四:終わり行く物語 -3-
雨音は遠くなっていた。
薄く開いた視界には、湿り気を帯びた暗闇が映し出される。微かな松明の光が回廊に漏れていたが、辺りを全て照らしきるには心許無い。
痛む頭を片手で抑えながら、元就はゆっくりと上半身を持ち上げる。
どうやら床にうつ伏せに転がされていたようだ。長時間その体勢で気を失っていたせいか、身体が奇妙なほどだるい。
元就は軽く腕に力を入れた。すぐ傍にあった壁に身体を凭れさせ、格子に頭を預ける。息を大きく吐き出すと、少しは楽になった。
「……ここは」
暗闇に視線を這わせれば、どうやら座敷牢の一種であろうと予想が付いた。
最近の天気の崩れにより湿気が溜まっているのだろう。黴臭さはするが、牢屋にしては比較的綺麗な方だった。
元就の記憶は、天幕から連れ出されたところでふつりと途切れている。
覚えの無い気配が迫ってきたと感じた瞬間、外の兵士が倒れる音がした。泥が跳ねた音が元就の耳へと飛び込んできたが、雨音と天幕が陣の端に位置することで、誰かが騒ぎ立てる様子はなかった。
舌打ちをした元就は手を刀にかけた。
寝台に広げていた羽織を片付ける暇は無さそうだ。落ちて行く日は見られないが、夕刻に入るこの時間帯はいつもこの紅色へと日輪の代わりに手を合わせていた。
今日もまた、その日課に勤しもうとしていたところだったのだが。
「痴れ者め。我に何用だ」
天幕の向こうに立つ気配へ、元就は低く唸る。
忍の類だろうと予想は付いている。だが自分を狙ってくる理由が分からなかった。
威嚇するようにじっと相手の挙動を窺っていた元就は、背後に感じた影の気配にはっと振り向く。
羽交い絞めされそうになったところを寸で避け、寝台の傍まで後退した。
刀はまだ抜けない。一度抜刀してしまえば、この狭い空間の中で隙が生まれてしまう。相手は見逃さないだろう。
二人になった忍に警戒しながら、じりじりと後退りする。
その時、握った拳に何かが当たった。錦の織物だ。
――もしも。
――自分がいなくなれば、彼はどうするのだろうか。
青い竜の背中を思い起こした瞬間、間合いを詰められ元就は息を呑んだ。
気を逸らしてしまったことは己の愚行だ。もはや覚悟を決めた。
元就は拳を開き、代わりに羽織の裾を握った。固く固く、決して離される事の無いように。
身がついに奈落へと堕ちようとも、これだけは持っていけるようにと願いながら。
それは結局、叶わなかったけれど。
自分の掌を見つめながら、元就は置いてきてしまった紅い錦を思い出す。
引き裂かれたか、もしくは誰か別の人間が使っているだろう。
どちらにしろもう元就の手元には何も無い。
具足も脇差も剥がされ、着ている物といえば薄い白の単だけだ。本当に全てを失ってしまったのかと自嘲が浮かぶ。
「さて。我を殺さずに連れてきた理由を聞こうか、長曾我部?」
先程から回廊の向こう側で感じていた視線に、元就は声をかけた。
薄闇の間からぬっと現れたのは隻眼の鬼。
その姿に、元就は小さく肩を強張らせる。未だに根付いている故郷を失った恐怖からか、それとも逆側の眼を隠していた竜を思い出したからか。
元親は薄く笑い、牢の前まで歩み寄る。炎が銀髪を照らし、光源が増えたような気がして元就は目を細める。
「あんたが生きていてくれて良かったぜ、毛利」
相変わらず幼い男だ、と元就は思う。
質問とは擦れ違った言葉を呟き、嬉しそうに無邪気にも思える笑顔を浮かべている。
――変わっていない。
羨ましく思えた生き方も笑い方も、出会ったあの日から何も。
「影武者の首だとは分かっていたが、あれほど疲弊していたからどっかでくたばっているかもしれねぇって心配だったぜ」
「我が生きていて貴様に何の利益がある? 領土も軍も手に入れたのだ。我の命を直接奪わねば気が済まぬか、海賊風情が」
元親は不意に真面目な顔をして腰を下ろした。柵越しに互いの視線が交わる。
彼が今何を考えているのか、手に取るように分かり元就は内心で苦笑する。
「まだそんなこと言っているのか。あんたが駒だって言った奴等は、あんたのこと、命令も関係なく必死で守っていた。……一人ぼっちじゃ、なかったじゃねえか」
――そうだ。そなたの言っていたことは本当だった。
浮かんだ言葉を噛み締めて、元就はぐっと瞼を閉じる。
今でも鮮明に思い出せる。
無理やり自分を馬に乗せた者の顔、声を上げて自分の身代わりになって走り去った背中、願いを託して道を開いた人々の言葉の数々を。
長曾我部に攻められているというのに、元就は元親の悲しげな表情をその時考えていた。
あれからずっと彼の言葉は水面に出来た波紋のように、消えないままで心を揺さぶり続けていた。
自分さえ気付かなかった、封じていたはずの心中を初めて真っ直ぐと見据えたのは元親だ。
全部失くしたあの雨の日。元就は織田との戦から引き上げようとした自軍が、長曾我部軍に襲撃されたことに愕然とした。そしてそのように感じてしまった自分に衝撃を受けた。
広く輝く海のような男に、いつの間にか羨望を思うようになっていた。
だから元就は、元親が彼らしからぬ戦を仕掛けてきた際に、自分が憧れていた肖像を壊されたような気がして。
ウラギラレタ。
そう考えてしまった自分に、苦いものが浮かんだ。
衝撃の後、急速に冷え込んでいきそうな精神を支えたのは、息子達であったり家臣達であったり、捨て駒だと罵っていたはずの兵士達であった。
けれどそれすらも失って。
とても大事な場所だったということに今更気付いた。海の見える陽だまりの下、自分は頑なに蹲っていただけ。見る世界は全て冷たい氷壁の向こうで、正しくなんか見えていなかった。
元就は闇に一度落とされた。ついにふつりと切れた意識に、矮小なこの命すらも掻き消えるのかと泣きたくなった。
数え切れない人の死の上に立って生きていたというのに。欲しかったものを捨てて、奪われて、守れなくて、それでも生きなければいけないというのに。
――嗚呼、独眼竜。
永遠に続くかと思った暗闇を照らしたのは、焦がれていた日輪の輝きでもなく、失った陽だまりでもなく、広がる海の煌きでもなかった。
闇に隠れてしまうような、細く儚い月。
けれど夜に孤高として立つ姿の正体は、天高き空に飛翔する一匹の竜。
彼との出会いが、再び自分の中に光を灯した。
「一人じゃない、か」
以前であれば諦めていただろう。だが全部を失くしたわけではないと、そう思えるようになった。
毛利は死に絶えていない。兵士は生きている。息子も生きている。誇りも失ってはいない。元親も、変わっていなかった。
何よりも今この時を、政宗は生きているのだから。
ひっそりと口の端を上げた元就を、元親は驚いたような表情で凝視していた。
凍土のように凝り固まっていた仮面も、その向こう側に透けていた寂しげな瞳もそこにはない。
元親の目の前にいる男は、冷血な人形として立っていた者ではなく、感情を取り戻した個の人間。柔らかな笑みを自然に浮かべたその様子は、以前の悲哀や嘲りを含ませずにむしろ温かなもの。
それは確かに、痛々しい吹雪が吹き荒れていたはずの元就が変わったことを知らしめていた。
まるで雪解けが訪れたかのように。頑なだったはずの、彼の心が。
元就が伊達軍にいると毛利の者達が水面下で噂していたことを、元親は見逃さなかった。
ようやく見つけたと喜び勇んだ。卑怯にも思えるような手立てで中国を攻めたというのに、それでも逃してしまった大事な宝物だったのに。
戦乱の世でそれが掻き消えてしまうことが嫌だったからこそ、交わした条約を裏切るような真似をしてまで、元就を守りたかったというのに。毛利を傷つけてでも、彼を血生臭い道から掬い上げたかったのに。
交わした言葉だけでは伝え切れなかった分を、今度こそ伝えたかったのに――。
元就は変わった。いや、本来の自分を取り戻したと言った方が正しいのかもしれない。
その契機が何だったのか、元親は知らない。だが浮かんだ想像は、間違いでは無いだろうと思う。
――元就を人の世界に引き戻したのは、きっと政宗だ。
自分ではない。自分では、なかったのだ。
元親は今、湧き上がっているこの感情が嫉妬なのだ自覚した。
「畜生!」
衝動的に吐き捨てた元親は、微かに顔を上げた元就の方へ腕を伸ばした。
隙間から突然差し込まれた大きな手に、反射的に元就が身体を強張らせた。元親は構わず頬骨から顎にかけてを掴み上げ、自分の元へと顔を引き寄せる。
格子越しに、唇が触れた。
驚き目を瞠った元就はその手を殴りつけて引き剥がし、重い身体を柵から起こす。
怒鳴りかけようとして元親を睨みつけるが、そこにあった鬼の表情に怯む。
彼らしくない、泣くのを耐えるような迷子の顔が元就を見つめていたのだ。
「生きていたことを喜んだ理由を聞いたな、毛利。織田と開戦したと知った時、背筋が凍る思いをしたからだよ! 俺は初めて会った時からずっとあんたが好きだったんだからな!」
元就は呆然と目の前の男を見上げた。
歪んだ片目は、もどかしさと悔しさで濡れているようにも見える。なのに熱烈な感情が奥底で燃え上がっている。
「だから俺は中国を攻めた。あんたを守れるくらいに、強くなったのだと言いたかった」
それは結局、毛利の地を荒らすことに他ならなかった。元就と疎遠となっているであろうと思っていた中国の者達は、元親が思う以上に元就を敬愛していた。そして、守ろうとしたのだ。
元就は血に、家に縛られていたけれど。周りの人々は決して元就を身代わりにしていたわけではないのだ。
だからこそ元親の予想とは違い、抵抗は激しかった。多数の犠牲が費やされ、辺りには長曾我部への怨嗟の声が耐えなかった。
愚かな独り善がりに気づいた時には、父の影武者として命を落とした家臣の首を、嘆き悲しみながら運んできた毛利の跡継ぎが元親の前で膝を折っていた。
これ以上、故郷を穢さないでくれと――。
元親の後悔は激しかった。だからこそ元就は生きているのだと言い聞かせるように信じていたし、話を聞いた時には歓喜と申し訳無さで胸が一杯になった。
だが元就が伊達にいたと耳にして、どうして、と元親は思った。本人を目の前にしてその思いが溢れてしまった。
「戦を、再開する。伊達なんかにあんたを渡すつもりはねぇ」
もう一度好きだと呟いた元親は、流せなかった涙を拭うように力なく落ちていた腕で目元を擦って言った。
元就に背を向け、彼は再び薄闇の向こうへと去っていく。
慌てて格子から身を乗り出した元就だったが、かける言葉など見当たるはずも無く口篭るだけだった。
何を言えばいいのだろう。
人の好意を受け取った時、元就はいつだって言うべき台詞が思い浮かばずにいた。
だからこそ、高松城が陥落した際には後悔したものだ。与えてやれなかった言葉を思い、幾度も悔いた。
そしてその後悔は、再び襲いかかろうとしている。
前哨戦にて互いの出方は読めてきたのだ。伊達も長曾我部も、先の戦よりも激しい激突をすることになるだろう。
きっと本格的に、大将同士の首の取り合いが始まる。政宗も元親も好戦的であるから、どちらかが死ぬまで戦は止まらない。
元就は項垂れるように床を見つめた。対決は避けられないだろう。
本来ならば対決を避けようとする考えすら、元就は持たなかったはずだ。家と何の関係も無い戦に首を突っ込むことは自殺行為だと、自覚もしていた。
けれど一度でも失いたくないと思ってしまったから。
ただ一人の人間として、死なせたくないと思う人が出来てしまったから。
「……無力とは、本当に何のためにもならぬな」
幼い頃の自分を思い出し、元就は自嘲した。
兵も武器も国も部下も無い。丸腰の自分が、戦で出来る事はもはや皆無。ただ祈るだけだ。
覇者としての形を保つ物を欠き、これがかつての毛利の鷲かと呆れた。
自分が自分でなくなるのが怖くて。彼が彼でなくなることが恐ろしくて。
だからこそ、長曾我部の草に迫られた時に覚悟を決めていたというのに。
頭を垂れていた元就は、不意に感じた気配に目を瞠る。
元親ではない誰かが奥から近付いている。足音から二人、三人ほどだ。見張り番か世話人でも寄越したのだろうか。
だが現れた人影は、想像以上に予想外な者だった。
「お前達……」
元就は懐かしげに呟き、彼らの顔を一人一人見渡した。
込み上げてくる感情を耐えるように深く瞼が瞑られ、再び開いた時、彼の瞳には鋭い眼光が宿っていた。
欠いて久しかった詭計智将の姿が今、起った。
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(2006/11/19)
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