参:泡沫の波間 -4-
本隊に奇襲攻撃をされたことにより、後退していた敵軍が勢いに乗って進軍してきた。その動揺が伝わったことと長時間の慣れない戦闘に耐え切れず、端から陣が崩壊し始めてきている。
このままでは負けるだろうと判断した政宗は、苦渋の色を濃くしながらも、全軍に撤退を言い渡した。
先程まで敵兵に怒りをぶつけていた小十郎も常の冷静さを取り戻し、諸々のことは自分に任せろと言った。すぐ側にいたというのに守りきれなかったことを悔いているのだろう。政宗は気にするなと苦笑いをしながら、その言葉に甘えた。
そうして僅かに落ち着ける時間が取れて、彼はようやく振り返ることが出来た。
甲板の上で、一人ぽつんと立っている元就の背中が目に入る。視線は遠のいて行く西を見やったまま、素早く去っていったかつて自分が率いていた水軍を思っているのだろうか。
隆景は最初こそ動揺していたが、父親に似て聡明であったためすぐに状況を理解していたようだ。
元就と対峙した状態で視線だけを巡らせ、成実の率いていた部隊が本隊に合流したのだと確認し、すぐさま自分の船へと引き返した。鮮やかな撤退に、ようやく政宗の船へと乗り込んだ成実が感心めいた溜息を吐いていた。
左翼部隊である彼がどうして急襲に気付いたのか、と小十郎は怪訝な顔をしていた。
成実は困ったような笑みを浮かべ、種明かしをした。
――この人が、小島を迂回する毛利の水軍を見つけてさ。政宗の所に連れて行けって、半分脅しで言われたんだ。
後半の言葉に小十郎は眉をつり上げていたが、政宗は複雑そうな視線を元就に投げただけだった。
刀を握った手が、引き攣ったような音を立てる。
元就様、と愛しげに呼んだ声音。あれが彼の帰る場所。いつか帰らなくてはいけない場所。
けれど浮かんだものは、酷い喪失感。
本当ならば元就の側にこうして立っていること事態が、奇跡にも近かったのに、一度隣にいられることの甘やかさを知ってしまったが故に離れることが苦しい。
ずっとそればかりを考えてきた。いつか、という日がずっと後になればと子供のように願っていたのに。
その日はこうして呆気なく訪れてしまった。
――行ってしまうのか。
奥歯を噛み締めた政宗は、堪らず元就に背を向けた。
命令を飛ばし、撤退することを決める。思考の中から少しでも元就のことを除外したかった。
なのに手持ち無沙汰になってしまった政宗は、無意識的に元就の背中を追ってしまう。
自分の意思の弱さに呆れるが、そこに元就が存在するだけで視線が攫われるのだ。見目の麗しさではない。纏う空気が。政宗を常に振り向かせる。
けれど、元就はどうなのか。
形にされた答えが欲しくないというのは嘘だが、どうしても聞きたいとも思えない。
精一杯の強がりをしながら、帰りたいかと本心を押し殺して尋ねたことがあった。
元就は、居場所があるならと、小さな声で答えた。
それは政宗の隣が決して元就の思う居場所ではないということか、いつか去るのだという遠回しな意思表示であったのか。
きっとそのどちらかだからこそ、元就も明確な答えを言わないのだろうと政宗は思う。
政宗の気持ちを知っても、彼が同じ言葉を返すはずがない。国を想うことだけで今まで自分を保っていた人だ。これ以上枷になるものを作るはずが無い。
ましてやはっきりと返された答えがもし否定であれば、どうすればいいのか政宗には分からない。故に、直接尋ねることなど出来るはずもなかった。
そうやって堂々巡りの葛藤する政宗に気付くことなく、元就はただ海を見つめている。
彼が共に行くと言ったのは、瀬戸内の戦に出るためではなく、望まぬ戦に出陣する毛利の者を見届けるためだ。会いたいからとは一言も言わなかった。
だが、出会ってしまったのだ。
ひたすら帰りを待つ人と、帰りたい気持ちを燻らせる元就がとうとう巡り合ってしまった。
出て行くと元就が言った時、政宗は拙い恋心が動かされるままに止めた。そんなの嫌だと子供のように喚いて、吐き捨てるように秘めておこうとしたものを告白した。
だが、今同じことを言えるだろうか。
伊達の世話になることを辞退し、小十郎に半分強制的に言わされた前回とはまるで違う。
死んでいった者達との約束を果たすため、主君を信じて生き残った者達に再び合間見えるために、元就は――毛利へと戻るのだ。
死地にて交わされた固く大きな誓いを覆せるほどのものを、政宗は何も持っていない。
――元就が行ってしまう。自分には、止める権利も術も無いから。
絶望感が胸に灯る。政宗は震えそうになる身体を必死に抑えながら、元就に何も言えないまま踵を返した。
潮風の揺らめきに気付いた元就がそっと顔を向けた時には、政宗の背中は人の輪の中へ紛れ込んでいた。
手を伸ばしたとしても、届くはずの無い距離。声をかけようにも、相手は既に指示を促して沈黙を保ったまま東を見つめていた。
二人の間に横たわった静寂が、得体の知れない化け物のように元就の前に立ち塞がっている。
政宗の後姿は、何も語ってはくれない。
無理を言って後退させた船の上から、政宗が斬られそうになった瞬間を見て、一気に血の気が失せたことを感じた。
日輪の下で輝いた白刃が、政宗の心臓を貫こうとしている。
不安定な足場など関係なく、彼の元へ一秒でも早く行きたいと願い――気が付けば助走をつけて勢い良く船を飛び出していた。
成実の慌てた声が背後から響いたが、元就は無我夢中だった。
――また手遅れになるのか。守られているばかりで、いつまでも自分は無力なままなのか。
割り込んだ瞬間、留め紐に刃が当たって兜は落ちた。頬を刀の切っ先が掠めたが、そんな痛みなど感じなかった。
毛利を相手に決して抜くまいと思っていた刀は、何の戸惑いも無く引き抜かれ、元就は政宗の前に割り込んでいた。
見開かれた彼の隻眼を眺め、ようやく安堵が満ちたというのに。
よりにもよって自分の息子が凶刃を向けていたのだと知った瞬間、元就は足元がついに崩れ落ちていく感覚を味わった。
政宗が油断していたのは、相手が毛利の兵だからだったのだろうか。彼らが死ぬことに対して、元就が少なからず心を痛めることを承知しているからこそ、政宗の刃は鈍ってしまったのだろうか。
自惚れだと以前の自分ならば嘲笑えただろう。けれどそう思えなくなっているほど、政宗と共に過ごした時間は長過ぎた。
このままだと自分は毛利ではなくなり、政宗は伊達ではなくなる。互いが互いの存在意義を見失いかねない。
約束は個として成り立っていた。だがそれは決して依存ではなかったはずなのに。互いを形成するものさえも失うことは、決して許されないというのに。
ならば、と元就は瞼を伏せた。
天下の器を持ち得、強運が味方しているこの気高き竜の側にいつまでもいられない。
自分の存在が足枷になり、政宗を地に縛り付けているから。
彼が行くべきは、広大なる天空。太陽ばかりに焦がれ、泥塗れになりながら空を仰ぐことしか出来ない、矮小な自分とは住む世界が違うのだから。
――それでも。
ここにはいられないと分かっているはずなのに、足先は動こうとしない。行きたくないと、我侭に喚いている。
他の誰とも違う形で、確かな自分を見つめてくれた竜の傍から離れたくないと、今すぐにでも追い縋りたいと元就の深層が叫んだ。
思考を掻き乱して行く感情の波に、元就はただ顔を俯かせることしか出来ない。
好きか、と成実に尋ねられた時に感じた奇妙なわだかまり。それが今も、瀬戸内の波音のように寄せては返す。
分からない。分からないけれども。ただ政宗に願う事は、たった一つだけ。
――同じ空の下で、生きていけるのならば。
高松城から元就を逃がしてくれた人々の顔が思い浮かぶ。今生の別れだというのに、皆清々しいほどの笑顔だった。貴方さえ生きていれば、と繰り返していた彼らは満足そうだったけれど。
本当はこんなに辛い思いだったことを、今となって元就は真に理解できた。
+ + + + + +
陸上まで引き上げてきた伊達軍は、張ってあった陣内へとそれぞれ帰還した。
結局は毛利勢の奇襲と富嶽のために、戦況は劣勢で終わってしまった。兵士達も士気が下がり、海上の戦が初めてだった者も多く、病人と怪我人があちらこちらで見られた。
このまま正面からぶつかり合っても埒が明かないだろうと判断し、政宗達は策を練り直し始めた。
折しも天候の悪化により海は荒れ始めた。こちらも四国へ渡ることは容易ではなくなったが、敵側も船を出せないということが不幸中の幸いだった。
そうして空いた時間を軍議に当てながらも、政宗の心中はどうにも晴れないままだった。
先日の戦で何となく要領は得た。次では挽回してみせようと、意気込みは周りの将同様にあるのだが、こうして一人になってしまえば考えるのは元就の事ばかりだった。
自分の前に飛び出してきた元就。
あれから思い悩むように西の空を見上げている彼に、政宗は何も言うことが出来ずに今日を迎えた。
傍にいて欲しいと戦前に思っていたはずなのに、今では一緒にいることが逆に辛い。本陣へと帰ってきてからの政宗は、元就に近づかなくなり、元就も政宗に声をかけることすらしなくなった。
政宗の天幕は陣の中央に存在し、警備も厳重だ。二人きりで会える場所などなく、ましてや陣の端に据えられた元就のいる監視付きの天幕へは、近づく勇気すらない。
あからさまに可笑しな二人の距離に、小十郎も成実も、本陣を総括している延元も眉を顰めていた。
そうして時間だけが経ち、今夜も政宗は天幕の天井を見つめながら彼の人を想う。
同じように一人で元就は何を思っているのだろうと、何度も何度も考えてしまう。
「Such …… I am unpleasant. あいつも、こんな俺を見て失望するだろうな」
弱音を乗せた自嘲を噛み殺し、政宗は立ち上がる。
天幕から出ると、雨足が弱まっていた。見張りの兵に労いをかけながら、政宗は篝火の少ない薄暗い端の方へと足を運ぶ。
縋ってきた元就に、逆に自分が縋るようになったのはいつからだろう。
亡くした馬を悼んでいた彼を慰めて、崩れ落ちそうだった身体を抱き締めた。あの体温を守りたいと、確かに感じていたはずなのに。
醜い右目を受け入れてくれた彼の、時折見せる優しい眼差しに、いつの間にか救われていたのは政宗の方だった。
先程の戦もそうだ。天下を取るのだろう、約束を果たすのだろうと暗にそう告げて、政宗を奮い立たせてくれた。
それはきっと、政宗を信じてくれているからこそ。
いっそ失望してくれた方が、別れが辛くない。母に毒殺されかけた時のように、嫌ってくれていると分かっているのなら衝撃が少なくて済むだろう。
――それでもまだ、信じていてくれることを期待してしまう自分がいて。
政宗は自身に向かって罵りの言葉を重ねる。
呪詛のように繰り返し、夜の道を傘も差さずに歩き続けた。
けれど呆気なく絶望は訪れる。
嗚呼、やはりいつだって虚無感を味わうのは自分なのだと、政宗は闇の淵を覗いたような気がした。
開きっ放しの天幕に、雨が容赦なく降り注いでいる。
倒された兵が何人か転がっていたが、政宗の意識は天幕に注がれたまま動かない。
遠くから届く篝火に照らされ、政宗の長い影が中まで伸びている。空っぽの空間の中を、虚ろな影だけが。
「政宗様! これは……」
自分の天幕を出た際に、見張りの兵が伝えていたのだろう。背後から小十郎が雨避けを持って現れた。他にも何人か一緒なのか、息を呑んだ気配がする。
しかしそんな反応も、政宗の中に何の感想も抱かせなかった。目の前にある現実の冷たさだけが、彼を内側を凍らせえていく。
「――た……」
雨音が強くなった。
長い前髪が政宗の額に張り付き、眼帯のせいで分かりにくい表情が一層読めない。
掻き消された呟きを聞き返したのは成実だったろうか。
「行っちまった……」
虚ろな視線を振り向かせ、政宗はもう一度だけ掠れた声を搾り出す。頬を伝う雨粒が、まるで涙のように見えた。
天幕には誰も居ない。ただ、一人ぼっちになった影だけが彷徨いながら伸びているだけ。
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(2006/11/01)
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