弐:翡翠の楽園 -2-



 屋敷の廊下を小十郎は思案顔で歩いていた。
 自室で散々考えていたのだが、やはり行かねばならないだろうと思いこうしてやって来た。
 しかし、たった数分の道のりの中でも、本当に良いのかと己に問いかける始末。
 自分としては無論、先日から胸に秘めていることを言わずにはいられない。
 だが主である政宗が同席していれば、きっと口を挟むだろう。だからこそ、留守を狙うように彼の自室へと向かっているのだが、それがまず気が重い原因の一つだった。

 政宗の部屋には、相変わらず客人が住まっている。
 物静かで、何を考えているのかさっぱり分からない、能面のような顔の男。政宗が月夜の日に拾ってきた、奇妙な客分。
 用心深く他人を値踏みする性質である政宗が、わざわざ自分で介抱してやると言ったときには、小十郎も思わず目を見開いた。
 客人の乗っていた馬も自らが世話をしてやり、逝ったその日には裏手の小山に墓を作らせていたほどの入れ込みようだ。
 これは危ない、と小十郎は感じていた。
 一目見た時から興味を持っていただろうことは、薄々感じていた。政宗とは昔馴染みだ。それぐらいはすぐに分かったこと。
 だが小十郎に明確な危機感を抱かせたのは、長曾我部による中国制圧の報告を行った際のことだ。
 小十郎はあの時、戦慄と驚愕を覚えた。
 家中の者にも滅多に見せる事の無い政宗の右目が、普段からそうあるように曝け出されていたのだ。
 本人は気付いていなかったように見える。ならば無意識であったのだろう。
 幼少時の闇を集めたような潰れた右目を、気に留めずに外へと出すことは本来なら喜ばしいことだ。その時の小十郎も、思わず顔が綻び、声も上擦ってしまっていた。
 だが冷静になってみると、昨日今日会ったような人物に意図無く政宗が己の片目を見せたという事実が、逆に危険だと小十郎に思わせた。

 政宗様は、懸想している。

 大事な天下取りの最中である身、何が起こるか予想は付かない。
 あの客人が間者であれ――もっと最悪に考えれば、他国の重鎮であれ、敵対者の身内であれ――戦局は一転二転と面白いように転がっていくのが世の常だ。
 さらにそういった身分の者に心を許してしまった男達が、甘言や苦悩によって崩壊への道を辿った例も少なくない。
 まさか政宗がそのような愚行を犯すようには思えないが、第一の家臣である己が主を守ろうと思うことは道理だ。
 たとえ何の身分も持たない人間であっても、それはそれで政宗の寵愛を受けているとの噂が流れれば、唯一の弱点にも成りかねない。
 だからこそ小十郎は政宗の部屋にまで行き、至急の報告だと言いながら中国の陥落を伝えた。客人が何者であるか、探りを入れるため。
 本来ならば朝議にでも言えば良い事である。早朝、普段ならば政宗が起きていないだろう時間帯に、主の寝室へ訪れるなど本来ならば無礼極まりない。長年仕えている家族同然の者だからこそ、許されている行為であり、小十郎は良心に蓋をしてそれを利用した。

 全軍の総力をかけて挑みかかった織田軍との開戦。
 だが戦いの火蓋を切ってみれば、明智の謀反により織田軍は散り散りとなり、急襲を受けて指揮系統も狂った状態だった。
 西国への出陣から帰ってきたばかりだったためか、京に残されていた兵の数も少なく、それらも疲弊していた。その隙を明智が狙ったのだろう。
 政宗は漁夫の利を狙うかのように、混乱する中央へと一気に攻め上った。本能寺が燃えた夜、三つ巴の戦いは熾烈を極めていたが勝利の風は伊達に吹いた。
 そんな状態の中でも、小十郎は京よりも西を気にした。
 織田と明智を討ってしまえば、本州に残る勢力は中国の毛利のみ。その毛利は先日まで織田に攻められていたのだが、苦戦の言葉は耳に入っていない。ある意味、魔王よりも強敵なのかもしれないと予想をつけていた。
 中央での戦いが始まる前から、毛利の事は密かに調べている。
 何せ東北と中国では遠すぎる。風評が伝わることはあるが、詳しい話は中々流れてこない。
 今でさえ、大毛利と呼ばれるほどの大国になっているが、元は山陽と山陰の諍いに流されていた小国であった。それが、当代となってあっという間に中国を呑み込んだ。
 薄暗い謀略と暗殺、完璧な兵法と軍略。
 現当主は血も涙も無い陰湿な将であると聞いているが、その手腕は実際に見ていないにしろ空恐ろしいものだと感じていた。
 毛利の主は、堅牢なる守護者。
 政宗の元にも入っていたその風評は、確かなものだった。
 謀を厭わない毛利だが、己の縄張りをそれ以上大きくすることは無かった。
 接している隣国は織田領だ。広めることは容易ではないからかと踏んでいたが、先日のことを思い返してみると防衛のみに徹しているのだろう。
 決して攻めには回らないが、牙を向けば容赦なく刃を返す。戦国には珍しい保守的な考えは、野望高き伊達とは相容れない。
 その伊達が織田を攻略すれば、次は中国。
 地理上の問題からもそう考えるのが妥当だ。間者が動き出すならば毛利の者だろうと、ある程度予想を付けていた。

 結局、中国は四国の長曾我部に落とされた。
 伝令からの言葉に驚愕したものの、これで客人の正体を暴けるかもしれないと政宗の部屋へ向かったのだが――。
 結果は、予想以上だった。
 政宗の背後で引き攣っていた体。一気に蒼白になった顔面は、むしろ同情心が芽生えそうになった。
 小十郎に見られていたことに、彼は気付いていただろう。慌てて顔を伏せたが、震える拳で握った布団の裾には幾重にも皺が刻まれていた。
 間者にしては可笑しな動作だった。一瞬垣間見た表情は、耐えようとしているのに耐え切れない、傷付いた白い面差し。心の傷を抉られたような哀しい目。
 憐れみを誘うようなその仕草に政宗は何を思ったのか、閉めかけた障子の向こう側で、気遣うように客人へと身体を寄せていた。
 小十郎はそれを視界の端で捉えながら、これからのことを思って目を伏せながら戸を閉めた。

 こうして小十郎は、不安の芽を摘むために歩くこととなったのだが、今から行うことよりも、帰ってきた政宗に何と言えばいいのかとその方が心配だった。
 文句の一つや二つで済むのならばまだ良かった。傍から見てもあれほど気を許している相手を突然失い、強がりのくせに寂しがりな政宗が傷付かないはずがない。
 それだけが――伊達家の家臣としてではなく、政宗の守り役としての小十郎を迷わせていた。


 角を曲がると真っ直ぐとした縁側に出る。良い日和には燦々と太陽の光が当たり、常に温かい。
 部屋から厩がすぐだったため、政宗はこの屋敷の造りを大層気に入っていた。
 東向きの縁側は確かに心地良い。今では、部屋の住人の日課である日の出を拝むのに最適だと、政宗は零していた。
 その時の苦笑が混じった笑みを思い出しながら、小十郎はふと人の気配を感じて顔を上げる。
 噂をすれば何とやら、その縁側にほっそりとした人影が座っていた。一瞬小十郎はどきりとするが、公に出来ないため、彼の行動範囲は限られているのだから居るのは当たり前だと自分を落ち着かせる。
 まだ体調が芳しくないことを理由に、相手が何者か分からぬ以上あまり自由にさせてはいけないと、政宗へ暗に進言したのは他ならぬ小十郎自身だ。
 彼は今も少し咳き込みながら、自分の馬の墓がある丘の方に手を合わせていた。
 日輪信仰と共に、これも毎日欠かしていないのだと政宗は言っていた。よほど信心深いのだろうかと思う。

 小十郎がわざと立てた床板の軋みに気付いたのか、相手がこちらを向いた。冷めた瞳の表情は読めない。
 こうして見れば、感情を隠すことに慣れているように思える。あの時の崩れた顔はわざとだったのかと、疑いすら生まれてくる。
 何も言わない小十郎を焦れたのだろうか、それとも何をしに来たのか察したのか、彼は立ち上がり障子を開いた。
 入れ、と促されたような気がして、慌てて小十郎は足を動かした。

「そろそろかと思っておった。むしろ遅いくらいか。独眼竜が居らぬ方が都合良いからな」

 上座と下座の区別の無い位置に座り、静かに彼は口を開いた。
 ――読まれている。
 手袋の下の掌をぐっと握り締めながら、平然とした表情を崩さずに小十郎は答えた。

「分かっているなら話は早い。てめぇは毛利の者だな? 伊達を探りに来やがったのか」
「探りに来たわけではない。勝手に貴様の主が我を拾ったまでのこと。我が忍の者だとしても、国が落ちたという知らせがあれば長居はせん」

 何せ毛利は内に篭るほど御家一番、と彼は自嘲するように唇を歪めた。
 探り合いの言葉は、どこまで信用できるのか分からない。間者の類や忍でも無いと彼は言うが、小十郎は信じなかった。
 作り物めいた端整な横顔は、ちらりと小十郎を眺め、すぐに視線を外した。

「織田を滅ぼし中央を手に入れた伊達の勢いは、国を失くした我の存在如きでは止まらぬ。あの小僧を屠るのならば、当の昔に出来ておるわ」

 殺気の篭った小十郎の気配を感じているはずだが、臆した様子もなく客人は続けた。

「最早、我が毛利は地に伏した。一度は追い払った海賊風情の横槍に呆気なく、な」

 誰かを思い出しているのだろうか。感情の灯っていなかった双眸が、ふと遠くを見やった。
 小十郎は僅かばかりに眉を顰める。話を聞いている限り、口調は荒れた野暮ったい物言いではなく、寧ろ高貴さを匂わせている。
 四国の長曾我部がどのように毛利に攻め入ったかも、彼はどうやら熟知しているらしい。
 伊達が上洛している最中、西国に遠征していた織田の大軍を退けていた毛利軍だが、敗北したわけではないが、全くの無害だったわけでもない。
 疲労困憊の中、ようやく国許へと帰れるはずであった毛利軍。そこへ、長曾我部の襲撃にあったと聞いている。
 今までの二国の間にあった拮抗は、そうして破られた。中央で起こった短期の動乱と同時期に、中国は四国に飲み込まれてしまった。
 その内部情報を知っているとなれば、彼はそれなりに上部の者だろう。
 政宗が言っていたように、本当に戦場から落ち逃げてきたのだろうか。
 小十郎の逡巡に気付いたのか、相手は薄く自嘲する。やはりどこか諦念の見える笑い方だった。

「毛利は長曾我部に屈した。一族は御首を上げられたかも知れぬ。……我が生きていることだけが、唯一の僥倖か」

 言葉を切った彼は、じっと畳を見下ろしたまま黙り込む。
 逆に小十郎が、弾かれたように切れ長の眼を見開かせた。

「まさか……討ち取られたと聞いていたが」

 彼は少しだけ顔を上げて、琥珀の瞳をゆるりと細める。現世から隠り世を眺めるが如く、もう一度だけ小十郎を見つめた。
 大物が迷い込んだ、と小十郎は膝の上に握っていた手に力を込める。
 拳はいつの間にか汗ばんでいた。静かに立ち上る気配に、竜の右目とあろう者が気圧されていた。
 詭計智将と謳われた毛利の冷徹な主――毛利元就。
 間者などとはとんでもない。目の前にいるのは、攻めるはずだった中国の総大将だったのだから。



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(2006/09/27)



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