泣くな。
 泣くな。

 もう、泣かないでくれ。


 お前は笑っていた方が良い。
 お前の笑顔が、好きだから。たとえ自分のものではなくとも、遠くから見ているだけであっても好きだったから。

 痛ましい笑みなど。虚ろな目など。哀しげな横顔なんて、もう見たくない。
 お前の側にいられなくても構わないから。

 今は泣いてもいいんだ。泣いて、泣いて、もう何も出なくなるくらいに涙で流してしまえばいい。
 辛かったことも。悲しかったことも。悔しかったことも。
 全部忘れなくてもいいから。
 今だけは、他の誰でもない自分がお前のことを許してやるから。我慢しなくていいんだ。

 だから。
 どうか、もうこれ以上泣かないで。

 きっと――お前を守るから。もう一度立ち上がってくれ。


 お前の心を、どうか殺さないで。




始まりの夜に



 青褪めた白面で見上げてくる。黒く艶やかな髪の間から覗く灰の瞳に常ならば浮かんでいた不思議な光は既に無く、死者の仲間入りをしてしまったかのように弱々しくこちらを見ていた。
 つい先日まで、彼の顔にはあんなにも綺麗な精彩が溢れていたというのに。
 心を奪い去って行った相手が憎くも思え、羨ましくも思うけれど。隣に自分の居場所がなくとも構わないと、ただ憧れにも似た焦燥を抱いたまま彼が幸せそうにしてくれていればいいのだとずっと決めていたことだ。
 だから嫉妬心は、さほど湧かなかった。

 もう少しだけでも関ヶ原で耐えてくれれば、こんな虚しい結果には終わらなかったのだろうか。
 現実主義の自分が言うのもおこがましいことだが、西の地で敗走した男の涼やかな後姿を思い返しながら、彼が勝っていたらと想像する。

 ――そうだったら、彼は、笑ってくれていただろうか。
 そして、今ここにいる彼は自分になっていたのだろうか。

 詮無き事、と首を微かに振る。そして暑苦しい兜を外しながら、彼と目線を合わせるために屈んだ。一層強く、血の臭いが鼻をついた。慣れた香りは彼のものだと思うだけで陶酔感にも似た高揚が胸を刺したが、自分の放った鉛玉が作り出したという事実は哀しいものでもあった。
 彼は殺してくれとも、死ぬわけにはいかないとも言わなかった。
 まるで断罪を待つ殉教者のように黙ったままこの腕が振り下ろされる時を待っているようだった。諦念を孕んだ倦怠感は、輝きまでをも曇らせる。
 惹かれてしまったあの時の彼はいない。此処にいるのは、自らの世界が壊れていく音を聞いてしまった哀れで無力な男だけ。
 けれども陽の下で視線を囚われた、鮮やかでいて静かな美しさはいつ見ても変わることがなかった。

 刀の柄を握る手元が震える。――殺せる、わけがない。

 受け入れてもらえなくても、嫌われていても、敵と味方に分かれていたとしても、自分がいつも心の中に描いていたのは彼だった。
 女を抱こうが男を抱こうが、身の内に宿るのは生理的な熱ばかり。魂に刻み付けられたほど浸透した、彼の清廉な眼差しと深い声を思い出す時の切ない痛みは即物的な感覚よりも神聖であり、それでいてとても哀しかった。
 自分を支えてくれる人々の優しさや温かさは身に沁みて理解してはいた。彼らに報いたいと、何より自分が自分らしく生きていきたいと願い、他人に罵られようとも只管に道を走ってきた。彼に侮蔑されようとも構わなかった。それは真実だ。
 だが、傷つけ合う言葉をぶつけ合った後は必ず心底が痛んだ。哀しくて、それでいて少しだけ甘い痛み。それは彼と同じ空間にいた時でしか感じられない、特別な感情だった。
 自覚した時はどうしてと、それこそ悩み通した。
 彼に好意を寄せても何も自分には返って来るものはないのだと分かっているからこそ、不毛過ぎると笑いたくなった。理解し合えるわけでもないのに。少しでも好きになってもらえるわけがないのに。どうして、心というものは理性を蹴ってまで身勝手に動き始めるのだろう。
 轟いた内側を止めることは出来ずに、そうしてここまで来てしまった。
 自分と結ばれる可能性が限りなく零に近くとも、彼がただ幸せでいてくれたら良い。そんな自己満足で済ませ、今日という日が来るのではないかと怯えつつも答えを出すことから逃げていた。
 見ない振りをして日に日に大きくなる哀しさと切なさと愛しさに身を焦がしながら、結局現実は裏切ることなくこうして残酷な光景を目の前に晒しているのだ。


 嗚呼、何故。


 会いたくなかったわけではない。
 彼と顔を合わせなくなり随分と経つが、雪国で磨かれた肌は昔と変わりなく彼の面差しを彩っている。一層綺麗になったと見惚れそうになるくらいに、自分は引き返せない場所まで来ている。

 ――なのに、殺せるわけがないじゃないか。

 そんな顔をするな馬鹿めと、いつもの悪態をつく為に開かれた唇は音を立てることが出来ずに噛み締めるだけ。遣る瀬無さが胸を締め付けさせて、刀はゆっくりと地へ落ちる。
 じっと見上げてきていた灰の瞳は不意に地面へと引き下ろされ、露わとなっている項がゆっくりと晒される。当然の劣情が湧き上がりながらも、見えなくなった顔に途端に不安が押し寄せて手を伸ばした。
 焦れる想いを抱きながら、儚い細工物に触れるようにその青褪めた頬に指を這わせる。微かに身じろいだ身体を逃さぬよう、性急な動作で顎を掴み上げた。
 瞬きも忘れてしまった目と交錯する。
 彼を形作っていたものは皹を増し、少しでも力を入れてしまえばきっと壊れてしまうのではないかと思わせた。そうすれば彼の中に確実に自分が刻めるという甘美な加虐心が、薄暗いところで背中を押そうとする。手に入らないなら憎しみの黒い炎を自分にだけ向けてくれればいいのだと、醜い独占欲が自分の中で暴れ回ることは今までも多々あった。だが本当にそれでいいのかと問う自身がいることもまた事実。
 そうして崖っぷちの前に立ちながら、彼をずっと――出会った瞬間からか、もしかしたら彼のことを知った時から――見てきたのだ。欲望のままに流されてしまえばいいと、何度思ったことだろう。
 これ以上苦しくなる前に、こちらを見てくれと喚けたのならばどんなに良かったと思うのに。
 どの選択も取れないまま、彼の眼差しは曇ってしまった。

 ――笑って、欲しい。
 苦しい時も、哀しい時も、皆を導いてきたのはお前の方なのに。
 太陽のように輝きながらも、その本質は己が掲げる弦月のようにいつ掻き消えてしまうか分からない頼りないものなのだと気付いていたのに。
 無力だと気付かされるのはいつだってその時が来てからだ。時間はあったはずなのに、そう思っている間に過ぎ去っている。
 どうすればいいのか、分からない。どうしたら良かったのか、分からない。
 今言えることは――彼を殺したくないという想い。
 ただ、それだけは確かなのに。

「泣いて、いるのか?」

 ぽつりと告げられたのは此処に着てから初めて聞いた彼の声音。掠れて罅割れた音は朗々と響いていたそれとはまるで違ってはいたけれども、彼の言葉に相違は無い。
 意味が読めずに彼の顔を凝視すると、動かなかった表情がゆっくりと溶かされていく。

「泣くな……お前は、強く聡い男だろう。成すべきことが、まだあるのだろう……」
「う、煩い! 貴様に言われなくとも分かっておる!」

 頬骨の辺りを伝っていく温かな雫の感触に、慌ててそっぽを向く。優しく穏やかな様子の彼の声がじわりと浸透してきて、頬が少しばかり熱くなった。
 こんな時だというのに。否、こんな時だからこそなのか。

「……山犬、さっさと噛み殺せ。でなければ立ち去るが良いだろう。みっともなく、泣くな」

 それを言いたいのは此方なのに。
 言い返しの言葉も思いつかないまま、体温の低くなっていく肌を感じながら俯く。このまま放っておけば確実に彼は死ぬのだろう。
 そう考えて、肌が粟立った。鎧で全身を覆っているというのに、凄まじい寒さが足元から駆け抜けていくような感覚が通り過ぎる。

 彼を、失くしたくない。

 陽だまりに照らされなくとも、その中で笑っている人達を見ていて羨むことはあれど憎らしく思えることは全くなかったのだ。
 木漏れ日の柔らかな光が眩しくもあり、強く欲したこともあったけれど――そこに自分は行けないと実感するばかりで、いつの日か諦めを知っていた。だからといって消されてしまえば、失くした分だけ想いは募る。
 ならばやることは、選ぶべき道はたった一つしかない。
 我侭ばかりと部下達には溜息を吐かれてしまうだろう。生意気だと周りの奴等が騒ぐだろう。

 それでも。

 それでも――。


「馬鹿めっ、泣いているのは貴様の方じゃ!」

 泣かない、泣けない、泣き方を忘れてしまった彼。
 でも自分には分かるのだ。慟哭の瞬間すらも通り過ぎてしまって、何処かへ発散することも出来ないままに駆け出さなくてはいけなかったのだろう。
 志が壊れかけても、構築している世界の一番捨ててはいけないものがまだ残っているからこそ彼は踏み止まっている。そんな痛々しさ中に、ごっそりと抜け落ちた表情の中に、彼の啼き声が聞こえてくるのだと自分は知ってしまった。
 待つことばかりで自分から向かうことを止めてしまった己のように、彼の内側から悲鳴が響いている。
 決して外からでは気付けない微かなそれを、彼を見ていた自分は気づいてしまった。
 近くに居過ぎても、遠すぎても分からない。微妙な間合いに立っていなければ見えなかっただろうそれに、自分は。
 だから一層、彼の笑顔は綺麗に見えていた。同じはずなのに全く違うその輝きに、己は認めたくなくとも惹かれてしまったのだ――。

「兼続、生きろ」

 また喧嘩しても良い。悪口を言い合ったって、殴り合いだってしても構うものか。嫌われ者のままでも平気だ。
 生きて、いつの日かまた笑ってくれたら。それだけで、構わないから。
 ――歩く道の違う自分には多くを望まないし、望めない。

「儂は死なぬ。だから、生きていろ」

 側にいられなくたって。いがみ合ったままだとしたって。
 彼さえ生きているというのならばそれでいい。汚れたこの世の中でも、あの木漏れ日の笑顔を何処かで浮かべていてくれるのならば。
 いつか、自分じゃない誰かが彼に本当の笑顔を取り戻させてくれるのならば。

「生きている限り、生きることを放棄するな――」

 ――そこに、自分の居場所が無くても構わないから。


 己の懇願するような細い声に驚いたのだろう、何の反応も無かった瞳がゆっくりと見開かれた。
 こんなことを何故自分が言うのか理解しかねているのだろう。
 けれど、彼が自分という存在を確かに感じてくれたことに微かな歓喜が湧き出て、精一杯口の端を歪めないように気を張った。
 背後からは自分の騎馬隊がたてている地響きが聞こえる。
 彼を無理やりにでも立ち上がらせ、力の入らない細い身体を支えた。背丈に開きがあるから不恰好になり、それがとても悔しかった。
 凭れてくる血の臭いに眉を顰めながらも、音のする方向へと歩き出す。最上勢に見つかる前に、彼を匿わなくてはならない。この堕ちてもなお、惹かれずにはいられなかったこの男を生かすために。

 いつの日か、自分の前に敵として再び立ちはだかったとしても。
 その時の彼の目は、憧れた光に満ち溢れているだろうから。

「もう一度見せてみろ、兼続。真っ直ぐと世界を映していたお前の眼を」

 ぼんやりとした視線を横顔に注がれながら、独り言のように呟く。飾らない本心を初めて彼に告げたのだと思い返せば、急に気恥ずかしいものが込み上げてきた。
 彼と親しかった者達のように素直に好意を告げられれば、苦しくはなかっただろうか。今、こんな顔をしている彼を見ずに済んだのだろうか。
 ――だがそんなことをする自分は、もはや自分ではない。
 考えても仕方の無いことを頭の隅へと追いやり、一歩一歩と歩き出す。
 隣で感じる低くなっていく体温に切なさを覚えながらも、近づいてきた従者の名を呼んだ。

 もう一度、彼と始めるために。



 - END -


...............................................................................................................
突然一気に書き上げてしまった物でした。政宗の長い独り言。
この二人は長谷堂からようやく同じ場所に立つイメージがあります。
でも前々から気にはなっているのはお約束(えー)
シリーズ物の一番最初の話なので、こっそりと続く予定。

(2007/05/10)


←←←Back