。
伊達に奇襲されたのだろう。富嶽が占領されれば四国に上陸される可能性が断然高くなる。戦いが陸に移れば、死人の数も自ずと増えるだろう。
純粋な戦いの高揚感はある。けれど何処か悲しく思えるのは、国を守るにしては不純な動機を抱えているせいだろうか。
混乱しながらも要塞の指揮系統はいまだ狂ってはいない。
慕うべき主君のことを信じているだろう長曾我部の兵士達は、どうにか富嶽を落とさせぬために必死の抗戦をしている。
士気が全く落ちない様は流石だと、政宗は刀を振るいながら思っていた。
だが自分の軍が劣っているなどとは決して考えない。ここに立っていられるのは、ここまで来られたのは、これからも天下を目指せられるのは――他でもない、政宗に付き従ってくれる者達のおかげなのだから。
一人で富嶽の強襲部隊を率いるとまた無茶な事を言い出したが、いつもの苦笑を浮かべて家臣達は笑って送り出してくれた。
政宗の想いの丈を測るような真似をしてくれた三人も、呆れ顔をしながらも止めることはしなかった。
小十郎は、がら空きな背中を何とかなさい、と小言を呟きながらも、しっかりと策を練っておいてくれた。
成実は、砲撃に巻き込まれて死んでいたら笑ってやるよ、と小憎たらしい笑みで、手入れしていた六本の刀を渡してくれた。
延元は、さっさと戦を終わらせてくれると軍資金が浮きますから頑張って、と何処までが本心か分からないことを言いながら、船に物資を積んでくれた。
以前、ぽつりぽつりと呟いていた元就の話を思い出す。
見ないようにと捨ててきた数多の命達。これが戦国乱世、戦って死ぬのは当然のこと。御家のために生を全うするのは当然のこと。
だけど、最後に気付くのだ。
後ろを振り向かずに走れたのは、後から従ってくれる人達が無言で付いてきてくれているから。彼らが道を地ならししてくれているからこそ、我道を行けるのだと。
失ってしまった元就が感じていただろう、言葉にできないもの。それはきっと今、政宗が胸に抱いた念と同じなのだろう。
彼は失ったけれど、全部が消えたわけじゃない。そして自分もまた全てが空っぽになったわけではない。
残っているものが、確かにある。
人も、国も、野望も――元就と過ごした記憶も焦がれた感情も此処にある。
「だから俺は負けられねぇんだよ、長曾我部」
飛んできた槍の刃を、抜刀した六爪で受け止めた。
視線の先には西海の鬼と呼ばれる、政宗とは逆の隻眼の男が立っていた。
互いに浮かんでいたのは飄々とした笑み。
「総大将自ら来るとはな。流石は伊達者、やることが派手だな」
軽口を聞きながらも、片方だけの瞳は至極真面目だった。戦の場にあることが不自然なほど、相手の真意を探るような真っ直ぐとした視線を二人は交わす。
その奥に眠るのは、同じ人物に対する想いの重さ。
――お前が、彼の中に見出したものは一体何なのか。
無意識的に探り合う、不器用な恋に翻弄されてきた者の沈黙を纏った哀しい問い掛け。
間合いを測りながら対峙する二人を邪魔できる者はおらず、その場は細い雨の帳と金属が弾かれ合う音だけが支配していた。
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(2006/12/03)
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