弐:翡翠の楽園 -3-



 屋敷の裏庭から入り込んだ政宗は、台所へ続く裏口へとそっと身を滑り込ませた。
 お忍びなんて出来る身分でもないのだが、流石に最近は根の詰め過ぎだったことを察していたのか、目聡く見つけては小言を言う小十郎が黙認してくれたため、久しぶりに市井の世界を満喫できた。
 これは後で、礼の一つでも言っておかねばならないだろう。
 政宗は口元を少しだけ上げて、突然現れた浪人姿の主に慌てている家人を尻目に廊下を歩き出した。
 屋敷を出た時とは違い、少しばかり足が軽いような気がする。
 癖の強い髪をがしがしと掻き混ぜながら、政宗は苦笑を浮かべた。
 たかだか少しばかり間抜けな話をしてきただけだ。それでも随分と迷いは晴れたようで、心と比例して身も軽くなったのだろう。相変わらず現金な体だと我ながら思った。


 黙って政宗の話を聞き入れてくれた慶次は、時折相槌を返すだけで、話の途中に横槍や意見は一切言わなかった。真剣に聞いているらしく、いつもならば腑抜けにも見える柔らかな表情が締まって見えた。
 話したのは、一目会った時から惹かれる心を止められないあの人の事。
 同情心と受け入れられたことに対する歓喜に流されたこの好意は、愛や恋などといったものに相応しい感情ではないと思っている。
 真剣でない気持ちなど、あれほど清廉な魂を持つ彼に向かって渡すことが出来るわけもなく。
 ましてや伊達者と呼ばれた自分が、こんな初心な想いを抱いていることがまず有り得ない。
 そうして政宗は、回遊魚のように思考が同じ場所を巡らせ、出口の見出せない迷宮に嵌っていた。

 政宗が簡潔に話し終えた後、二人の間には長い沈黙が続いていた。双方は堀に流れる小川を見下ろしながら、互いに何かを考える。
 柳のざわめきが納まった後、慶次がぽつりとまず一言だけ零した。 

「あんたは、その人のことが凄く大切なんだな」

 膝の上でうとうととしている夢吉を、そっと撫でながら目を細めていた慶次は、誰かを思い出しているようだ。哀惜の念を込めた瞳は、それでも決別した色を強く持っていた。
 彼の中では既に決着がついたことなのだろう。きっと、戻らなかったものもあったのだろうけれど。

「約束ってのは重い。不本意でも破っちゃうこともある。破かなきゃいけないことも、ある。でもやっぱり大切だと思うからこそ、約束を交わすんだ。それを出来る限り守ってやるのが、守ろうと思うことが、俺達に出来ることなんじゃないのかな」

 遠い目をして小川を見ていた慶次の横顔。
 それが、今も自分の部屋で静かに丘へと祈りを捧げているだろう彼の哀愁の面差しと重なった。
 愛馬を喪っただけの感情で、手を合わせているわけではないことを自分は良く知っている。
 本当は、守りたかっただろう何かを。本当なら共にいられただろう誰かを。彼はいつも想っているのだ。
 けれどそれを忌々しく思ったことはない。振り向いて欲しいなんて思わなかった。
 自分の中で、愛することは独占欲だ。だから今の気持ちは恋でも愛でもないと呟いた政宗に、慶次はゆるゆると首を振った。

「違うよ。それが全部じゃない。あんたは約束をしたときに、何を思った? もっと笑って欲しかったとか。一緒にいたいとか、思わなかったの?」

 泣き出しそうな眼に死なないと言ったのも。震えた肩を抱いてやったもの。
 あの小さな笑顔が、見たかったから。
 ――ただそれだけ。
 慰めだとか、気の迷いだとか、そんな中途半端なものでも複雑な感情でもなかった。
 こんな顔させたくはないと、ただそれだけを真に思っただけ。
 会話が弾まずとも感じた和やかな空気を、初めて他人の側にいながらも感じられた。家族同然の家臣達とは少し違う、不器用な温かさが胸に咲いていた。
 政宗が困ったようにそう答えると、慶次は思わず吹き出した。訳が分からずに睨んでやれば、相手は嬉しそうに微笑んだ。

「そういうのがさ……」

 少しだけ呆れ混じりの口調に、政宗は思わず呆けてしまう。
 出された答えを理解して瞬時に赤くなった頬を見て、慶次がまた大笑いしていた。


 皮肉にも、自分が出かけた後に小十郎が辿った道のりをそのまま歩き、政宗は奥の寝室へと足を運んだ。
 そこに住んでいる客人は、様々な雑務に追われて戻ってきた政宗をただ無言で出迎える。
 挨拶ぐらいくれないのか、と言ってみたこともあるが、冷笑と共に一蹴された。つんと澄ました綺麗な顔に惹かれながらも、少しだけ残念に思って虚しく肩を落としてしまった。
 言葉を交わすことすら汚らわしいと言った母を、やはり色濃く思い出してしまったのだ。高貴な態度や口振りが、投影に拍車をかけているような気がする。
 そう思う自分が嫌だったが、冷たくされた思い出と重ならない部分を見つける度に、酷く安堵してしまうことは事実だった。
 そして同時に、高鳴る鼓動を覚えた。
 肩を落として諦めていた政宗に、彼は聞き辛い小さな声音でぼそぼそと呟く。
 ――朝、毎日言っているから十分だろう。
 耳聡い政宗は、それを確かに聞き取った。そして瞬時に思い浮かべる。日を拝むために政宗より早起きである彼が、毎朝枕元で自分におはようと言ってくれている光景を。
 そういえば起き抜けの朦朧とした意識の中、光で輪郭のぼやけた誰かが自分に話しかけていた日もあったことを不意に思い出す。
 馬鹿みたいに跳ねた心音を笑って誤魔化し、政宗は彼の呟きが聞こえない振りをした。
 きっと慶次がそれを見ていたら、肩を竦めて馬鹿にしただろうけれど。
 政宗は唸りながら更に頭を掻いた。
 あの時に生まれたような、心地良くて優しい感情。それは彼と過ごす内に何度でも湧き上がった。
 今なら分かる。あれが、慶次の言っていたものなのだと。
 近づいてきた縁側に視線を投げると、この時間帯にも限らず目的の人の姿は無かった。障子もきちんと閉められており、一見不在のようにも思える。
 だが相手は外には出られない身体だ。中にいるのだろうと予想をつけ、一旦止めた足を再び動そうとした。

「伊達を、内から食い潰す気は無い」

 淡々とした響きに、政宗は再度足を止めた。
 気配を押し殺し、微かに届く会話を一字一句漏らさぬように聞き耳を立てる。
 中には小十郎がいるようだ。無論、彼も。
 何故二人が共にいるのかは分からないが、流れてくる場の空気から考えて和やかとは言えない。

「貴様の心配は分かる。失っては遅いのだと、長曾我部に負けたあの日我は痛感したわ。ましてや、独眼竜は既に天下を半分平らげた。今は泰平の世が目の前に迫っている大事な時期だろう」
「分かっているのならば」

 静かに諭すような物言いと、同じように低い小十郎の声が響く。
 政宗は壁に寄り掛かりながら、目の前が少しばかり暗くなることを感じていた。
 理解していた。拾ってしまったあの瞬間から、いつか誰かが言い出すのではないかとずっと危惧していた。
 それでも、この数日間の戦場とは無縁な生温い楽園の中、彼と共にいることを甘んじていたのは政宗自身の意思だ。
 戦うことを好み、野心でぎらついた視線を投げる畏怖されていた独眼竜ではなく、少年とも青年ともつかない曖昧な境界を行き来する、一人の男としての政宗でいたかったから。

「我が敗戦国の主と知れば、独眼竜とて扱いに困るだろう。元より落ちぶれたこの身。これ以上世話にはなれない。……片倉小十郎、討ち取られても致し方の無い中での処置、我が毛利の名において決して忘れぬ」

 ――嗚呼、辛い。
 針を刺したようなむず痒い痛みが走る。
 幸せを知ったが故に失う日が怖くなるのだと、慶次を見て思ったけれど。
 こんなに早く、自身にも降りかかってきたことが少しだけ憎らしく、それでもずっと前から薄々と覚悟をしていたせいもあって衝撃は思ったよりも少なかった。

「明日にでもここを出て行こう」

 全てを打ち壊すその言葉に、政宗は嘆息を吐き出した。
 若葉が芽吹く奥州の春のように、突然出会って知った想い。
 その短い季節が、想いの正体に自覚したばかりだというのに、もう紅に沈む秋に摩り替わってしまっていた。その後に待つのは厳しい雪が、緑を、赤を、無言で覆い尽くして凍らせる。
 咲こうとした蕾は、花開かずに枯れていくだけ。

 叶わぬまま、枯れていくだけ――。


「Such a thing can't be permitted!!」

 無意識のうちに体が動いていたのだろう。
 障子の前に立った政宗は、気が付けば勢い良く開け放っていた。
 驚いた様子の小十郎がいる。微かに瞠目しただけで、客人は表情を崩さなかった。政宗を静かに見返すだけ。真っ直ぐと怯まない眸が交わる。

「言ったはずだ! あんたが俺のいない所で野垂れ死ぬのを見たくないと! 伊達が、長曾我部が、毛利が何だって言うんだ!」

 叫んだ勢いのままに政宗は言い放つ。
 彼がいつか、出て行ってしまうことは分かっていた。分かろうと、していた。
 では己の気持ちはこのままで治まるのだろうか。ここまで掻き乱されたというのに、このまま互いに別れていいのだろうか。
 この想いが紛うことなく恋慕の情であるのならば、まだ、何も始まってはいない。
 始まらないまま終わるなんて、枯れてしまうなんて――絶対に嫌だった。

「俺はあんたが好きなんだよ!」

 そのまま踵を返して廊下へ荒々しく戻っていく政宗の背を、小十郎が慌てて追いかけた。
 去っていく二人の主従の背中を、飴色の瞳は黙って見送っている。
 廊下に伸びていた政宗の影が、徐々に遠ざかった。彼がそれを切なげに眺めていたことを、政宗は知らない。


 二人分の体重を受けて、床が激しく軋んだ。
 政宗は小十郎に追われながら早足で進んでいたが、角を曲がった辺りでとうとうその足を止めた。
 追いついた小十郎は、困ったように頭を垂れた。

「勝手に立ち入ったことは謝罪致します。されども、全ては伊達家のため。独断で尋問を行いました」

 喋らない政宗の背中を見つめながら、小十郎は言葉を綴り続ける。
 視線を床板に這わせながらも彼は冷静を保つため、事務的な言葉を返す。本当ならすぐにでも聞きたいことがあったが、小十郎は耐えていた。

「先日の毛利と長曾我部の戦、上がったはずの毛利の総大将の御首は影武者。本物は家臣達が密かに逃がしていたことが分かりました。その、総大将の名は」
「知っている」

 政宗は小十郎の言葉を遮った。ここに来て初めて搾り出された声音は、酷く掠れているようにも聞こえた。
 その力無い様子に小十郎が僅かにたじろぐ。
 俯き加減の政宗は、そっと後ろを向いて自嘲を浮かべて見せた。

「毛利元就。それが、あいつの名前だってことは、ずっと前から気付いていた」

 目を見開いた小十郎を尻目に、政宗はじっと自分の足元の木目を見下ろした。
 政宗とて鈍くは無い。あれだけの馬が潰れてしまうほど、遠くから逃げてき衰弱した姿。汚れていたが素材が良い具足。
 あの時、近くであった戦場は本能寺を覗けば、四国に攻められた中国だけだ。
 小十郎がわざとらしく探りを入れに来たあの日だって、彼が毛利の者なのだということはすぐに気付けた。
 共にいるうちに何度も見た、気位の高い態度と、ともすれば儚く崩れ落ちそうになる美しき佇まいは、彼の中に流れる尊き血筋を窺わせた。
 何よりも惹かれた、誰かを失うことに酷く怯えながらも、自分の道を弁えている強い瞳。醜い右目を当然のように受け入れたあの目は、逆に眼帯をつけた政宗を見て背中を引き攣らせることがあった。
 昔、中国と四国は厳島で開戦したことがある。彼は長曾我部元親の顔を知っているのだろう。
 自分と良く似た気質を持つ西海の鬼は、政宗とは逆に左目を覆い隠している。
 暗がりで自分の顔を仰ぎ見た時の彼は、白昼夢に驚いたかのように一瞬だけ身を縮込ませたことがある。城を落とされた際に覚えた微かな恐怖を、体が無意識に覚えているのだろう。

 そこまで察しておきながらも、政宗は抱いてはいけないものを胸に芽生えさせていた。
 粋じゃないと否定しておいて。こんな中途半端な感情はいらないと強がっておいて。母親と重ねているからだと言い訳して。
 忘れることを出来ずにいた。ずっと迷い続けていた。
 きっと慶次に言われなければ、彼が出て行くと聞いた時もすぐに諦めていただろう。
 また去っていってしまうのだと、交わした約束だけを胸にして、生きていかなくてはいけなかっただろう。
 けれど、もう不明確であった感情の形は固まってしまったのだ。

 ――そういうのがさ……。

 あの時の、決意をさせた慶次の言葉が政宗の脳裏に過ぎった。
 言われてしまうとすとんと自分の中に納まった、たった二文字の言葉が。

 ――そういうのがさ、恋、って言うんじゃないのかい?


「では何故あのようなことをっ!」
「それでも俺は、自分の気持ちをこれ以上誤魔化せねぇんだよ!」

 耐え切れずに声を荒げた小十郎に、政宗は体ごと振り向いた。拳を握り、背の高い従者をたった一つの隻眼で睨みつける。
 彼が好きだ、と。
 そこに詰まったあまりにも強い思いに小十郎は息を呑んだ。
 政宗は決めてしまった。
 その目を見るだけで決意を思い知った小十郎は、もはや黙ることしか出来なかった。



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(2006/09/30)



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