壱:三日月夜佳人 -1-



 その日、本能寺の空は赤々と染まっていた。
 尾張の魔王を討った。そう政宗が自覚したのは、猛々しき業火がようやく治まった頃になってからだった。
 今宵は祝いの日。一時の安らぎとこれからの精力を養うため、そして上洛の喜びを祝う盛大な宴が行われていた。
 これから攻める瀬戸内海を、眺めながらの酒もまた一興か。奥州から随分と行軍してきたものだと、政宗は一人感慨深げに遠くの波音へと耳を傾けていた。
 部下達の楽しげな歓声に安堵感を催すが、彼の視線は西に定まったままだった。
 最大の壁であった織田は破った。しかし気を抜くことは出来ない。根拠の湧かないざわつきを覚えながら、杯の進まない酒を見下ろす。
 透明な液体が映し出すのは、欠けた月。
 風流だねぇと口角を上げた政宗は、気を抜けば殺気立ちそうな己を自制しながら、残っていた酒を一気に煽った。

「Hey, 小十郎、ちっとばかし夜風に当たってくるぜ」

 黙っていなくなると口の煩い部下に一応声を掛け、手頃な沢へと降りていく。後ろの方で小十郎が慌しく、供をつけて下さいと叫んだのが聞こえた。すぐ戻ると言いながら軽く手を振って、政宗はそのまま暗がりの奥へと進んだ。


 小さな森から流れてきた沢の側は、程よく涼しい。虫の穏やかな鳴き声を聞きながら、手頃な岩の上に座り水面を覗き込む。
 やはりそこには、白い顔を見せる爪の月がある。
 曇り続きだった空を仰げば、柔らかな月光が降り注いでいた。西風に追い立てられた雨雲が広がっていたため、ここしばらくの天候は悪かった。しかし今夜からは晴れていくようだ。
 幸先が良いと笑った政宗は、静かに吹く風を感じようと瞼を閉じかけた。

 不意に、風向きが変わる。
 左目を開いた政宗は、暗闇に閉ざされている森の方を見た。
 ざわめく木々の間に、妙な違和感があった。生き物の気配が微かにする。人里に近過ぎるこの場所に熊はいないだろうし、鳥はねぐらに帰っている時刻だ。
 刺客かと腰元に刺している刀に手を這わすが、一向に気配は動こうとはしない。一人の時を狙うのならば好機だろうと不審に思う。
 しばらく黙って構えていた政宗だったが、緩くなった風に運ばれてきたものに眉を顰めた。
 微かだが血の臭いがする。そして、枯れ草を踏み締める音も。
 独特のそれは人のものではない。警戒を解き、森の奥へと目を凝らす。薄暗い木陰と草むらの向こうで、一頭の馬が静かにこちらを向いていた。

「……迷子か?」

 野生の馬は群れるため、何処かで飼われていたものだろうか。先程まで殺気を放っていた政宗に臆することなく、この一人ぼっちの馬はじっとしている。
 動じない馬に少しばかり興味が湧いた政宗は、驚かせないようにゆっくり近付いた。飼い主以外寄せ付けないらしく、馬は一歩後退りする。

「とって食いやしねぇって。お前、何処から来たんだ?」

 怯えさせないよう優しく笑った政宗は、馬の傍らに寄った。敵意が無いことが分かったのか馬は大人しくしていたが、つぶらな瞳でじっと政宗の挙動を監視するように眺めている。
 よほど主想いなのだろうが、つい先日まで戦のあった場所に迷い込んでいるところを見ると、戦場ではぐれたか捨てられたか。どっちにしろ、もはや元の持ち主の所へ返してはやれないだろう。
 元来馬好きな政宗は、この賢そうな奴を連れていけないだろうかと考えた。
 随分食べていない様子の体は痩せ細っているが、それでも眼差しは死んではいない。元気になれば、広大な戦場であっても力強く駆けて行くだろう。
 馬の顔を見てみれば、ぼろぼろの手綱が申し訳程度に巻かれていた。泥で汚れた口周りを見る限り、限界まで走り続けていたと推測できる。しかも、あの連日の雨の中を。
 よく死ななかったものだと感心しながら、くたびれた鬣を軽く撫でてみた。すると馬は警戒をとうとう解いたのか、項垂れるように頭を政宗の手に擦り付ける。思わず破顔した政宗だったが、垂れた馬の首の奥――手綱の先を見て絶句した。

 ――人だ。

 これほど近いのに気付かなかった己に舌打ちをし、政宗は注意深く相手を見下ろす。
 政宗の感じた緊張が伝わったのか、馬は再び後退しようとした。政宗はそれを押し留めながら、馬上で倒れているその人へと手を伸ばした。
 身動ぎさえしない細く、小さな背中。暗くてよく分からないが、水分と血液を吸って変色した小帷子が、重そうに身体を覆っている。ぴくりとも動かぬ姿は死人かと思ったが、耳を寄せて見ればか細い吐息が聞こえてきた。
 気配が読めなかったのは当然だ。死体同然で、命の灯火が感じられないのだから。
 巻き付けられた手綱は、決して放さないようにときつく縛られている。鬱血が酷く、放置しておけば指先が腐り落ちそうなほど変色していた。
 腕を覆う傷だらけの籠手を見る限り、どうやら武士のようだったが、鎧や兜は視線を廻らせても見当たらなかった。
 手綱を緩め、鞍の上で反転させる。気を失っているため全体重が腕にかかると思いきや、細い身体は予想以上に軽い。
 まるでそこに存在していないかのような感覚に、政宗はぞっとした。
 死体であれば単なる物と成り下がり、そこには無機質な重みしかない。この冷たい身体は、同じ感触がする。本当に生きているか信じられなかった。

「放って置けば、確実に死ぬな……」

 そこまで考えた政宗は、ようやく気付いたように手を止める。
 何処の誰とも知らない死にかけを、どうして自分は構っているのだろうか。助けてやる義務も義理も全く無いという相手に。
 そう考えると酷く馬鹿馬鹿しく感じると同時に、この奇妙な巡り合わせに対して粟立つような感覚がした。
 逡巡を悟ったのか、馬が見据えてくる。結局お前はどうするのだと無言で告げられたような気がして、政宗は慌てて作業を再開した。

 ――今夜は胸がざわつく。
 何かが、始まるような気がする。
 月のせいだろうか。酒のせいだろうか。
 はたまた、ただ次の戦を思い高揚しているのだろうか。

 不思議な熱を感じながら仰向けにした人物を、政宗は呆けたように見た。
 馬と同じように泥と血に汚れた、青白い顔。雨に濡れてそのまま乾いてしまったのだろう薄い色の髪。力なく閉ざされたままの瞼を彩る長い睫。
 格好を見れば確かに男なのだと分かるのに、体格やその顔は到底同性だとは思えない。
 まるで今夜の三日月のように、その人は静かに存在していた。




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 ようやく上洛を果たした伊達軍は、西の大地へと進軍を定めていた。しかし辺りはつい先日まで織田領であったうえ、西に面していたのは謀反者である明智領だ。そのどちらをも討ち取ってしまったため、領内は混乱の最中である。
 平定に追われる政宗は、しばらく合戦とは縁の無い生活を強いられていた。十日ほどの短い期間で、領主が二度も変わってしまえば民も混乱するのは致し方ない。愚痴りながらも天下取りを続行させるために、忙しく政務をこなしていた。
 そんな彼が、仕事を終えると一目散に向かう場所がある。
 仮住まいの屋敷の一番奥――己の寝室だ。
 何かに熱心らしい殿に、周りの家臣は首を傾げるものの特に何も言わなかった。政宗様のことだ大事無いだろう、と言って。
 事情を知っている小十郎だけが、微かに眉を顰めていた。


 目を覚まさぬ冷たい美貌を見下ろしながら、政宗はそっと溜息を吐き出す。額に手を当ててやれば、熱は随分下がっている。
 天下取りが進む中、自分の部屋に見ず知らずの人間を上げるなんて自分でも可笑しいと思う。
 けれど見つけてしまったという義務感と馬の忠義心、それから少しばかりの好奇心に負けて今に至る。
 手桶の水を換えるため縁側を歩いていけば、厩が目に入る。そこには政宗の馬とあの痩せ細った馬が共にいた。
 連れて帰ってきて厩に入れたところ、安心したように倒れてしまったがまだ生きている。だがもう餌も満足に食むことが出来ず、衰弱に拍車がかかっていた。
 ――きっと長くはない。主の目が覚めるのが先か、馬が死ぬのが先か分からないくらいに。

「政宗様、何を呆けておられる」

 ぼんやりと手桶を抱えたまま縁側に腰掛けていると、廊下の奥から小十郎が呆れた口振りで話しかけてきた。

「ん……ああ、何でもねえ」

 それに生返事を返しながら、政宗は立ち上がった。
 政宗様、と咎める声を無視して部屋に入り、畳みの上に座る。そして熱を吸った手拭いを替えてやった。
 後ろに立つ小十郎は律儀に障子を閉めたが、その表情は見なくとも険しいだろうと分かった。
 数日前の夜に、突然政宗が連れてきた一頭の馬と見知らぬ人物を、小十郎は何度も捨て置けと進言していた。
 織田を討ったばかり、一体何があるか分からない。しかし天下はより近づいているのだ。主に何かあってはと思う気持ちが、いつもよりも大きくなっている。
 そんな従者の思いを理解は出来る。既に何度も自問自答さえしているのだ。
 だが、どうしても放ることはできなかった。
 瞼を閉じるだけで、あの美しくも死の臭いを纏う面がちらついては離れないのだ。

「薬師は今日明日にでも目を覚ますと言っておりましたが――その時はどうするおつもりですか」
「It doesn't understand. そんなの俺が聞きてぇくらいだ。厄介事、拾ってきちまったな」

 そう苦笑しながらも政宗は、静かに眠る美貌の頬をそっと撫でた。
 厄介事と自ら言うように政宗は分かっている。分かっているのにどうすることもできない自分自身に、酷い居心地の悪さを感じているのであろうと、長年側にいる小十郎は痛感していた。
 片目を失くして母に疎まれ、幼かった主はどれほど自己嫌悪に陥ったことだろう。
 奥州を率いて天下を狙う独眼竜だと呼ばれても、まだ歳若い政宗の中には癒えぬ傷が残っている。痛む記憶の月日は十年も前の話では無い。風化するにはまだまだ時間がかかるだろう。それでも政宗は天駆けることを選び取った。
 祭り上げたのは自分達だ。
 小十郎はその事実を認識しているため、こうして時折子供のような背中を見るたびに胸が苦しくなった。
 困ったように笑う政宗の横顔を眺め、黙って小十郎は頭を下げて退室した。
 再び、静寂が戻る。

「……どうする、か」

 ぽつりと零した政宗は、眠る人を見つめる。
 穢れた世界を否定するように昏々と眠り続ける彼は、負け戦から命からがら逃げてきたのだろうと予想できた。
 もしかしたら自分が何処かで傷つけていたのかもしれない。乱世が恐ろしくなり、戦場を後にしたのかもしれない。
 負け犬だ、腑抜けだ、という言葉が浮かぶものの、綺麗なこの人には酷く似つかわしくないように思えた。
 願うのは、早く自分を真っ直ぐと見て欲しいということだけ。
 そうすれば何か分かるかもしれない。出会った時から感じている、このざわめきの意味も。
 その時、長い睫が微かに震えた。
 慌てて政宗は顔を覗き込み、何度も呼びかける。覚醒の兆しが見えた。どうか目覚めてと、祈りを込めて。
 静かに、静かに、あの夜の闇のように深い瞳が開かれる。熱で潤んだ双眸が、縋るような顔をした政宗を映し出した。

「……い……て……」

 掠れた声音が、吐息に混じり聞こえてきた。呼びかけながらも政宗は、口元に耳を寄せる。か細い呼吸が肌を震わせた。まだ荒く、苦しげだ。
 側に置いてあった水差しを手に取ろうとした時、今度ははっきりと言葉が聞こえた。

「生……きて……」

 ふらりと持ち上げられた白い手。もがくように虚ろに動くそれを、政宗は迷いなく握り締めた。
 ――ここにいると。
 ――ここでお前の手を握っていると、教えるように。
 無意識の内に力が入っていたのだろう、彼の小さめな手の骨がぎしりと軋んだ。慌てて緩めようとすると、相手が逆に縋るように政宗の手を弱く握り返してきた。
 そこに生まれた感触は、温情か、庇護欲か。
 瞠目した政宗に気付くことなく、確かな体温に安堵したように再び彼は目を閉じてしまった。
 呆然と、政宗は握られたままの手を見下ろす。
 じわりと染み出る得体の知れない感情が、胸から迫り上がってくるような感覚がした。



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(2006/08/27)



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