四:終わり行く物語 -2-



 自分の天幕に現れた年齢も立場も不揃いな三人に、政宗は唖然としていた。
 人払いをされた外では、見張りの兵が天幕から僅かに離れた位置で待機させられていた。怒鳴り声を上げられても分厚い天幕の布地に遮られ、外部に大きく漏れることはない。
 そうして事態を大きくせぬように準備をした状態で、三傑と謳われた三人の将は主君の元を訪れた。
 真剣な眼差しに気圧され、政宗の軽口は形を潜める。
 まさか謀反ではないだろうが、それくらいの意気が見え隠れしているのは気のせいだろうか。
 元就を連れての出陣は結局このような終わり方となり、きっと自分を諌めに来たのだろうと政宗は思った。
 微かに頭を垂れ、くぐもった声で用件を聞き出す。
 これ以上、誰も自分に失望しないで欲しいと小さく願いながら。

「殿、これからお話することは我等三人の内輪事ゆえ、不愉快を召され様とも他の者に処罰は下さぬようお願い申す」

 年嵩の男が一歩歩み寄る。鬼庭延元は、静かな光を湛えた瞳で政宗を見た。
 そこには後ろめたさや疚しさは一切無い。家中を支え続けている男の、誠実な心持ちを正しく表している。
 安堵と共に軽く肩から力を抜いた政宗は、深々と頷いた。
 内輪ということは、互いに昔馴染みとして容赦の無い話がされるのだろう。それは上下関係を律する軍内とはあまり関係無い――政治的にも軍略的にもだ――話だということに他ならない。
 だが、それならば何故他の者を引き合いに出すのかが政宗には分からなかった。
 疑問を問いかける前に、対する延元は口を開いた。

「――政宗様は、毛利殿をどう想うておられますか」

 淀みのない言葉に政宗は息を呑み、それから不意に小十郎を睨み付けた。
 だが小十郎も引き下がらない。延元の問い掛けに乗せるように、ゆっくりと彼の唇が動く。

「伊達も毛利も関係なく、貴方は今何を想いますか。まだ、あの御言葉に偽り無く好いておられますか」
「小十郎……何を」
「お答え下さい」

 困惑した様子の政宗に、小十郎はただ答えを求める。
 以前、政宗が己の劣情を露出した際に口上した言葉と同じような台詞を吐いたのは、その頃から濃厚になっていた元就への想いと今の想いを比べるためか。
 政宗は唇を噛み締めた。
 言われるまでも無い。忘れようと今もずっと心の奥底で念じているというのに、刻まれた彼の人の輪郭がぼやける事はなく、逆に思い出となってしまったからこそ鮮やかに思い起こせる。
 嫌いなわけが無い。
 今だって、この気持ちは燻り続けているのだ。
 だが同時に思うのは、今更全てが遅いのだという諦めだった。
 机の上に置かれている錦に手を伸ばし、ぐっと握り締める。
 置き去りにされた恋心。もはや彼の人は二度とこの手に戻ることはなく、想う事すら滑稽だ。
 もうこれ以上、望んではいけないのだ。あの奇跡のような日々を得ただけでも、恋の形の正体を知っただけでも、自分は恵まれているのだろう。
 天下を取るのだと歩いている道を覆す気は無い。彼と出会う前と変わらない自分に戻るだけ。
 でも――。

「俺は、俺は……」

 二の句が出ないまま俯いた政宗は、昔の気弱な子供の姿と同じだった。
 成実は大股で政宗に近付き、力任せに彼の胸倉を掴み上げた。驚いて見上げれば、怒りのような嘆きのような焦燥に満ちた双眸が歪んでいる。つり上がった眦は、しかし泣き出しそうにも見えた。

「梵天の馬鹿野郎! 何で分かんねぇんだよ!」

 今では滅多に口にしない幼名を呼びながら、成実は怒鳴った。飄々としている表情を崩して、いつもなら抑えていられる高ぶった気持ちを政宗に知らしめるべく、感情が促すままに言い募った。

「毛利さんが布陣の時に、離れるって言い出したのは何故だ? 相手が自分の軍であるにも拘らず、梵天を庇ったのは何でだ? 全部お前のためじゃねぇか!」

 彼はこの度の戦の間でしか元就を知らない。けれども短い期間の中だったが、二人の想いの深さを成実は感じ取っていた。
 他人の自分達には推し量れないほど、政宗と元就の間には様々なものが行き交っていただろう。
 通じ合えた分、伝えられなかったものが不安だけを煽ってしまって。勝手に失ってしまったと思い込んで、自分を追い詰める。
 平気だと言い聞かせて、彼らは心の何処かで泣いている。
 似ている二人は不器用な所まで似ていて。一番言葉にしなければいけないものを、怖がってずっと言わないままにしてしまっている。
 そのことが本当に、歯痒かった。
 だけど確かに成実は見ていた。
 政宗の、恋に追い縋る視線を。元就の、失くすことに怯えた佇まいを。
 隣にいるというのに本当の意味で手に入れることなどできないのだと、嘆きにも似た寂しい声音を聞いた。
 彼の人の命が落とされる可能性に、真っ青な顔をして飛び出して行った必死の形相を知っている。

「あの人、言ったんだ。政宗に死んで欲しくないって。戦地にまで着いて来たのは策でも何でもない。お前の傍にいたかったからじゃないか……」

 徐々に語尾を弱くしながら、成実は掴んでいた手をのろのろと下げた。
 力無くした肩に手を置いた小十郎は、そっと政宗の手の中にある錦を指差す。成実の言葉に衝撃を受けていた隻眼が、示す先を辿った。
 不自然な皺の付いた羽織。その淵には、乾いた泥が付着していた。

「政宗様、覚えておいでか。その羽織は乱雑に戻されたように、箱に入っておりました。ましてや雨模様とて天幕の奥にあったそれに、何故泥が付いているかお考えになられましたか」

 小十郎の言葉に政宗は瞠目する。同時に、布を握っていた指先が震えた。
 政宗は覚えている。
 箱の蓋は半開きで、羽織には折り目が丁寧につけられているというのにそれに沿って畳まれた様子は無く、几帳面な元就にしては可笑しなしまい方だった。
 同時に浮かんだ疑問は、戦地の最中にある陣内へ何故このような不要の物を持って来たのかということ。
 拒絶だと感じた衝撃と、残された物に対する愛惜の方が遥かに上回り、政宗はすぐに気付けなかったのだが。
 まさか、という思いが駆け巡った。
 期待してはいけないと歯止めをかけるのに、その歯止めを故意に壊すように小十郎は続けた。

「見張りをしていた兵から聞きました。毛利元就は朝夕その羽織に合掌した後、とても優しい手付きで箱に戻していたと」

 嗚呼、と嘆息が漏れる。自身が血の色だと恐ろしく思ったこの紅を、元就は陽の色だと愛してくれていたのだ。
 雨が続く闇の中、政宗が避けていた時間。元就は自分の贈ったこの羽織を見て、京にいた頃と変わらずに微笑んでいてくれたのだ。
 そうして一つ気付いてしまえば、止め処なく記憶が巡る。
 屋敷を発つ時、帰りたいかと尋ねた政宗に、元就は故郷を指して言った。そこにも居場所があるというのなら、と。
 置いて行くと突き放そうとした政宗に、共に連れて行ってくれと追い縋った。
 あの眼差しは、約束を果たす意志で真っ直ぐだった。

 ――そう。約束、を。

 亡くした者達との約束だけではなく、政宗と交わした約束も、そこにあった。
 そこにも、と言う位に元就は、政宗の隣に少しでも居場所を見出してくれていた。
 政宗が望んでいたように、元就もまた望んでくれていたのだ。
 走り抜けて行った衝撃に立ち竦む政宗に、延元が歩み寄る。
 政治面で主に働く延元は、二人が同時にいる場面を殆ど見たことはない。軍議での突然の宣言、出航前の一悶着。たったそれだけだ。
 けれど仮屋敷での日々も、この本陣内での日々も、総括していた延元の耳には入っている。
 優しい仮初の楽園で寄り添っていた二人。雨音と共に離れて行った二人。
 幾日も過ぎ去って行った時間の中で、彼らの互いに対する想いは一つも変わっていないはずだと延元は思っている。
 その考えは、小十郎からもたらされた情報で確信へと変わり、先程帰って来た使いの者からの話で揺るぎなくなった。

「片倉殿にその羽織の様子を聞いた際、勝手ながら草の者を動かしたところ……毛利殿を連れ出したのは毛利の者ではなく、長曾我部でございました」

 はっと顔を上げた政宗を見返し、延元は小さく頷いた。

「毛利殿の様子からして、このように羽織を畳むことはありませぬ。泥が付いていた所を見ると、曲者が急ぎ戻したか、もしくは激しく抵抗されたのでしょうな」

 政宗が食い入るように錦の織物を凝視した。
 緋に映える白い手が思い浮かび、やがてその白が元就の流す血の色に染まった。
 だが政宗は頭を軽く振った。わざわざ長曾我部が忍を使ってまで拉致させたのだ。早々に殺すことは無いだろう。それも時間の問題だろうが。
 輝きを取り戻しつつある隻眼は、三人を見つめる。
 迷いが晴れたわけではない。行動に移したとしても、待っている結末は同じなのだ。
 それがいつだろうが分からないが、遅かれ早かれいずれ元就は去るのだ――政宗の隣から。
 陰鬱に戻りかけた心を引き戻すように、小十郎は先程から変わらぬ真顔で口を開いた。

「自分は最初、二人を近付けさせたくありませんでした」

 四人だけの天幕の中は、掠れた言葉でも良く聞こえた。
 延元は懺悔にも似たような、彼の俯いた頭を静かに眺めている。成実は所在なさげに佇んでいた。
 そんな三人を、政宗はじっとして見る。

「東国を制圧し天下を狙う伊達。その壁として立ちはだかるはずだった西の雄の毛利。そんな関係の二人が、この時代に共にいる。それがどれだけ不自然か、何度も申し上げました」

 しかしその意見は一蹴され、小十郎はいつか来るであろう破局の日を覚悟して待ち続けた。
 呆気なくそれは訪れたのだけれど、小十郎の予見通り、明らかに落胆している政宗を見て少しも喜べるはずがなかった。
 小十郎とて情を知る人間だ。伊達家と政宗を守るために諌言をしているが、政宗が元就と一緒になって楽しそうに笑う姿を見た時、安堵感と仄かに灯るような優しい感情が生まれていたことを自覚している。
 政宗が元就を好きだと聞いた時、主は既に賺されたのかと嘆きたくなった。
 しかしそれは違うのだと気付けたのは、いつだったろう。
 二人は周りがもどかしく思うほど互いを必要としながらも、無意識的に寄りかかろうとする自身を抑圧し続けていた。別れの日がいつ来るかと考えた回数は、部外者である小十郎よりも政宗と元就の方が圧倒的に多いのだろうと、今なら分かる。
 時折遠くを見つめている政宗。元就を視界に入れないようにしながらも、哀しいくらい熱い眼差しで薄い背中を眺めていた政宗。
 そんな彼と過ごしながら、表情が崩れることの多かった元就。孤高に立つ政宗の背中の重荷にならぬようにとじっと耐えながらも、切ないくらいに彼を見つめていた元就。
 そこには打算も策もなく、二人の交わした約束が作り出した細い透明な糸が途切れる日を知りながらも、儚く繋がっていた。
 切れても仕方が無いのだという、遣る瀬無い諦めと共に。
 でも、と小十郎は言った。
 つり上がった眼は一度閉じられ、それからゆっくり微笑んだ。

「たとえ好いた相手が天女だろうが餓鬼だろうが、勝手に取られた者は全力で掴み返す。それが貴方でしょう?」
「貴方が、貴方らしく生きて行くこと。我等はただそれだけをいつも真に願っているのですから」

 小十郎が言った。延元が言った。
 政宗は片方だけの目を大きく見開く。
 小十郎から始まり、成実、延元と視線を這わす。皆、政宗を見守るように笑んでいる。

「諦め癖は、弱虫梵天と一緒に止めたんだろ?」

 成実は苦笑を浮かべながら尋ねた。
 どんなに縋っても払い除けられ、結局母親の愛情を乞うことを諦めた。気弱な梵天丸はそうしてずっと諦めたまま、日々を過ごしていた。
 だが奥州の覇者となり、いずれは天下を頂くのだと、己の右眼を切り取った時に彼は決意したのだ。
 今度こそ諦めないと、前を走ることを。

「奪われた手前で諦めるなんて奥州筆頭の名が泣くぜ、You see?」

 政宗の真似をして気障っぽい笑みを浮かべた成実に、思わず政宗もつられて笑う。ようやく笑顔を思い出せたような気がした。

 溢れるのは熱いもの。湧き上がる言葉にも表せないほどの感情。
 遠回りだったけれどようやく分かった。ようやく、分かることが出来た。
 ――お前に会いたい。
 会って、抱き締めて。
 もう一度だけ言わせて欲しい言葉が、ここにある。



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(2006/11/15)



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