壱:三日月夜佳人 -2-



 次の朝。
 布団の上の佳人は、ようやく混濁していた意識から覚醒していた。
 同じ部屋で寝食している政宗は、普段ならばまだ眠っている早朝に不意に目を覚ました。薄暗いはずの室内に差し込む淡い光が、今は眼帯の無い顔に降り注いでいたのだ。
 障子も雨戸も閉めたはずだと起き抜けの頭で考えながらも、彼は億劫な動作で上体を起こす。
 障子は閉まっていた。しかし雨戸は開いている。縁側から昇り始めた太陽が、薄紙の向こう側から光の幕を作り上げている。
 その中に、細い人影がぼんやりと浮かんでいた。
 どうやら座り込んでいるようで、奇妙なほど縮こまっている人影は微動だにしない。隣の布団が空になっていることを横目で認めた政宗は、微かに早くなった鼓動を持て余し、そっと部屋を仕切る障子の木枠に手をかけた。
 一瞬で視界を照らす眩い日光に、目を細める。
 目の前の人はやはり動かなかった。輝きに縁取られ、薄い栗色の髪が煌いている。柔らかな風がゆるくその頬を撫で、政宗の元に清楚な香りを届けた。あの三日月の夜のような血と泥の臭いはすっかり取れて、木漏れ日のような瑞々しい匂いがする。
 これが本来、彼が持つ気配なのだろうかと、政宗は口の端を自然と吊り上げていた。
 両手を合わせて目を閉じるその人は、彫像のように動かない。神々しいまでの横顔を、ただ黙って眺めることしかできなかった。

「……誰だ」

 どのくらい経っただろうか。
 動かなかった美貌が、すっと振り向いた。
 切れ長の瞳はまるで表情を浮かべない。怒っているわけでも侮蔑しているわけでもないのだが、均整の取れた顔立ちと相成って凄味がある。
 だがそれで怯む独眼竜ではない。政宗は苦笑を浮かべ、縁側で律儀に正座している彼の隣へ座った。

「助けてやった恩人に一言目でそりゃないだろ?」
「恩人だと?」

 あえて軽い口調で告げると、相手は怪訝な顔をして眉を顰めた。
 覚えていないのも無理は無い。何せ長い意識不明のまま、地獄に片足を浸していたようなものなのだから。
 聞き触りの好い声を耳に入れながら、政宗は大仰に頷いて見せた。

「I'll say. 数日前に、近くの森で死に掛けていたんだぜ。馬がいなけりゃ気付かなかったくらいだ」
「馬……」

 きつい眼差しをしながらも現状を把握しきれていないのか、ぼんやりと政宗の話を聞いていた彼は、その単語に反応を示した
 白い顔を青くしながら突然立ち上がり、縁側を慌しく駆けていく。
 急な行動に驚いたのは政宗の方だった。何処へと声をかける前に、相手は素足で厩の方へと走り寄っていく。白い裾から零れる足を無意識に眺めながら、政宗はその後を追い掛けた。


 朝日が注ぐ厩の中、心配そうな馬の嘶きが響いている。
 開け放してあった戸を後ろ手でそっと閉めながら、政宗は俯き座り込んでいる者を見下ろした。
 小さな手が、ぐったりとして動かなくなった生き物を優しく抱え込んでいる。
 ――長い睫を閉じたあの馬が、息を引き取っていた。
 愛馬の冷たくなった頭を抱き締めながら、彼は何を考えているだろう。
 続く沈黙の中、政宗はさらさらと零れる彼の髪を見つめた。

「昨夜までは生きていたぜ。……アンタを見つけたときには、もう衰弱が激しかった」
「世話を、してくれたのか」

 か細い声に肯定を返し、政宗は自分の馬を撫でた。

「こいつがずっと付いていてくれた。一人ぼっちじゃなかったさ。……アンタが目覚めて、きっと安心したんだろうな」

 言い聞かせるように告げる政宗に、彼は振り向いた。
 表情の無かった綺麗な顔。それが、泣き出しそうに歪んで見えたのは気のせいだろうか。呟いた声音が、微かに震えていたように思えたのは聞き間違えだろうか。

「我は、此奴に何をしてやれる?」

 長い前髪の間で揺れる双眸が自分を見上げ、政宗は僅かに言葉に詰まる。
 先程眺めた夜明けの日輪のように、澄んだ琥珀の瞳。凍ったように動かなかったその色彩の奥に、今は確かな悲哀の感情が見え隠れしていた。そこには先程のような人ならざる者の神々しさは微塵も残されておらず、暗闇で彷徨う幼子を思わせる。
 彼も武士であるのなら、幾つもの死を見てきたはずだ。今更馬の一匹死んだとしても割り切れるのが普通だろう。
 甘い奴だと、普段ならばきっと吐き捨てられた。けれど今は、悪態の一つも浮かばない。
 死にかけていた眠り姫。凍えた面を張り付かせていた美貌。焦がれていた瞳に走った、感情の皹。
 間近でそれを見た政宗は、衝動的に彼を抱き寄せた。

「っ触るな!」

 弱々しくもがく身体を宥めようと、回した掌で背中をゆっくり叩く。幼子をあやすよう、片方だけの目を閉じて遠い記憶を思い出しながら。

「弔ってやれ。こいつがいたこと、忘れんな。他人の命を糧にした奴にできることは、それくらいしかありゃしない」

 抱き込まれた彼には、政宗の心臓の音が聞こえていた。とくりとくり、と一定の間隔を刻むそれは、背中を撫でるように叩く手と同じく心地良い。

(温かい……な)

 他人はこんなに温かかっただろうか。
 彼は薄ぼんやりと脳裏に残る、ある人との会話を思い出した。
 目の前で抱き締めてくれる男の口調が、その人と似ているせいだろうか。心の扉の鍵を見つけてくれた、眩しい笑顔の鬼と――。

 馬に触れていた手が、己の背に回ったことに政宗は驚いた。
 ほんの少し会話しただけだが、相手が気位の高い者であることは察していた。初対面の相手に気を許すような、そんな軟な相手ではないと感じていたというのに。
 その、手が。
 昨夜の儚い声音を思い出し、思わず政宗は撫でていた手を止めてそのまま力を込めた。

「……そなたは死なぬか」

 背丈も体格も違う男に抱き締められ苦しいだろうに、彼は抵抗も見せずにぽつりと呟いた。
 俯いた表情は見えない。細い薄茶の髪が、重力に従って下を向いている。浅い呼吸音に、本当はまだ伏せっていなければならない身体なのだと否応なしに気付かされる。
 彼の意識が朦朧とする前に――答えなくては、駄目だ。

「Ha, 予定はねぇぜ?」

 奇妙な危機感を覚えながら、政宗は言った。いつものように余裕ぶった口調を取り繕って、鼻で笑い飛ばしてみせる。
 顔を上げた彼は、ぼんやりとした眼で政宗を見た。
 そうして、少しだけ微笑んだ。
 たった一瞬のことだったけれど。見間違えだったのかもしれないけれど。か弱い花が、精一杯蕾を開かせるように。
 ――笑って、くれたのだ。



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(2006/08/30)



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