壱:三日月夜佳人 -3-
体力が尽きてきたのか、崩れるようにもたれてきた彼を布団の上に運んだ政宗は、離れていく体温に困ったような笑みを噛み殺した。
眠気が襲ってきたのだろう、彼は瞼を半分ほど落としてまどろみ始めている。
鋭利な刃物を思わせる眦が強張りを解くと、浮かぶ面差しは酷くあどけなくも見えた。
先程から変化していく表情の数々に意識を攫われている政宗は、綻びそうになった顔を引き締めた。
床板の振動音が聞こえたのだ。誰かが部屋にやってくる。
案の定、静かな足音が背後で止まった。
「Good morning. 何か用か、小十郎?」
普段の起床よりも随分と早い時間帯だが、寝室にやってきた従者を怪訝に思いながらも入室を促す。
生真面目な返事が帰ってきた後、そっと障子が開かれ頭を垂れた小十郎が姿を見せた。
「早くに申し訳ありません。早急に御耳に入れて頂きたい事が」
顔を上げた小十郎は、しばし目を瞬かせた。
不思議に思った政宗が首を傾げる。小十郎はちらりと奥で横になっている人物を見やり、すぐに主に向き直った。
崩された表情はもはやなく、真剣な小十郎の眉間には線が一筋。咄嗟に政宗は、良くない知らせだと予感していた。
「中国が四国に攻め落とされました」
瞠目したのは一瞬のことで、政宗は続きを促した。
「堅牢な安芸の守護者はお出ましにならなかったのか?」
きな臭い話を察知したのか、背後で身体を強張らせた気配がする。だが今は構うことが出来ない。
織田を討った今、中国地方への進軍は定まっていた。その予定が覆られる事態なのだ。
政宗は奥州王たる顔となり、小十郎を見返した。
「決戦地は高松城。水攻め火攻めの惨い戦いとなり、一族は離散されました。被害は甚だしく、残った兵力も長曾我部に降ったとか。毛利の水軍もあちらの手に」
政宗は思わず秀麗な眉を寄せた。
元々戦いを楽しむ節のある彼にとって、競い合って軍略を巡らせ、相手と刀を交えて力をぶつかり合わせることが戦だ。水攻めや火攻め、兵糧攻めなど用いないわけではないが、それでも必要に迫られていなければ極力その方法を避けている。
四国を治める西海の鬼と政宗は一度だけ会ったことがあるが、思考が酷く似通っていたことを良く覚えている。
好戦的で感情豊かな、海のような男。
彼は心理を掠るような計略など、決して肌に合わなさそうだったはずなのだが――。
ふと視界の端に、背後にある薄い肩が見えた。
心なしか震えているように感じたのは気のせいだろうか。
前髪の影で顔は隠され、僅かに覗く小さな顎には何故か力が篭っている。歯を食い縛っているのか、唇を噛み締めいているのか。
どちらにしろ、微笑みの際にちらりと覗いたあの白い歯を痛ませるような行為に、政宗は少しばかり残念に思った。
思って、慌ててその思考を振り払う。
今はそんなことを考えている場合ではない。小十郎の話に集中し直す。
「戦の詳しい理由等は分かっておりませんが……ともかく中国と四国、どちらに向かうにしろ長曾我部軍との戦となります。胸に留めて置いて下され」
「分かった。どの道、そろそろ西国を攻める算段を話し合わなきゃならなかったしな。午後までに皆を集めておけ」
御意、と小十郎は一礼をして立ち上がる。しかしすぐには去ろうとせず、鋭い眼光を秘めている双眸は再び政宗の背後を見ていた。
先程から何なのだろうと思っていた政宗が、問おうとした口は、開いたまま音を発しなかった。小十郎がこちらを向いたのだ。
面倒な小言でも吹っ掛けられるのかと僅かに身構えたが、降ってきた言葉は予想と違っていた。
「政宗様、眼帯をお忘れですよ」
苦笑したような言い草で退室していった小十郎を、政宗は口をぽかんと開けたまま見送った。
足音が完全に遠のいた後、慌てて枕元に視線を転じてみれば、いつもの眼帯が白い布の上に無造作に置かれたまま。
他人に潰れた右目を晒すことを嫌っている政宗は、失態だ、と盛大な舌打ちをしそうになった。
だがはたりと思い出す。最初に小十郎が入ってきた時の、あの表情を。
政宗は普段、右目のことを何とも思っていないような振る舞いをしているが、彼の右目を名乗る小十郎は知っている。政宗が醜い自分を見られることで後ろ指を指されることに、内心で恐れているのだということを。
直接は言わないが、幼い頃から側仕えしている小十郎にはきっと何もかもが悟られている。
本当に目のことを気にしないのならば、眼帯なぞせずに堂々と表を歩けばいいと政宗が思っていることも。子供の頃から、まるでお守りのように身に付け続けている物を外すに外せないということも。
この葛藤を、小十郎は誰よりも理解している。
だからあの時――第三者がいる部屋で眼帯をしていない政宗を見つけ、彼は心底驚いたのだろう。
同時に、少しだけ嬉しかったのかもしれない。偶然かもしれないが、政宗が素顔を他人に曝け出しても頓着しなかったことに。
政宗は勢いよく後ろを振り返った。
背後の布団の住人は、政宗の様子にも小十郎が退室していったことにも気付かない様子で、苦しげに身を縮こまらせていた。
瞼を瞑り俯き、掻き抱くように布団の端を握り締めている。泣くのを耐える幼子のような仕草は、先程の厩での光景と良く似ていた。何もできなかった自分を責める様に哀しく伏せる背中は、酷く頼りない。幼子の啜り泣きが聞こえてきそうなくらいに。
自分の思考に囚われていた政宗は、彼が戦の話をした時から様子が可笑しいことを改めて思い出した。
彼が何か、大事なものを失っているのだということには気付いていた。
あんな状態だったのだ。きっとそれは戦を機縁としているのだろうと、予想が付いていたはずなのに。
普段通りに話をここで聞いてしまったのは失態だったな、と政宗は少しだけ後悔していた。
長い逡巡の後、政宗は握り締められた白い手をそっと上から握った。相手の肩が僅かに跳ね上がったが、空いていた手で宥めるように頭を撫でた。
どうすれば良いのか分からなかったから、彼が目覚める前、無意識に伸ばしてきた手を取った時と同じことしかできなかった。
「……死なないと言うたのは」
ゆっくりと彼が顔を上げた。さらりと絹糸のような髪が揺らめき、白い顔を縁取った。伏せられていた瞳が揺れながらも、政宗を正面から見据える。
長い睫の影と朝陽を溶かしたような目。信念が注ぎ込まれればもっと清廉な透明度を持つだろう、気高い眼差し。
それが今は、揺れる不安を灯している。
「天下を取るためにか、独眼竜」
眼帯を視界の端に捉えながら、彼は言う。変わらぬ淡々とした物言いがやけに冷たく感じるのは、政宗の中で相手との壁を見出してしまったからだろうか。
乱世の中で隻眼などさして珍しくは無いが、手の込んだ眼帯と恭しく呼ばれる政宗という名は酷く有名だ。戦場に身を置く者ならば、大抵誰でも知っている。
一人歩きをしている別称に苦笑を浮かばせながら、政宗は内心軽い落胆に襲われていた。
目覚めた彼と共に、互いの立場も関係なく過ごせたのはたった一刻。きちんと生きているのだと認識できた彼の、起伏の小さな表情に心動かされたとても短い間だけ。
自分が伊達政宗なのだと彼に知られれば、きっと二度と訪れることはないであろうと感じていた。
自らが立っている場所のおかげで、透明な溝が横たわることなど分かりきっていたことだ。
そう自覚すると、そこにいる彼が急に遠くに思えた。名前なんて知らなくてもいいと考えていたのに、胸に感じた寒さに渇望を覚える。
――離れていかないで。
先程まで聞こえていた子供の啜り泣く声が、いつの間にか自分の幼い頃のものに変わっていた。
気が付けば、政宗は彼を布団へと倒していた。
畳の軋んだ音と共に発せられた声は、どちらの物だっただろうか。政宗は自分の影に覆われた白い肌を見下ろし、相手は明るくなりつつある室内の天井を背にする政宗を仰ぎ見る。
「ああそうだ! 天下を取るため俺は死ねない!」
政宗は声を荒げた。
伝わらない言葉がもどかしくて。伝えきれない自分が焦れったくて。
「だがな、アンタをこのままにして野垂れ死ぬことの方がもっと嫌なんだよ! この顔を見ても何も言わなかったくせに、今更独眼竜だから、なんて言いやがって……」
何故こんな行動に出たのか、理解が出来なかったのは政宗の方だった。
こんなことするはずがなかったのに。こんなこと言い出すつもりはなかったのに。
組み敷く麗人を拾ったあの夜から、自分は可笑しい。寂しがり屋な梵天丸だった頃に戻ったかのようだ。
語尾を徐々に窄めながらも言いたいことを言い放ち、政宗は押し黙った。流れる沈黙が居た堪れない。状況を把握しかねているのか、疲労の色が濃い琥珀の瞳はただじっと政宗を見ている。
しばらくして、薄い唇が開かれた。
「それはそなた自身が思うたこと、なのか? 奥州の伊達政宗ではなく、ただ個としての政宗として」
不思議そうに首を傾けた彼に、政宗は頷いた。
纏まらないまま紡ぎ出した言葉は、こうしてみるとやけに単純で簡単な内容だ。それにしては稚拙な言い方をしてしまった。Coolじゃねぇな、と政宗は少しばかり恥を感じた。
頷いたまま俯いた政宗の頬に、低い体温が触れる。
驚いて顔を上げると、押し倒されたままの相手が政宗の歪な右側に触れていた。
一瞬、冷や汗が背中に浮かぶ。女のように細く青白い指先が、母親を思い出させたのだ。
だが、浮かんだ表情は全く違っていた。
「ならば我も個としてそなたの言葉、しかと受け止めよう」
――微笑んだ。
注視しなければ分からないほど小さい、あの、蕾を思わせる笑顔で。
急に他人の体温を意識させられる。吐息さえ聞こえるこの距離は、先程の抱擁を思い出させるには十分だった。
政宗は思わず顔に朱を立ち上らせた。無防備な表情は年相応のあどけなさを残しており、相手は見守るように彼を見ていた。
「アンタ、本当にこの目のこと何とも思わないのか?」
照れ隠しをするかのように、政宗は早口で言った。恋したての子供じゃあるまいし、と冷静さを取り戻そうとするが、浮かんでしまったその比喩にますます慌てる。その言葉が、妙にしっくりと感じたのだ。
――嗚呼、本当に馬鹿馬鹿しい。
「別に。それが貴様の顔だろう。何ぞ思うことがあろうか」
何度も尋ねられ、飽き飽きしてきたのだろう。高圧的な物言いだ。
押し倒された体勢のままだというのに、彼はふんぞり変えるように鼻を鳴らして政宗の顔をじっと見ている。それが様になっているようで、嫌な感じは全くしなかった。
「くっ……ははは! アンタって人は、随分とfunnyだぜ」
相手は男で。厄介事の根源で。多分、口調からすると位も高くて。
頑なに冷たい視線を保とうとしながら、震えたり強張ったり、泣きそうに顔を歪めたりして。急に威張って見せたり、真摯な言葉をくれたり。
生きて、と。
死なないで、と。
何処かで誰かに縋りたい思いを抱えていて――。
馬鹿馬鹿しい。本当に、何て馬鹿馬鹿しいのだろう。
自分を思いきり罵ってやりたい。認めざるおえないほど、高まっていく鼓動を持て余すこんな自分を。
これ以上の係わりを持つなと警告しながらも、紡ぎ出した言葉を、溢れ出していく想いを止められない自分を。
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(2006/09/05)
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