弐:翡翠の楽園 -1-
京の都はいつだって華やかだ。
陽気に人は笑い合い、和やかに日常が過ぎていく。毎日毎日その繰り返しの中で生きている。
統治者が変わろうが、時代の流れが変わろうが、この活気だけは変わらずにいるのだろう。
運ばれてきた団子を頬張りながら、慶次はしばらく通りを眺め続けていた。
叔父夫婦の元から出奔して各地を巡り歩いてきた慶次には、この町の空気がやはり自分の肌に合うと素直に感じている。それは弱かった己の逃げ場所になるような生温さでもあったが、過去との相対を終えた現在の彼にとっては、単に古巣へ戻った気分になるだけだ。
自分を養育してくれた、利家とまつのいる前田の家が居心地悪いというわけではない。
――確かに家督云々についての薄暗い空気は、慶次には堪らないものだったけれど。
自分だからこそ存在してよい居場所を、彼はいつだって探していた。いつか、立場も権力も何もかもが無為になるほど、守りたい人が何処かにいることを信じて。
もう二度と、昔と同じことが起こらないように強くなって、今度こそ守りたいと願っていた。
亡くした人の笑顔や、失った友の背中をぼんやりと思い出しながら頬杖をついていた慶次は、最後の一串を口に運ぼうとした。
口内に甘味が広がった直後、肩の小猿が何かに気付いたように小声で鳴いた。
「どうしたんだ夢吉?」
つぶらな黒い瞳が見ている方向へと視線を巡らせる。
すると慶次は驚きのあまり、串から手を離しそうになった。
賑わう大通りの中、映える青い着流しを纏った浪人らしき男が横切っていく。ざっくりと切られた焦げ茶の髪が揺れ、その前髪の隙間から見えたのは、目元を覆う簡素な布。
慶次には横顔しか見えなかったが、正面から見ずともあれが誰なのかすぐに察することが出来る。何せ、あの男と至近距離で切り結んだことがあるのだ。戦場ではない町中でも、体から立ち上るあの独特の気配は変わりない。
慌てて団子を口に詰め込み、お代を置いて店主に告げる。
この人並みの往来だ、早くしなければ見失ってしまう。
急いた慶次は店を飛び出し、青い着流しの後姿を追いかけた。
人気の途絶えた橋の近く。穏やかに流れる川を囲った堀の側に、探し人は立っていた。
頼りなさげに佇む柳を見上げながら、男はじっとしている。考え事でもしているのだろうか。常ならばすぐに気付くだろう距離になっても、男は溜息を吐くだけで振り返らない。
流石にこのまま間合いを詰めて、うっかり斬られるのは勘弁だと慶次は声をかける決意をした。
「おい、伊達の殿様がこんな所で何してんだよ」
呆れ半分興味半分混じりの慶次の声に、男はぎくりと背を強張らせて振り返った。
しっかりとその顔を見た慶次は、自分の予想が外れていなかったことに満足してのんびりと彼に近づいた。
奥州王が京まで攻め上り、織田と明智を討ったということを都で知らぬ者はいない。
その伊達の当主が、こんな昼下がりから共もつけずに外をふらついている。無用心だなと内心で思うものの、叔母の怒った顔が浮かび、自分も似たような者かと苦笑した。
自分から声を掛けておきながら黙ってしまった慶次を、相手は怪訝な様子で睨んでいる。
そういえば結構最悪な出会いだった。慶次は自分が彼にとって、あまり好かれている部類ではないことを思い出す。
「前田の風来坊。てめぇこそ何していやがる」
機嫌が悪いのか、元からなのか、予想通りの唸るような低音。
慶次は肩を竦めた。
「ここは俺の庭みたいなもんだからな……ってそれはともかく、真面目にこんな場所へ何の用だよ、伊達政宗」
真面目に尋ねて見れば、政宗は少しだけ困ったように口を噤んだ。
おや、と慶次は首を傾げる。
若くして奥州を率いている勇猛なこの男、一つの言葉に嫌味の二つ三つお見舞いしてくるほどの勢いがあった。しかし目の前で所在無さげに視線をうろうろと彷徨わせる彼は、まるで別人だ。
戦場以外ではいつもこうなのかとふと考えるが、政宗の側に付き従っている強面の男の言動を思い出し、特に平素と変わりが無いのだと思い至る。
政宗は地面と慶次とを何度か見比べて、憂鬱気に再び息を吐き出した。
そこに篭っている熱に気が付いて、慶次はようやく合点がいった。
「何、もしかして恋煩い?」
「あ?」
途端に瞳を輝かせて問いかけてきた慶次に、政宗はうざったそうな視線を投げる。
心底嫌そうな顔をされると少しは傷付く。これが純情な真田の次男坊であれば、恋煩いなんていう単語一つで顔を赤らめてくれるのだが。初恋もまだだという少年の初心さを思い出し、慶次はこっそり苦笑を浮かべた。
それほど歳も離れていないだろうに、目の前の男は思春期なんぞ本当にあったのかというほどふてぶてしい態度だ。流石は伊達男、とでもいうべきなのだろうか。
慶次の笑みに気付いた政宗は、ますます目尻をつり上げた。
何でもないと軽く手を振った慶次は、彼の隣に立つ。堀の側に近づけば、小川のせせらぎが微かに聞こえた。柔らかな風が傍らの柳を揺らし、意外と素朴な風流が感じられる。
北の山奥育ちである政宗にとって、京の華やかさは――派手好きな彼のことだから、嫌いではないはずだ――時々眩し過ぎるのだろう。何かを思案するために町に繰り出してきたのならば、喧騒の中にいるよりもこうして静かな場所にいた方が良い。
しかし、それならば政宗の仮住まいのある郊外の方が、よほどましであるはずだが。
慶次は様々な思考を巡らせるのだが、明快な答えはどうにも見つからなかった。
「恋煩いなんて可愛らしいもんじゃねぇよ」
自分から尋ねておきながら返事を期待していなかった慶次は、政宗の低い声に思わず瞠目した。
屈んで堀を覗いていた慶次は、水面に映っている政宗の顔を見る。片目の男も川の流れを眺めていた。伏し目がちが隻眼がじっとして動かない。
――そんなもんじゃねぇんだ。
政宗は、そう繰り返して呟いた。
揺れる水面が戯れに映し出した幻だったのだろうか。彼の浮かべた表情が、一瞬だけ迷子の子供のように歪んで見えた。
淡かった恋心は、好いていたその人の手によってまずは破れた。
自分は彼女よりも随分年下で、好意の対象とはなってもそこから親愛の情以上のものは生まれなかった。どれだけ本気だったとしても、彼女はあの男の元へ行くことを決めていてしまったから、止めることはどうしても出来なかった。
その時の自分がどうだったか。
良くは、覚えていない。
利家もまつも、好いた者同士共にいられるのに。あんなにも眩しいほど笑顔に溢れて幸せを謳歌しているというのに。
どうして俺はあの人と一緒にいられなかったのだろうなんて、考えても仕方ない事ばかりが、脳裏に過ぎっていたことは確かだ。
毎日が憂鬱で、彼女が行ってしまった大阪の方ばかりを眺めていたような気がする。
近くて遠い国。
叶わないのだと仰ぎ見るばかりだった、今は無き覇王の城。かつて心通わせた友の作り上げた大きな壁が、あの頃の慶次を無慈悲に見下していた。
だから諦めようとした――否。彼女が去ってしまった時点で半ば諦めていたのだけれど。
彼女が殺されてしまうなんてことを知っていれば、そんな真似はしなかった。
きっと優しい彼女は望まないだろうけれど。愛しい男の手にかかることを悲しんでも、決して憎まないのだろうけれど。
残された自分だけが、酷く惨めに思えた。
慶次は昔の己の姿を思い出しながら、肩越しに見える青い着流しを盗み見る。
飄々としていながらも、好戦的で野心家の独眼竜。
その政宗が、力なく頭を垂れたまま慶次の隣に腰を下ろしていた。
右側に座っている慶次には政宗の横顔が隠されて見えない。意図的に、その位置へと座らせたのだろうことは薄々感じている。自分がどんな表情をしているのか、聡い政宗は自覚しているのだろう。
だが慶次の頭に貼り付いて離れないのは、先程彼が不意に零した、感情の波を無理に押さえつけたような顔。
あれは、彼女を見送った時の自分の顔ととても良く似ていた。
寂しさと悔しさと、自分の力ではどうにもならないことへ対しての無力感を押し殺したような。
沈黙は長く続いた。
慶次の横に腰を下ろした時点で、きっと政宗は、彼に聞いて欲しいことがあったのだろう。
――係わりの薄い慶次にこそ、言い出せるようなことが。
逡巡を重ねた政宗は、ついに固く噤んでいた口をゆっくりと開いた。
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(2006/09/22)
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