参:泡沫の波間 -1-



 朝から伊達軍の借家は、人の出入りが激しかった。慌しく下働きの者達が行き交い、武士達もそれに混じり荷を纏めている。
 お武家様が手伝わなくても良いと、泣きつくような女中の声があちらこちらで響いたが、地方の山奥、田舎に属する奥州出の武士達にとってはこれが当たり前なのだから仕方無い。
 元々じっとしていることが嫌いな性分の軍だ。これくらいが丁度いいのだろうと、政宗は通りを眺めながら思っていた。
 流石に身分ある政宗が手伝うことは許されなかったので――無論、古巣の国許でも止められている――今は妙な時間が空いている。
 政宗の部屋も荷物が運び出され、がらんとしていた。
 短期間ではあったが、綺麗な思い出ばかりが残されている部屋。そこが何も置かれていない広い畳だけとなっている姿を見ると、何だか物悲しかった。

「溜息なぞついて、何とも間抜けな面になっておるわ」

 少しばかり呆れた調子で元就は声をかけてきた。縁側に座っている政宗は、必然的に相手を見上げることとなる。
 しかし持ち上げた視界は、何か赤いものに覆われていた。政宗はぎくりとする。

「飲むか」

 腰を折って差し出された湯飲みに、元就が持っていたのは漆塗りの盆なのだと気が付く。
 取り繕うように苦笑いしながらも、内心では慌てて陶器を受け取った政宗。何故そのように妙な緊張が走ったのか、自分でも解せない。
 戦場から遠ざかっていたせいだろうか。血を彷彿させる色が元就を覆うと、時折恐怖にも似たような感情を呼び起こす。
 それをはっきりと自覚したのは、元就が赤い羽織を纏った時のこと。彼が好む碧色に映えて似合うだろうと自分から贈った物だったというのに、訳も分からずそれを剥ぎ取ったことがあった。
 とにかく怖かったことを覚えている。
 政宗の可笑しな行動を呆然と見送っていた元就は、それではこうしようと言って、京の匠が作った赤い錦を大事にしまってくれた。
 時折その羽織を掛けて眺めているのだと、元就が起きてから世話をさせている女中達が微笑ましげに教えてくれた。それを知った時は無性に嬉しかった。
 だからこそ久方ぶりに感じた、この焦燥感にも似た感覚に、政宗は思わず顔を強張らせてしまったのだが。

 茶を受け取った政宗は、左側に腰掛けた元就を横目で見る。
 あれだけ間抜けな告白をしたというのに、相手の態度はさして変わった様子はなかった。
 ただ、出て行くということは言わなくなった。
 聡明な彼のことだ。今はまだ選ばずとも、選択肢の一つとして元就の中にはきっとその答えが存在している。
 だが少なくとも政宗は、相手が毛利元就だと知ってもなお、傍にいることを望んだ。その意を汲み取っているのか、時折報告へやって来る小十郎に顔を伏せるだけで、元就は相変わらず政宗の隣に納まっていた。
 主のことになると生真面目な小十郎は、勿論良い顔などしなかった。行きずりの相手に政宗が本気の恋慕を抱いているなど、本来ならば認めたくなかっただろう。
 相手は女でもなく、市井の者でもなく、顔を合わせることも稀少であっただろう西国の覇者。
 そんな相手でなければ、小十郎にはきっともう少しましな顔をさせられただろうに――。
 政宗は小さく自嘲を浮かべた。
 政事や世間への体裁を抜きにしたとしても、小十郎自身が複雑な心中なのだろう。それでも、いつだって文句を言いつつ我侭に付き合ってくれている彼に、政宗は何度感謝しても足りないくらいだと思った。

「何を笑っておる」

 茶を淹れてきたことが珍しくて笑われたと思っただろう元就が、少しばかり不機嫌そうに眉を顰めた。

「いいや。俺が天下を取ったら、第一の功は小十郎にあるんだろうな、って思っていたのさ」
「片倉か」

 啜りながら答えた政宗に対し、元就は鼻で笑いながら湯飲みに口をつけた。
 先日のしおらしさは何処へやら、今ではこれだと政宗は口の端を上げてしまう。
 政宗も人の事を言えないのだが、謀将と名高い元就はそれ以上に公の場では大化けしてしまうのだろう。丸裸となった感情はあんなにも綺麗なのに、彼はそれを弱みとして隠すことに慣れている。
 約束をしたあの日、元就は心身ともに疲れ果てていたため、政宗は直にそれと触れ合った。干渉を拒む節のある政宗が元就に惹かれたのも、それが一因であったことは確かだ。

「口は悪いが良き臣下だ。身内のように育ったと聞いたが、そなたのことを慈しんでおるのだな」

 政宗はぼんやりと、朝陽の中で目にした花の笑顔を思い出していたが、当の元就との会話の最中だったと頭を現実に引き戻す。
 振り向いてみれば、元就はじっと通りを見つめていた。
 これから戦に向かう兵士達の、一挙一動を記憶に焼き付けるように真っ直ぐと。

「あれらも、朝から良く働く」
「奥州はど田舎だから人情があるというか……ああやって手が空いてりゃあ、色んな奴が湧いてくるように手伝いにきやがるんだ」

 遠くの故郷を思いながら同じ光景を眺めていた政宗は、ふと表情に影を落とした。
 元就は家臣達に逃がされ、上げられた首も影武者だったと聞いている。駒の命など顧みない冷酷な将として知られていた彼が、その者達によって今こうして生かされている。
 ――本当に愚かなのは誰だったのであろうな。
 事の顛末を語った後、元就がぽつりと漏らした些細なその一言にも、その時の後悔が滲み出ているような気がした。
 元就の軍には彼の息子達も従軍していたはずだ。彼が家督を継いだ時から共にいる家臣達も多くいただろう。彼らを死地に置いてきた事を元就がどう思っているのか、彼自身は多くを語らないが政宗は知っている。
 死なないでと、うわ言のように繰り返していた白い手を。死んだ者に何が出来るのだと泣き出しそうに俯いていた横顔を。
 政宗は、すぐ傍でそれを見てきたのだから。
 そうした心中は分かるというのに、元就が当の政宗をどう思っているのかは分からなくなった。
 好きだと言ってからも変わらぬ態度は、政宗と同じ意味で好かれているからなのか、ただ約束のためにそこにいるのか。
 恋を自覚して想いを吐き出した後、今度は自分の存在は亡くした人達の代わりとしか見られていないのではないだろうかと、政宗の中に後ろ向きな不安ばかりが湧き上がった。
 そもそも返事を貰うために言ったわけではないのに、己の身勝手さに苛立つ。同時に、これほど自分は弱かっただろうかと自問してすることも多々あった。
 それでも、この数日間は満足だったのだ。
 しかしそれも、今日まで。
 政宗は唇を噛み締めた。長めの前髪が視界を覆う。
 明日には、西へ出陣しなくてはいけない。
 元就が逃げてきた長曾我部との戦場へ、自分は赴かなければならないのだ。
 体調はほぼ回復している元就だが、彼を全て失くしたあの地へとは連れてはいけない。連れていきたく、なかった。

「……帰りたいって思うか?」

 内臓がじくりと痛む気がする。
 あれほどの消沈を見せた元就が、自分の国を取り戻したくないはずがない。いつの日か故郷へ戻りたいと考えているはずだ。
 だが、政宗は嫌になるほど知っている。平和な都だとて、本能寺のようにいつ戦場になるか分からないこの時世。戦に赴き、無事に帰ることがどれほど難しいのか。
 自身に死ぬ気は全く無い。けれど元就の安否を考えれば、連れて行くかと問われれば無論、否である。
 政宗がいる伊達軍にも、対する敵である長曾我部軍にも、元就の存在が公となれば、四面楚歌になりかねないほど彼は危険な状態に陥る。
 元就は微かに瞠目し、政宗を見た。視線が交わる。
 政宗は今、自分が情けない顔をしていないか少し心配だった。
 出て行くと言った元就を引き止めたのは自身なのに、その口で今度は突き放さなければいけない。我侭以外の何者でもないその行為を自覚し、元就の前だと子供っぽい感情が露出してしまう自分の表情が気になったのだ。
 しばし無言であった元就は、伏し目がちな瞳を手元に下ろして呟いた。

「……そこにも、我の居場所があるというのなら」

 知らずのうちに手元に力が入っていたのか、六爪を操る握力によって陶器がみしりと軋んだ。
 政宗は、肺に溜まった空気の塊を吐き出すように呼吸を漏らす。

「明日、瀬戸内へ発つ。あんたは残――」
「独眼竜」

 腹を決めて放った言葉は、低く響いた呼び声によって遮られる。
 弾かれたように元就の方へ向き直った政宗は、自分を真っ直ぐと見つめる二つの目とぶつかった。

「我を連れてゆけ」

 鋭く煌く眼差しは、竜と謳われる政宗と同じように王者の気迫が映されている。
 政宗は不意に思い出した。いつか聞いたことのある、毛利の守護者の話を。天高く飛ぶ、気高き陰陽の鷲と言われていた元就を。
 長曾我部には毛利の残党が組み込まれている。伊達はそれらと戦うのだ。ならば、自らの下知で動かされるわけではない者達だとしても、毛利の行く末を己の眼でしかと見届ける義務があると、元就は言った。
 自身に力がないために、命を奪われた者のため。守れなかったばかりに、助かった命をも散らさねばならないかもしれない者のため。
 心が国に向いたままであることを、好いた本人の口から知らしめられたことに政宗は軽く諦念を思う。
 責任や背負ったものを簡単に捨て去るような人であれば、こんなにまで惹かれなかったのも事実だが、子供のような独占欲が蠢く感覚がした。
 同時に、いつだって浮かぶのは自己嫌悪。

「約束を……したのだ。安芸の地へ帰ると。伊達が負ければ天下は長曾我部へと転がり込む。我の存在もいつかは漏洩する。その時には、二度とあの地には帰れぬだろう」

 独り言を呟くように、遠くを見つめる元就。
 衝動的に、誰を見ているのかと政宗は問いたくなった。一族を想うものとは違う意が含まれた、微かに虚ろな視線は何を映そうとしているのかと。
 ――どうして、自分を見てくれないのか。
 自分だって約束をした。彼も受け入れてくれた。
 なのに。
 こんなにもはっきりとした溝が、政宗には見えてしまった。
 楽園が枯れていくと感じたあの日のように。哀しく、虚しく、悔しい気持ちが織り交ぜて胸に降り積もる。
 死なないと言った約束。
 側にいられる保障のない、頼りない約束。
 女々しい己の思考がうざったかった。それでも少しでも長く彼といられる道を選んでしまう、馬鹿な自分がいる。
 置いて行けば安全。側にいれば危険。
 そんな簡単な二者択一にも揺れて、遠くない未来に怯えて、今この瞬間のためだけに愚かな答えを選んでしまう。
 ここにいるのは、政宗という名の人間。誰かと寄り添わないと生きていけない、何処にでもいるただの人。竜などと見栄を張って、背伸びをしている一人の青年。
 目の前の人に心を奪われた、憐れなただの人間なのだから。

「そなたが許すというのなら、共に行かせてくれ」

 黙ったままの政宗の答えを、元就は待った。
 目は逸らされない。浅ましく醜い自分を見透かされそうで、政宗は恐ろしかった。この、呪わしい右目を正面から見つめてくれた相手だというのに。真っ直ぐ見てくれることがあれほど嬉しかったはずなのに。
 思った以上に幼稚だった弱い自分を見透かされることで、元就を失望させてしまうのが怖くて仕方が無い。
 それでも、一緒にいたいから。
 喉元から込み上げてきた答えは、最初からたった一つしかない。

「……来い」

 伸ばした手で細い腕を取り、政宗は元就を引き寄せた。
 触れ合った途端、びくりと引き攣った背中に腕を回し、お互いの低めの体温を確かめ合うように抱き締める。
 ここに、元就がいる。
 確認しただけで途端に安堵が生まれた。


 最初に見た時は儚かった蕾。一人ぼっちで残されて、傍にいてやろうと決めたのに。
 その花は、寒い冬が訪れようとも決して折れないような、芯の強さ兼ね備えていて。愛でる人は多く、思う人も多く。控え目に咲く花弁に、焦がれる想いは重ねられ。
 全てを薙ぎ払ってしまう竜が触れるには、何だか不釣合いのように思えて。

 ――傍にいて欲しかったのは、本当は自分自身だったのだろうか。



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(2006/10/11)



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