序:遅過ぎた後悔
聞こえてくるのは自分の荒々しい呼吸音。限界を超えて走り続ける愛馬の蹄。止まない土砂降りの雨。
耳に残るは悲痛な叫び。懇願。哀しい笑顔。
置いてきてしまった――否、逃されてしまった。
――貴方が生きている限り、何度でも御家は蘇りましょう。
だから、生きて下さい。
生きて、いつの日かこの地に再び花を咲かせて下さい。貴方の愛した安芸の大地に帰ってきて下さい――。
彼らは笑っていた。
有無を言わせず馬に乗せられ追い立てられ、止めろと何度も言い放ったけれど、初めて彼らは自分の命令に逆らった。氷の眼差しだと恐れられている双眸を、ただ優しく見返された。
呆気に取られる間もなく、彼らの姿は遠のいていく。戦火も血の臭いも、轟々とする川の氾濫も、暗闇の向こう側にやがて見えなくなった。
断末魔が何処からか聞こえていたというのに。
それは、自分を呪う言葉ではなかった。
それは、自分を恐れる言葉ではなかった。
ただ希望を羽ばたかせたことを憂いながらも満足に思う、死に際の温かな想いを叫んでいた。
貴方がいれば。貴方がいれば。貴方がいれば――。
子供の頃から繰り返されている呪詛のような単語が目まぐるしく脳裏を掠める。しかし、いつもであれば灰色の冷たい羅列が今だけは違って聞こえていた。
彼らは死んだ――希望を、胸に。
自分に期待しているのは薄暗い穢れた感情ではなく、ただ信じているという、常ならば一蹴にしてしまうであろう愚直なもの。それは薄っぺらな幕なのだと思い続けていたのに、本当はとても綺麗なものだった。
知った時には皆、冷たい水底に沈んでいて。炎に焼かれて倒れ伏していた。己を庇って血塗れとなってしまった。
生きて下さい。
生きて、そして――。
祈りの声はもう聞こえない。誰も自分の側には残っていない。
何度目か分からぬ嘆息が漏れていく。いつだって失くしてから気付くのだ。冷たい氷の向こう側に、本当は春が近づいていたのだということに。
愚かなのは自分だったのだろうか。頑なに自分を守るあまり、認めることを止めて逃げていたのだろうか。もう教えてくれる人は誰一人としていない。
怯え、恐れ、諦めながらも、共に戦い続けていた者達も。理解ができずに相容れぬまま従い、それでも敬愛しているのだと呟いていた子供達も。短い温もりをくれたのにいなくなってしまった、或いは自ら屠った親兄弟も。
凍った自分を真っ向から見据えてきた、あの隻眼の鬼も。
もう、誰もいない。
――いないのだ。
鈍い動作で暗い森の間から空を見上げる。そこにあるのは真っ暗な天上と涙のように落ちていく水滴。
手綱を巻きつけていた手は赤から青紫に変色し、既に感覚を失っている。兜も肩当ても失い、傷だらけの籠手がその手を辛うじて隠していた。所々出血しているせいもあり、自らの体温すら感じられなくなり始めている。血の気の退いた頬には、色素の薄い髪が貼り付いていた。
あれほど愛した日輪は、全て失ったあの日から一度も見ていない。
朦朧とする視界の中で仰ぐ雲模様は、戦場跡に残る醜い煙のようにも似ていて。
駒だと言い聞かせて殺していった者達を埋葬した時の、自分の気持ちにも似ていて。
忌々しくもあり、あれはまた自分自身なのだとも感じた。
何がいけなかったのだろうと、後ろを振り返らないと決めた自分の道を今は顧みてばかりいる。靄のかかったような重苦しさばかりがこの胸に住んでいた。
計算が狂ったなどとは思わない。選び取った全ての選択は、最初からずれた歯車だったのではと全てが疑わしかった。
こんな道を選択したかったわけではないのだ。
用意された舞台の上になぞ立ちたくはないと、本当は思っていたはずだったのに。一つしか残されていなかった運命なんて、逸れたかったのに。
自分の思考に嘲笑が浮かぶ。
そうやって再び逃げるのか。
自分しか家を守れる者がいなかったから、家督を継いだ。脅威となるものを消し去っているうちに、中国を全て平らげていた。大きくなってしまったからこそより増えた敵から、守るべきものを二度と奪われないようにと、無力な自分を隠すために仮面を被った。
けれど自分はそれを望んでいなかったなんて、言い訳じみている。
混濁する意識の中、痙攣している愛馬の首に顔を寄せる。息が上がり、泡を吹いていたが走ることを止めない。
託された願いを知っているかの如く、何度も手綱を引いたが決して方向を変えることなく走り続けていた。もう幾日経ったのかも分からぬ中、ずっと、ずっと。
荒々しくも優しいこの生き物の命をすり減らしながらも、自分は生きなければならないのだ。
消えない志と共に。
与えられたものを全く望んでいなかったわけではない。守りたいものが確かにそこにあったから、そのために自分は人形であることを選んだはずだ。
誰からも後ろ指を刺されようとも、苦しくならないように心を閉ざして。
――未来を紡ぐために、選んだのだから。
明確な答えが浮かぶと、今度は苦笑が漏れる。
気付くことが遅過ぎた。
一体どれほどの犠牲を払って、この真実に辿り着いたのだろう。それが分かってさえいれば、このような結末を迎えずに済んだのかもしれないかったのに。
不器用な語り掛けをしてきたあの鬼や、身の回りにいた他人をきちんと認識できていれば、自分も遠い昔のように屈託もなく笑えたのだろうか。
幾度も自身の疑心の中を彷徨いながらも、今、願うことは唯一つ。
――どうか。
分かり合えなかった人々。守るべき者達。力が足りずに、守りきれなかった人達。浮かんでは消える、無数の笑顔。
生きろと言われた自分が願うのは愚かしいことなのかもしれないけれど、心底もう誰にも死んで欲しくは無いと思う。
血などもう関係が無い。家などもう関係が無い。それらはこの身一つあれば事足りるのだから。
――どうか、生きていて。
今はただ、大切だったと言える皆が無事であることだけを祈りたかった。見えないままの日輪に、降り止まない恵みの雨に、ざわめく深緑に、ぬかるむ大地に。神でも仏でも、万物に宿る御魂でも、願いが届くというのなら何でも構わない。
ただ、生きていて欲しい。
生きて、いつの日か故郷で会えたのなら。支えてくれた人達に伝えたい言葉があるから。
もう意識は消え始めている。目の前が霞み、徐々に視界が暗くなった。
手探りで馬の鬣をそっと触れ、ただ優しく自分を生かしてくれる生き物を撫でながら、彼は真っ暗な闇に落ちた。
最後に呟いた声が聞こえたのだろうか。馬は己を奮い立たせるように嘶き、足を進める。
小さく紡がれたその五文字の単語は、仄かな温かさを伴って空気に解けていった。
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(2006/08/26)
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