参:泡沫の波間 -3-
出陣した伊達軍は中国を経由せず、直接瀬戸内海へと船を出した。
中国は既に長曾我部の領内だ。地続きだからといって占領したとしても、その後の四国攻めの際に万が一、挟撃を受けてしまう可能性がある。
海の上で挟み撃ちになると、逃げ場は極端に少ない。
島が多く点在する瀬戸内だが、相手はその海を庭としている海賊と水軍。いくら数が多いといっても、船上の戦闘に慣れていない軍では苦しい戦況になる。
逆に東側からの上陸作戦の場合、もしも撤退を余儀なくされた場合でも背後は全て伊達の領地だ。都もあるため、物資の補給も容易い。
すらすらと作戦を述べていく小十郎を横目で見ながら、政宗はそっと溜息を付いた。
視線を前に戻すと、青い御旗が立てられた船が幾つも海に浮かんでいる。政宗の乗っている大将旗の掲げられた船は、それらよりも一層重厚なものだった。
けれど彼は、二隻ほど向こう側に浮かんでいる船のことの方が余程気になって仕方が無い。
陣を布く際に、政宗と元就は離れた。
軍師の立場でもある小十郎が、政宗の隣に立つのは軍内では暗黙の了解である。これに異論はあるはずも無かったが、政宗は当然元就を側に置きたがった。
しかし、これを止めたのは他ならない元就だった。
政宗は自ら前線へと飛び込む破天荒な武将だ。それでも指揮系統が狂うことなく動くのは、周りを見る政宗の慧眼と、下される命令を聞き逃さずに的確な指示を飛ばす小十郎のおかげだ。
雷のように敵陣へと駆ける政宗と共に行くことは、元来待ちの形で策を巡らす元就にとって、体力的にも無理な話だった。
何より戦力が片寄っていては話にならないと、元就は渋る政宗へ呆れたような視線を投げていた。
正論を並べられ、さらに小十郎からの進言もあったため、元就は布陣の左翼側の船へと乗せられた。
足手纏いになりたくないと、少しばかり哀しげに伏せられた顔を見下ろしてしまった政宗は、強い反論を飲み込む他無かった。
けれども不安は尽きることがない。
共に行くことを許したのは、彼が視界の中からいなくなってしまうことを恐れたがため。
こうして離れている間に、戦の混乱に紛れて何処かに行ってしまうのではと、臆病な自分が顔を出してしまう。
元就とて武将なのだ。自尊心の高さも相成って、守られてばかりいることも、何もさせてもらえないことも焦燥感を感じているはずだろう。
玲瓏な横顔は、本心を何も語ってはくれないけれども――。
元就のいる船を見つめていた政宗は、晒している片方の瞼を閉じた。
あの西海の鬼との戦い。以前相手にした時も、似た者同士である男との戦は妙に楽しかった覚えがある。
自然と湧き上がってくる独特の高揚感を感じながらも、心持ちはどうしてもすっきりしない。
これの感覚は何かの前触れなのだろうか。あの三日月の夜、元就と出会った時のように。
幼い頃から身に付いてしまった嫌な第六感が、今日ばかりは当たらないで欲しいと政宗はそっと願った。
鬨の声が上がり、瀬戸内の海上で大きな戦いの火蓋が切って落とされた。
事前に立てておいた策の通りに両翼の部隊が先行し、前線に浮く長曾我部軍と相対していた。
左翼側の総指揮を執っている成実は、砲撃戦を繰り広げながら徐々に狭まる敵軍の船との距離の近さに、思わず生唾を呑み込んだ。
陸上との勝手の違いから、兵士達の心中には少なからず不安感が芽生えているだろう。成実自身も大規模な海上戦が初めてだったが、持ち前の明るさで士気が下がらぬように鼓舞していた。
だけど、と成実は隣に立っている人物の横顔を見やる。
「小隊は迂回しろ! 鉄砲隊、十分引き付けよ!」
青の鎧に包まれた細い腕が、指示を次々と飛ばしていく。淀みの全く無い真っ直ぐな声は、与えられた側の迷いを吹き飛ばすような勢いがあった。
小十郎が彼を戦に出させることに承諾した本当の意味が、今になって成実は分かる。元就が政宗のいる本隊ではなく、別隊へ配置されることを望んだ理由も。
「噂に違わぬ指揮能力だな。アンタがいてくれて助かったぜ」
「ふん、戯言を」
少し褒めれば、慌てたようにそっぽを向く。成実は苦笑が浮かべ、政宗が熱心なのも何となく分かったような気がした。
元就の飛ばす命令は、長年前線に立ち続けている成実から見ていても、成る程と唸るほど的確であった。これだけ思い切りの良い言葉を聞けば、従う者も奮い立つだろう。
成実は軽口で元就を褒めていたが、実は本心そのものだったりする。
これだけ大部隊に膨れ上がっている伊達軍だ。軍内の一部とは言え、自分一人では細かい軍略や戦術を考える余裕がなくなり、統率するだけで手一杯にだろうと成実は踏んでいた。
政宗は元就に指揮権はやらないとは言っていた。しかし、所在無さげに海を見つめていた元就へ冗談交じりで軍師役を与えてみると、これがまた戦況運びが滞りなく進む。
結果として成実は、部隊を纏めながらも敵に集中することができるようになっていた。
渋っていた政宗を思うと、大声では言えないが。
元就が本隊から離れると言い出した時、あからさまに安堵の溜息を吐き出したのは小十郎だった。
きっと元就は、自分の存在が政宗にとって良くないことを自覚している。
最初はそう思って言ったのだろう。兜の影で見えなくなった横顔が、何となく寂しげに成実は感じていた。
政宗は驚愕を露わにし、何故、と問い詰めた。
その場には成実の他に、小十郎と延元しかいなかった。何事にも動じない彼が、滅多に見せない揺らいだその声音に、周りに一般将校がいなくて良かったと正直成実は思っていた。
――政宗の表情は、母親から否定された幼い頃のものに良く似ていたのだ。
対する元就は、そんな顔をずっと前から知っていたかのように、ただ見つめ返していた。
二人は暫し無言で互いを見て、先に視線を伏せたのは元就の方だった。
気まずい空気を察したのか小十郎が進言し、政宗は口を噤んだ。そして成実はその二人に呼ばれた。
政宗は成実に元就を頼むと命じて、逆に小十郎は彼を監視するよう告げてきた。
双方が抱えている意図の擦れ違いを歯痒く思いながらも、成実は首を縦に振ったのだった。
現状を見れば、小十郎はきっと眉を顰めるだろう。
困ったように笑った成実を、怪訝な表情で元就が一瞥した。
――裏切るようなら、内通しているようなら、容赦なく切り捨てろ。
小十郎は、そう言った。
だが元就はまるで自分の軍にいるかのように、成実を大将として立てながらも手足の如く部隊を操ってみせた。成実が監視役であることを理解しているのにも拘らず、だ。
詭計智将という別称は飾りではなかった。
何度目かの納得を覚えながら、成実は接した敵艦の兵を迎え撃つ。元就も隣で刀を抜いた。
「なぁ、アンタはさ、政宗様のことをどう思っているんだ?」
戦闘中に不謹慎だと思いながらも、どうしても聞きたかった事をそっと口に出した。一応は外なのだからと、政宗に敬称を付けることも忘れない。
元就と二人だけでいる場面は、きっと今後訪れないだろうことは予想が付いている。ほんの少し行動を共にしただけで、隣の男が政宗と同じように――更に上を行くほど、素直ではない性格なのは分かっている。
だからきっと、政宗の前では聞けないから。
「好き、か?」
場違いな話題に瞠目した元就に、成実は再度問い詰めた。
兜の影の下で見開かれた目はゆっくりと伏せられ、戸惑ったように視線が地を這った。
「……分からぬ。分からぬが、我はあやつに――」
消え入りそうな言葉に、辺りの喧騒と激しい波音が覆い被さった。
それでも、成実は確かに元就の声を聞いた。
――死んで欲しくないのだ、と。
開戦して半日ほど経った。ぶつかり合う最前線は、徐々に西側へと移動していた。伊達軍が数で押した結果だ。
しかし、これより西へは無闇に進めないことも両軍は理解している。これ以上四国側に近付くと富嶽の射程に入るのだ。
大筒の巨大な弾丸のでは前、船一隻など簡単に沈まされる。実際に前へ出過ぎた伊達の船が十数隻、既に落とされてしまっていた。
運良く外された時もあったが、落下した弾によって大きな波が生まれてしまい布陣が崩れ、そこを叩かれていた。
だが膠着状態も長くは続かない。
政宗率いる本隊は後退した敵を追いかけていたが、小島から回り込むように現れた緑の旗によって阻まれた。
完全に裏をかいてきた攻撃に、政宗は知らずの内に唇を噛み締めた。
旗に描かれているのは、一文字に参の星。
予想しきっていたことだが、苦いものが込み上げる。
元就があれほど気遣っていた相手を、この自分が殺せるのか。死なないでと祈っていた相手を、死なせることが出来るのか。
「……だが本来なら、其処がお前のいる場所、なんだよな」
無意識に呟いた言葉に、思った以上衝撃を受けた。
政宗は自嘲し、それから顔を上げる。竜に残された左目が、鋭い眼差しで正面を見る。
哀れみと戸惑いと躊躇を抱きながらも、最も強く浮かんだのは馬鹿な嫉妬心。いつか返す日が来るというのに、渡したくないのだと稚拙で我侭な気持ちが胸を刺す。
太刀を握り直しながら、政宗は迫り来る毛利の水軍を睨み付けた。
砲撃の応酬を何度か繰り広げ、両者の旗艦同士がぶつかり合う。渡された板の上では青と緑が行き交い、鍔迫り合いの音が船上を多い尽くした。
自分と背中合わせになって敵兵を切り裂いていく政宗を、小十郎は視界の端でずっと捉えていた。
いつものように笑っている政宗だが、時折翳りを落としたように目を伏せている。追悼の意を込めているのか、内心で謝罪しているのか、小十郎には真意は読めない。
それでも政宗が今、誰のことを考えているのかだけは分かる。
心を引き摺られながら戦えるほど、戦場は甘くは無いというのに。
「政宗公、覚悟!」
小十郎の懸念を覚えたその直後、政宗の死角である右側から殺気が迫った。
二人は一斉に、右へと刀を向ける。普段から政宗の右側から攻撃する者は多い。そのため、いくら死角だといっても対応は早くなっている。双竜の爪は容赦なく振り下ろされた。
だが刃を向けてきた将は、踏み込んでいたはずの足で素早く間合いの中を動いた。予想を裏切り、左へと。
空を斬った刀はすぐさま切り返すことが出来ず、政宗は顔だけをそちらへと向けた。
徴収された兵かと思えるほど年若な将だったが、刀を握る手には迷いがない。小柄な体格ではあるが、それよりも鋭い眼光が政宗を捉えている。
敵と認識した者は、是が非でも排除するとする双眸。
元就も戦場ではこんな目をしていたのだろうかと、政宗はぼんやりと思った。
――だから。
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
政宗と凶刃の間に滑り込んだ、青も緑も纏っている人影が一体誰なのか。
「政宗様、ご無事ですか!」
取り乱したような小十郎の声を聞きながら、政宗は唖然と佇んでいた。
先程まで政宗の身体を切り裂こうとしていた刀は、弾かれて甲板に突き刺さっている。庇った際に刃が当たったのだろう、兜が一つ転がり落ちた。
襲ってきた将は帯刀していたもう一つの刀を抜き、政宗を庇った背中と対峙している。
纏う青の具足とは作りの異なった籠手と臑当。兜は無く、淡い色の髪が海風に揺れている。
僅かに振り向いた横顔は、間違いなく元就だった。
「死なぬのだろうが戯けめ。天下を掴む野望を曇らすな」
切れ長の目が射抜くように注がれ、政宗はようやく下ろしかけていた腕に力を込めた。
呆けていた表情も持ち直し、独眼竜の顔が現れる。
それを見届けた元就は薄く笑い、対峙している将へと視線を戻した。
「……元就様?」
呼ばれた名前。呼んだ名前。
互いに見開かれた瞳。彩られたのは、驚愕か、落胆か、歓喜か、それとも――。
蒼白になった元就は絶句したまま、背筋を震わせた。
信じられないといった顔付きで、同じように呆然と立ち竦む将を見つめたまま身動きが取れなかった。
対しているのは毛利の軍。このような廻り合わせがあると、予想は付いていたはずなのに。
「生きて……生きておられたのですね、父上!」
目の前に立つ若い武将――小早川隆景は、泣き出しそうな表情で微笑んだ。
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(2006/10/28)
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