参:泡沫の波間 -2-



 波音が聞こえる。懐かしき、瀬戸内の潮騒だ。
 元就が逃げ出したあの日、全てを奪いつくすかのように城に流れ込んできた水音と良く似たその音色。それが今では、こんなにも穏やかに聞こえてくる。
 家臣に持たされた護身用の小太刀――何かあれば毛利の足枷にならぬために腹を切る。そのための刀だと以前までは思っていた――が、身じろぐ度にかちゃりと鳴り響く。その隣に挿されている、政宗から貸し与えられた刀と鞘がぶつかるのだ。
 己の今の姿をそっと見下ろし、元就は軽く瞼を閉じる。
 着込んでいるのは毛利の装束ではない。元就の着ていた戦装束は影武者を立てる際に殆ど剥ぎ取られていたし、残った装備も逃亡の妨げになる物は全て脱いでいる。残ったのは籠手と臑当。それも泥に塗れて傷だらけだった。
 政宗はせめてもと思い、修理をさせてみせたが、完全には修復しきれなかった。
 戦場に立つ以上は具足を揃えねばならず、足りない部分は伊達軍の物を着ている。
 見慣れぬ青い自分の姿を確認する都度、元就は毛利を失ってしまったのだと改めて実感していた。

 そんな、籠手と臑当だけが違う見慣れない武将に、兵士達は当初首を捻っていた。毛利の総大将であった男がまさか自軍にいるとは思わないだろうが、小十郎を初めとした親しい家臣以外の者を引き連れていることに驚きを隠せずにいた。
 だが、用心深い政宗が後ろに控えさせている姿を見た者から、不平や疑問の声は上がらなかった。
 流石に指揮系統を司る上部の武将達には黙ったままとはいかず、この日、事情を知っている小十郎と共に政宗自らが直接伝えることとなっている。
 言い出した側である元就は、彼が困ったように苦笑を浮かべるたび、何となく目を伏せずにはいられなかった。
 瀬戸内の海を臨む海岸で、軍議が始まる。
 元就は元から知略を使っての戦が得意であるため、無論同席を促された。事情を話すためにも側にいた方が良いのだろうと元就は考えていたが、政宗としては彼を天幕の中で一人にさせたくなかった。
 見慣れぬ者の出現に、一同はざわめく。
 政宗は淡々と元就の前を歩き、素知らぬ顔で奥の席へと着いた。隣には小十郎が座り、元就は二人の後ろに立つ。席は用意すると言われていたが、元就は遠慮した。

「明日の進軍についての前に、お前らに話しがある」

 政宗は、誰かが何かを言い出す前に切り出した。
 元就の方を向いていた、好奇の視線が一気に主の元へと集まる。灯火の中で爛々と光る竜の隻眼を、誰一人臆すことなく見つめ返す。
 その光景を眺めていた元就は、兜の影に身を隠すように俯いた。
 自分を畏怖していた兵士達は、皆一様に視線を合わせようとはしなかった。元就に殺されないように、恐々とした様子でいつも遠巻きにしていた。
 だから、嫌われているのだと思っていたのに。

 ――顔を覚えているか?
 ――名前を呼んだことはあるのかよ?

 不意に、左目を隠したあの男の声が過ぎっていった。

「四国攻めにはこいつを連れて行く。長曾我部との戦の経験あるからな」

 まるで元就を現実に引き戻すかのように、低い政宗の声音が天幕の中に響いた。
 上座を向いた将達は唖然としている。ここにいる自分が、毛利元就なのだと説明が終わったのだろう。小十郎が居心地悪そうに眉間に皺を刻んでいる。
 黙り込んでしまった一同の中、政宗に近い席に座っていた若い武将が最初に口を開く。
 政宗の従弟である伊達成実だった。

「小十郎は知っていたんだな?」

 疑問としてではなく、念を押すような口調。
 その質問に対し、少しだけ間をおいてから小十郎はゆっくりと頷く。政宗の心情を間近で聞いた彼は、既に腹を括っている。
 じっと小十郎を見つめていた成実は、その動作をしかと見送った後で大きな溜息を吐き出した。

「……ならいいよ。政宗様大事なお前が決めたんなら、俺は何も言わねぇ」

 成実殿、と叱咤するような声が飛んできたが、成実はただ苦く笑うだけだった。
 政宗と小十郎の間に流れている気まずそうな空気には、京に滞在していた時から彼は気付いていた。
 政宗の不利となるようなことならば、幾らでも諌言するはずの小十郎が黙っている。ならばきっと、戻れない場所に政宗が踏み込んでしまったのだろう。小十郎が受け入れる他無いと思っているのならば、それを政宗自身が望み、自覚もしているということに他ならない。
 そこまで分かっていた成実だが、政宗の抱えているものの正体だけが不透明だった。
 しかし、天幕に現れたこの場にいるはずのない者を目にした時に全てが符合した。
 ――亡国の主、毛利元就。
 政宗が大事に抱えているのは、きっと彼の存在そのものだ。

「毛利の大将なら詭計に長けているだろうし、瀬戸内での海上戦も熟知しているだろ? 正直、どうやって攻めようか悩んでいたんだよなー」

 軽い口調をそのままに、成実は肩を竦めてみせた。
 騒然としていた場が微かに和らいだことを感じ、隙を見て小十郎が閉ざしていた口を開く。

「……差し出がましいことでございますが、政宗様」

 目を向ければ、感情を押し隠した竜の隻眼とかち合う。無言の圧力が肩にかかったような気がして、知らずに背中に汗が伝った。
 小十郎が主の目を掻い潜り元就を追い出そうとした事を、政宗は今でも引き摺っている。申し訳ないという思いと、逆に己の恋心を阻もうとする者への微かな苛立ちを含んだ視線は、小十郎を居た堪れない気持ちにさせた。
 だが政宗の心中と、今から行う戦は別物だ。小十郎は言葉を鈍らせることなく、平素通りに冷静に伝えた。

「長曾我部には毛利の軍が併合されております。故に皆は毛利殿を間者か、もしくは中国奪還のために我が軍が利用されるのでは、と心配なのです」

 家臣団の筆頭である小十郎の真っ当な言葉に、うろたえていた面子もようやく静かになる。
 身動ぎせずに視線だけを巡らせていた政宗は、不意に隣に顔を向けた。
 元就は前を向いたまま平然としている。無表情を装うその仮面の下で一体彼が今、何を考えているのだろうかと政宗は歯痒く思う。

「貴方の考えをきちんとお伝え下さい。このように皆の心が乱れれば、この先の戦、決して勝てませぬ」

 この場にいる者の代弁をするかのように紡がれる、小十郎の固い声音。
 政宗は顔の位置を戻し、一同の不安そうな表情を見渡す。成実は傍観者に成り下がったようで、飄々とした態度を崩した様子は無い。

「軍師としての才を買ったのは本当だ。だが、采配も指揮権も執らせる気はねぇ。連れて行くと決めたのは、戦術や政略なんかとは全然関係ない、俺の個人的な理由なのさ」

 我侭と言われればそれで終わり。愚かな大将だと思ってくれて構わない。
 けれど――だけど。
 子供のように弱々しい語尾を重ね、政宗は小さく頭を垂れた。
 言葉は続けられなかったが、誇り高い政宗のそのような姿を見ただけで、どれほどの情念が込められているのか、付き合いの長い彼らには良く分かる。
 迷わなかったはずは無いだろう。若年でありながら奥州を平定したほどの実力を持つ政宗は、昔から聡い子供だった。小十郎や成実と同様に、彼らもまた政宗と長く共に過ごしている。
 だからこそ彼の隠された苦悩に気付く。深い葛藤を覚え、きっと決断するかどうか悩んだはずだ。政宗は自分の行動がどれほど混乱を招くか理解していた。それでも、選んだのだ。
 ならば自分達は、彼を信じることだけが最善の道。小十郎が、成実がそうすることを選択したように。

 諾、と答えた一同を見据えていた元就は、瞼を伏せた。
 ここにいるのは政宗を盛り立て、盾となり剣となる者。そして、政宗が守らなければならない者達――自身では、守りきれなかった人達。
 戦地が近づいているせいだろうか。酷く感傷的な己に、元就は自身の基盤が確実に崩れ落ち去りかけていることを自覚する。
 毛利の光を掲げるには弱すぎる。けれども、それを求めていた者達と理解し合うには必要だった個の性質。
 強くて、気高い竜の声が響く。
 人を惹き付けてやまない孤高の魂を持ちながらも、人としての形を失わない政宗の佇まいは、元就にとって一層清々しくて眩しいものだった。
 隣にいる隻眼の男も、海の向こうにいる隻眼の男も、どうしてここまで鮮烈な輝きを放ちながら、その眩しさに飲まれることなく強くあれるのだろうか。
 今もこうして、政宗に守られてしまう立場であることが元就は何故だか急に惨めな気がしてきた。
 生温くて居心地が良い。
 だけど、ここでは毛利としてはいられない。
 政宗として、元就として、稚拙な約束を交わしたのだけれども。二人の間にはどうしても越えられないものがあって。
 跳ね除けていたもの。見捨ててきてしまったもの。もう二度と戻らないかもしれないそれらを髣髴させるこの場所で、浅ましい無いもの強請りばかりして。
 そういう意味では、ここはある種の生き地獄でもあって――。

「おい、大丈夫か?」

 低い声が自分を呼んだ。
 元就は緩慢な動作で顔を上げて見れば、政宗が下から覗き込んでいた。
 軍議は終わっていた。事前に長曾我部軍についての話は政宗と小十郎に言ってあったため、元就は一言も発言をしなかった。元々外部の者であるのだから、横槍をいれるようなことをする気もなかったのだが。
 鋭い政宗の眼光は、今は少しばかり弱い。
 自分のせいだろうかと元就は思う。温い楽園に浸り過ぎたせいで、この北の国の王も生来の気性を忘れかけてしまっているのだろうか。連れて行けなどと、馬鹿な言動を無理して受け入れてくれたせいで、これから戦だというのに気疲れしているのだろうか。
 ――もしもそうならば。
 自分という存在のせいで、刀身の如き政宗の輝きが穢れてしまったというのなら。

 ――約束は、血生臭い世界で脆く敗れ去ってしまうのかもしれない。再び大切な者を失うという、酷く残酷な形で。

 砕かれかけていた足場が、本当に壊れるような感覚に襲われた。
 元就はただ籠手に隠された拳を握りこむだけで、駆け上がってくる寒気をじっと耐える。
 顔は青褪めていないだろうか。気付かれてはいないだろうか。
 そればかりが気になった。

「……ふん。明日は早いのだろう。貴様の方こそ、そのような体たらくでは士気も上がらぬぞ、独眼竜」
「Oh, つれないねぇ?」

 先程までいた将達は既に席を立っている。残っているのは上座の近くにいた者達だけだ。
 天幕を出て行く者達に紛れて去って行く元就の背中に、性質の悪い笑みを浮かべた政宗が細めた目を向ける。
 いつもの軽口。皮肉めいた物言い。一見すれば仲違いはしないものの、悪態ばかりを吐き合う仲にも見える二人。
 それでも政宗の視線が、去って行く元就の後姿に釘付けになっていることを小十郎は見ていた。
 それでも元就の視線が、政宗を振り返らぬように痛ましいほど真っ直ぐだったことを成実は見ていた。

 気付かないのは、二人だけ。



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(2006/10/18)



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