四:終わり行く物語 -1-



 去って行った人の影を追い求めるのは虚しいことだと、既に政宗は何度も経験していた。
 それは縋っては振り払われた母の冷たい手や、仲が良かったはずなのに自害を命じなければならなかった弟、あるいは殺さなければいけなかった父の最期の言葉。
 自らが退けてしまった家族の面影を胸に刻みながらも、政宗は前を向き続ける生き方しかできなかった。
 ――きっと残された国や民、そして家を支えてくれる家臣達が、政宗を否定せずに受け入れてくれたからこそ立っていられたのだろう。
 血みどろの家中に取り残された彼らを、政宗もまた見捨てることなど出来なかった。顧みられない心細さを彼は知っていたから。
 自分を信じてついてくる者達を、全力で政宗は守り続けている。
 だから、本人の意思で去ってしまった相手を追わなかった。単に自分が信用に値しなかっただけだと、軽い落胆と共に後悔は抱くようなことはしない。
 ずっと、そうしてきた。そしてその判断はいつも正しかった。
 正しかった、はずなのに。
 どうして今更、こんなに胸が痛くなるのだろう。


 夜通し降り続いていた雨は弱まり、朝靄の中を静かに落ちていく。
 薄雲には時折太陽の形が鈍く透けたが、その光は鮮烈さを失って小雨を銀色に光らせるだけに留まっていた。
 ぼんやりと天を仰いでいた政宗は、日輪の輝きを見失って一体何日が経ったのだろうとそっと考える。
 まるで二人の行く末を見据えていたかのように、瀬戸海から撤退してから晴れた日は一度としてなかった。
 屋敷にいた頃、毎日目にしていた縁側で拝む元就の姿も、二人で丘へと祈っていたあの時も、最初から幻影だったかのように。
 恋が咲かぬままに枯れてしまうのが嫌だと言った自分すら、いつか泡沫のように消えてしまうのだろうか。
 始まったかも分からず、終わったかも分からず、宙ぶらりんな気持ちだけが蟠りを伴って己が心で寂しく揺れている。
 これで良かったのだと言い聞かせていても、頭の隅で反発しようとする自分が常にいて、何度も何度も問いかけてくるのだ。
 本当にいいのか。
 お前はそれで本当にいいのか、と。

「……分からねぇよ」

 政宗がじっと立ち竦んでいるのは、誰もいない天幕だった。
 中に居た人物が消えた昨夜と同じような体勢で、今は閉められている入り口を見つめたまま、正宗は動こうとしなかった。
 どれ位そうしていたのかは思い出せない。
 霧のような雨が、兜のない茶色の頭をじっとりと濡らしている。身体も随分冷えていた。けれど政宗は人気の無いこの場所に佇んだまま、ひたすら白い布地を睨むように見ている。
 ここに来て、どうしようというのか。自分でも良く分からなかった。
 昨日はいつの間にか自分の天幕へ戻っていて、空っぽな思考を持て余しながら無理やり就寝についた。変わらずにやってきた朝を思い、夢であったならばと馬鹿な事を考えたのか、気付けばこの天幕の前に立っていた。

「俺は何をしに来たんだよ……ここにはもう、誰もいないっていうのに」

 嘲笑いながら政宗はようやく声を出した。吐き捨てるような呟きは、自分に言い聞かせようとする色が濃い。
 そうだ。もうここには何も無い。
 自分の胸が、とんでもない空虚感を感じているように。
 自分の隣が、奇妙なほど広く感じているように。

 ――空っぽなのだから。


「政宗様、風邪をひかれます」

 自然と瞑っていた目を薄く開き、政宗は後ろを振り返った。
 眉を寄せた渋い顔をした小十郎が立っている。きっと朝餉の支度を告げに来たのだろう。天幕に主がいなかったことで、随分肝が冷えたはずだ。
 そういえば昨夜も小十郎が探しに来たのだな、と政宗は不意に思い出す。
 小十郎は前回の戦の際、目の前で政宗を狙われるという失態を悔いている。そのため心配性に磨きがかかったのだろう。だから今もこうして迎えに来てくれている。

「朝から小言か? 勘弁しろよな小十郎」

 政宗が元就を好いていたことを正確に知っている小十郎相手に、いつも通りの軽口は通じない。
 痛ましげに目を細めた彼を見上げながら、政宗は苦笑した。

「大丈夫だ。追いかけたりしねぇさ。それくらい弁えている」

 親しい相手が掌返して敵となるような時代だ。若年だが政宗とて奥州の長、伊達家の当主。己の立場など、生まれた時から知っている。
 だが小十郎が難しい顔をしているのは、きっと幼少の折から政宗を見てきた彼だからこその苦悶を感じているからだろう。
 追いかけたりはしない。嫌われようが、突き放さなければいけなかろうが、決してそれらを求めてはいけないのだと幼き頃から政宗は強いられてきた。
 だから今も、そうしようとしている。
 投げかけられる視線の意図を感じた政宗は、小十郎から逃げるかのように進むことのできなかった天幕へと手をかけた。
 昨夜よりも、そこは何だか妙に広く感じる。
 天気は悪いものの影が薄い室内は、政宗の狭い視界の中でも奥まで見ることが出来た。
 荷物の明らかに少ない部屋。もともと京へと逃げてきた元就の私物といえば、あのぼろぼろになった具足と、結局は衰弱死してしまったあの馬だけだ。
 伊達の仮屋敷にいた時も、彼が使っていたのは全て借り物。着ていた単から手をつけていた膳までもが、政宗の物か家主の物だった。
 部屋を見回したが、武具一足は何処にも無い。脱走する者が装備もせずに出て行くはずがないため、当たり前だ。元就が元々持っていた短刀も、政宗が護身のために持たせておいた刀も見当たらなかった。
 鎧兜に刀を返して欲しいわけじゃない。元々、あれは彼を守るために与えたも同然なのだから。

「……それすら計略だったのかもな」

 政宗は呟く。呟きは静かな天幕の中で良く通り、小十郎の耳にも届いた。
 彼を感じさせる物が何一つ残っていない部屋を、名残惜しみながら見渡す政宗は、背後で自分を見ている小十郎は何を思っているのだろうと考えた。
 きっと呆れているだろう。あれほど諌めたのに、結末は結局こうなってしまったのだと。
 騙されていたとしても構わないと思っていたのは、いつの頃だったろうか。今はそれがとても、軋んだ音色を胸の内に響かせた。
 だが政宗は、元就を想う気持ちにどうしても歯止めが効かなかった。
 自分の心情が如何に、毛利や伊達は関係無いと叫んだとしても現状は変わらない。そのことを承知の上で、政宗は元就の傍にいたがった。
 触れ合う時間が長ければ長いほど、今度は失う瞬間の訪れが恐ろしくなった。考えるほどに自分へ言い訳をして、拙い思考で願い続けていた。
 ――行かないで、と。
 喚いた内なる己が馬鹿らしくなり、政宗は哂った。
 もう忘れてしまえばいいのだ。次に合間見えるとすれば、敵か味方か。どちらにしろそれは毛利の元就であり、自分は伊達の政宗となる。
 個として想い合う事は、もう、永久に無い。
 自分は心を押し殺したまま、生きて行く。それできっと良いのだ。
 胸が痛くなる。違うだろうと叫ぶもう一人の自分がいる。けれど隣は空っぽだ。此処には何にもない。
 思い出なんて儚すぎる。昨日までそこにあったはずの生身の存在が、恋しい。
 だから忘れろ。忘れろ。忘れてしまえ。
 彼が好きだったという淡い気持ちも、忘れてしまえばいいのだ。それが正しい選択だ。
 辛いことも、寂しくなることも、元就のことを考えるたびに掻き乱されることも二度となくなるのだから。

 荷が置いてあっただろう空間を見つめていた政宗は、戦準備にしては不釣合いな物を目に留めた。
 漆塗りの黒い箱。不自然にずれて置かれている蓋の隅には、朱色の塗料で美しい紋様が一つ描かれていた。
 見覚えのあるそれに、まさか、と政宗は膝を付いて箱に手を伸ばした。
 指が震える。自分の呼吸音が煩い。
 ――開いた箱の中には、真っ赤な錦の織物。政宗が元就に贈った品。元就の物だといえる唯一の物。
 これだけは残されていた。残っていて、くれた。
 政宗は目を見開いたまま、ゆっくりと生地を指先で触れた。一度だけ着てくれた、元就の体温を思い出すかのように。
 要らないから置かれていったのだろう。それは政宗を否定していることに他ならない。
 哀しみが押し寄せ、同時に彼の片鱗が残されていたことに喜びが込み上げる。
 彼がここにいたということを、確かに表す唯一の物に縋りながら、政宗は声にならない慟哭を覚えた。
 薄ぼんやりとしていたはずのあの日の元就の微笑みが、奇妙なほど鮮明に浮かび上がる。だからこそ余計に、政宗は泣きたい気持ちに囚われた。

 ふらふらと天幕の外へ出て行った政宗を、小十郎はじっと見つめていた。
 赤い錦を掻き抱くその背中は、長身のはずなのにとても小さく見えてしまう。
 その肩に天下という重圧を乗せてしまえば、とうに崩れ落ちてしまうほど脆く感じた。
 夢遊病者のように憶測の無い動きで歩く彼は、確かに勇猛名高き伊達の独眼竜だが、恋しい気持ちの行く先が閉ざされ、今は彷徨うだけしかできない無力な青年でもあった。
 居た堪れない苦い気持ちが込み上げてきた小十郎は、視線を下ろして政宗の後に黙って続いた。
 だが、視界の端に映る主の抱き締めていた織物のことが頭から離れない。
 政宗は残されたそれに拒絶の意図を感じたようだが、小十郎は違った。
 無用のはずの戦場に、元就は何故あれを持ってきたのか。何故、蓋がきちんと閉まっていなかったのか。
 そして何より、と小十郎はそっと視線だけを上げた。
 箱に綺麗に収められていたはずの羽織の折り目が、崩れていたような気がしたのは気のせいだろうか。見事な刺繍の端が、微かに泥で汚れていたのは目の錯覚だったのだろうか。

「……まだ、空は晴れねぇか」

 嵐の気配は去らない。曇天を見上げながら、小十郎は込み上げてきた予感にひっそりと拳を握り締めた。
 離れた所にある政宗の背を、真っ直ぐ見つめる。
 逸らすことはもう止めようと決めた。政宗の想いも、元就の想いも、偽りなど無かったのだと傍で見ていた小十郎は当に分かっている。それでも認めることが出来なかったのは、己の立場を弁えているからこそ。政宗を思うが故だ。
 けれど今その主君は、目の前で道を見失ってしまった。
 野望も覇道も、政宗はこんな時でさえ抱き続けているだろう。家のため、民のため、家臣のため、何より自らが望む天下泰平のため。
 だが肝心の政宗は、政宗という人間は、人が人を想うという自然の道理すら満足に果たすことが出来ずにいる。
 ――それで本当に、彼自身は幸せになれるのだろうか。
 考えてしまえば、もう小十郎は後には戻れない自分という者を良く知っている。だからこそずっと答えを先送りにしていた。
 けれど、もう駄目だ。
 自嘲を浮かべながらもまるで泣いているかのように、たった一つだけ残された恋しい人の形見に縋る彼を見て。
 小十郎は、決意した。

「政宗様、小十郎は覚悟致しました。後は天が、貴方様に味方してくれるか否か」

 政宗はもう家族の影を追うだけの幼子ではない。
 愛し過ぎて臆病になるほど、誰かを一心に想えることが出来る。前さえ見つめれば、前進を恐れずに立ち向かえる強さを持っている、そんな男のはずだ。
 弱い自分に囚われていて、今はそれに気付いていないだけで。終わったと諦めているだけで。
 きっとまだ、本当は何も終わっていないはずだ。
 二人が紡いだ小さな物語は、こんな形で終わってはならないのだから。



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(2006/11/11)



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