灰と焔


 人は刹那であれ、炎の猛々しさに瞳を奪われる。猛攻を揮い危機に晒されたとしても、火が消えた後では鮮烈に刻まれた赤を口々に褒め称える。そうして、轟々と燃える焔も天まで焼き焦がすことは決して出来ないことに対し、内心で安堵を覚えるのだ。
 ――真田幸村は、大阪の役に出陣していた徳川の犬達に強くそれを感じさせた。
 己が屠った真の武士であった男の傍に立ちながら、政宗は止みそうもない雨を見上げる。
 幸村が炎だとしたら、彼は立ち上る澱んだ煙の如く今頃静かに空の向こう側へと還っているのだろう。最後まで貫き通した義と共に、誰よりも大切だった仲間達の元へ。
 ここに倒れている幸村の身体にはすでに命は無く、肉塊と化した亡者の一人でしかない。胎動と共に燻っていた彼の熱も活動を止めたままで、この場に幸村という男がいたということの証明をするだけの意味しか持たなかった。
 炎が消えて、煙が上り、そうして残るものは燃え滓だけ。
 誰もが火の美しさを謳いながら、白く崩れた灰には目をくれない。灰自身もまた炎を灯していたことを忘れて、風に晒されて形を失う時を待つばかり。
 上っていった煙の後を追うことも出来ずに、一人きりで大地に残されたまま。
 ――幸村が炎なら、お前は燃え滓か。
 皮肉なことを考えながらも、政宗は決して笑うことはない。笑えないほど、的を射た真実にも近いことだと理解しているから。
 夏であるというのに妙に冷たく感じる雨粒は、政宗の身体に容赦なく降り注ぐ。足元に倒れている死骸にも――その隣に力なく座り込んでいる兼続にも。


 天の涙は、何を哀れんでいるのだろう。
 天下が傾いたことにか、政宗の心情に対してなのだろうか。それとも灰のようにひっそりと心を崩してゆく、兼続を想ってなのだろうか。
 兼続は最初に男を、ゆきむら、と力なく呼んだだけで、ずっと堅く口を閉ざしていた。
 あまり戦に出なくなった手は、以前見かけた時よりも薄くなっているような気がする。雨のせいで体温も奪われ始めているのか、少しだけ青白い。
 仰向けになっている幸村の手を握り締め、彼は今何を思っているのだろうか。空から視線を戻して覗き見るものの、生気の無い横顔からは何も窺えなかった。
 奥歯を噛み締めながら、政宗は露わになっている目を彷徨わせた。
 今も握っている刀身に滴っていたはずの血は、雨によって跡形も無く流されている。それでも刃が幸村の命を絶った時の感覚は、今でもはっきり思い出せた。
 血濡れで倒れていく男の向こう側で見開かれていた兼続の絶望に黒く染まった眼差しも――脳裏に焼き付いて離れない。
 以前であれば大切な者を傷付けられるたびに吼えていただろう口元は、戦慄くばかりで何の音も漏らさなかった。せめて自分を罵ってくれるだろうかと微かに抱いていた期待も、込み上げた虚しさで掻き消えた。
 政宗は、兼続を好いていた。
 誰かに悟られるのが悔しかったし、子供の戯言だと一蹴されることが怖くて表には出そうとしなかったが、愛情に縁薄い政宗が自覚できるほどの確かな恋心が彼の胸には居座っていた。
 真っ直ぐな気性と穢れなき理想を語る姿が甘いものだと分かっていながらも、心を惹かれずにはいられない。自分では選べない道を歩いている者への憧れの延長だったのかもしれないが、今となっては詮無き結果論だ。
 けれどここにはもう、忌々しいほど眩しかったかつての存在は何処にもいない。
 ――それでも此奴は、紛れも無く直江兼続だ。
 政宗は瞼を深く瞑りながら、脳裏に過ぎるかつての兼続を思い描いた。そして関ヶ原の戦いを契機に、笑わなくなってしまった兼続をそれに重ねる。どちらも政宗が愛憎や憧れと嫉妬を抱き、好敵手として何度もぶつかり合い、遠くからずっと見ていた恋しい人だ。敵対していようとも同じ陣にいようとも、それだけはいつも変わらない。
 どれほど失望や悔しさを覚えても、彼への気持ちはまだ消えてはいないのだから。

「兼続」

 名を、呼ぶ。
 彼の名を形作るのはどれくらい久しぶりなのだろう。
 口を開けばいつだって喧嘩腰だった。こんな風に哀しい気持ちで話し掛けることがあるのだということを、あの頃は予想もしていなかった。
 兼続のことを憧れにも似た感情で恋しく思っていたのは確かだが、所詮自分達は相容れない思想の持ち主。彼の前に立ち塞がることは出来ても隣には立てないのだと身をもって知っていた。
 だから光の中で笑っている兼続の背中を眺めていることは、至極当たり前のことだった。羨ましくて、自分を見て欲しくて、彼に何度も突っ掛かった。その度に政宗は自分と兼続の違いを見せ付けられ、だがそんな兼続だからこそ恋慕を抱いたのだと思い知った。
 そうしていつからか、遠くで見ているだけでも構わないと思い始めていたというのに――。


「……政宗、幸村が冷たくなってしまったよ」

 不意に兼続は口を動かした。呼び掛けに反応したのか、そうでないのか判断のつかない独白めいた言葉が紡がれる。
 あまりの覇気の無さに政宗は拳を強く握り込んだ。
 兼続を追い詰めた責の一端は自分にあるからこそ、身体の奥に棘が刺さったように鈍い痛みが何度も過ぎる。国を背負う者としては選ばなくてはならない選択だったが、兼続を意図的に傷付けたいと思ってしたことではない。
 そう自分に言い聞かせながら進んできたが、横たわる目の前の結果が政宗には切なくて堪らなかった。

「小田原で会った時、な。幸村はまるで消えかけの灯火のように弱々しかった。だが……私が捨てなければいけなかったものを後生大事に拾い集めて、いつの間にかこんなにも大きな炎となっていたのだ」

 語尾が震えていることに気付かないふりをして、政宗は俯く。
 思えば兼続の目の前で、彼の大事な者を殺したのは初めてだ。
 三成は遠い地で処刑され、長谷堂で兼続を逃がした慶次は仁王立ちしたまま絶命した。兼続が彼らの死を知るのはいつだって第三者の手によってもたらされている。
 残った幸村とは不本意ながら刃を向け合い、あまつさえ目の前で政宗によって斬られてしまった。
 生々しい血飛沫も、音を立てて崩れ落ちる身体も、徐々に冷たくなっていく肌も――虚ろに生きてきた兼続の前に喪失という現実を容赦なく突き付けた。

「だがもう、その焔の魂もここにはないのだな」

 兼続は澱んだ目で宙を見上げた。
 探しているのは幸村の魂か、逝くべき死者の国だろうか。

 ――燃え滓。

 先程浮かんだ言葉が、再び政宗の中に湧き上がった。
 濁った瞳は淡々と世界を無感情に映すだけなのだろう。追いかけることも許されず、忘れることも叶わず。焼き付いた炎の色を思い出しながら、上っていった煙のように掻き消えたいと願う地上に残された哀れな灰。
 姿はあれども空蝉でしかない、上杉という守るべきものだけで形作られた中身の無い身体。
 甘美な死を静かに待つことしか出来ない兼続の半分は、すでに躯なのかもしれない。そんな彼に死を与えることは、最大で最高の慈悲なのだろう。
 ――だが、出来るわけがない。
 政宗はくつくつと喉を鳴らした。
 殺せるような相手であれば、当の昔に殺している。幾度となく刃を向け合っていたのだから、造作も無いことのはずだった。
 真に、憎しみ合えていれば。
 兼続は政宗を憎みきれていなかった。それは博愛から来るものなのだろうと政宗は苦々しく思っていたが、彼の瞳にはちゃんと自分が映っていたことを知っている。
 何の邪推もない眼差しに政宗が政宗として映っていることが、どれほど嬉しかったことだろう。
 曇った瞳を持つ今の状態になっていても、兼続は政宗が瞳に映ることを許している。誰かに聞かれれば幸村との癒着を揶揄されるような独白も、他でもない政宗に対して告げた。
 そんな彼を殺せるはずがなく、そしてこれ以上の崩壊をさせてやることも出来ない。

「兼続」

 もう一度名を呼んだ。
 振り向いた兼続に向かって、政宗は刀の切っ先を差し向ける。晒されている白い首は雨で滴り、艶めかしくも見えた。
 政宗は口元に弧を描き、兼続を見下ろしている。
 暗い微笑みを浮かべながらも、彼の片目に宿された眼光には鋭く強い決意の色が宿っていた。
 兼続はそれを見たことがあった。迷いながら戦っていた自身に、幸村が投げ掛けてきたものと同じ、強固な意志に彩られた清廉たる魂の色だ。

「貴様も向こうへ行きたいか。焔を追いかけたいか」

 幸村との戦いの中で、政宗はずっとわだかまっていた燻りに火を付けられた。
 死することが分かっていながらも自身を偽らなかった幸村は、空を焦がすことの出来なかった炎そのものだ。残る煙は先立った仲間の元へと旅立ち、その残り香は燃え滓のように一人居残ってしまった兼続のみならず政宗の中にも染み付いて離れようとしない。
 それが良いことだったのか、悪いことだったのか――知るは天と、後世の者達だけだろう。
 上等だ、と政宗は笑いを噛み殺した。

「私は……」

 真っ直ぐな眼差しにたじろいだ兼続を眺めていた政宗は、そっと刀を下ろす。
 静かな視線に晒され、兼続は口を噤んでしまった。
 欲しくて仕方の無かった死に対して、迷いを感じた。それは何故だろうかと、必死で考えているのだろう。
 政宗はそっと屈んで、兼続と目線を合わせた。

「逡巡するのならば、まだここにおれ。貴様に見せなくてはならぬものが出来た」
「見せたいもの?」

 兼続が怪訝そうに顔を歪めた時には、政宗の顔は鼻先まで近づいていた。
 そうして、唇は自然と触れ合った。
 初めてのそれに兼続は目を見開いたが、交わった政宗の左目が不思議なほど凪いでいることに気付き、抵抗しようと上げかけた手をそのまま下ろす。空っぽになった兼続の中にゆっくりと息を吹き込むような柔らかな仕草。そこに性的な意味合いはなく、神聖な儀式そのものだった。

「ま……さ、むね」
「待っておれ。それまで決して消えるでないぞ」

 政宗は名残惜しみながらそっと立ち上がり、踵を返した。
 早く東へ行かねばならない。
 この盟約が叶わなくなる前に――兼続と交わした、最初で最後の約束を無為にしないために。
 幸村が自らの炎にくべたのは兼続の心だとしたら、自分に灯った火種にくべられたのはその残滓。欲しかったものは手に入らず、残った灰を必死で掻き集めて口に含んだ自分は滑稽な生き物だろう。
 だが燃え滓を飲み込んだ喉は恋に焦がれ、燃え上がった胸の炎は自分を天に近づける。そこからどれだけのことができるかは分からないが、己は無闇に臆する独眼竜ではない。
 眩しくて遠めで見ていたあの輝きを、今度は政宗自身が纏う番が来たのだから。

「政宗、何処に行くのだ!」

 背中に投げ掛けられた叫びに、政宗は一度だけ振り返った。
 彼らしい、子供っぽい笑みを浮かべながら。

「江戸へ。貴様に、焔が焦がした天を見せてやろう!」

 雨は激しさを増す。空が咆哮を上げているように。
 兼続は遠のいていく政宗の背に、飛翔する隻眼の竜の姿を見たような気がした。



 - END -


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政兼アンソロに書かせて頂いたものです。
微妙に幸兼っぽい要素を含んでいますが、あくまで政兼。
江戸の陣は勿論雪のイメージですが、大阪の陣は雨のイメージがします。同じく長篠の戦いも大雨なイメージなのは、幸村の炎が消えた場所だからでしょうか…。
かっこいい政宗が書きたかったのですが、何だか偽物ちっく;;

(2007/09/29)


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