絆の森
<プロローグ 水平と地平の間にて>

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 安穏とした夜の、ほの暗い闇は全ての命に平等に落ちる。心の傷を癒すように。儚き想いを守るように。
 闇の中、波の音が絶え間なく響いていた。星の輝きは強くも弱くもなく、月光は優しいベールを落としていた。海は照り返しで煌く。
 辺りにはただ静かな時が流れていた。


 白い浜辺に、一つの明かりが灯っていた。赤々と燃える焚き火の周りには、複数の影が揺らめいている。
 最も長身な影の持ち主は、火に薪をくべていた。火の粉が舞う。光がその輪郭を浮かび上がらせた。
 その腕は人間の青年のものだった。 炎に見入る双眸はぼんやりとしていた。それでも奥には強いものが秘めている。すらりとした体型は細く、肌は白を通り過ぎて青くも見える。
 病的な顔を風が幾度か撫でていったが、彼は気にはしていないようだ。べた付く潮風ではない。春が近い、暖かな南風だからだろうか。

「あ、あの星?」
 活発そうな少女の声が上がった。
 彼女は小さな指を天にかざして、とある星を指している。
 彼女の声に反応して言葉を返したのもまた、歳若い少女だった。
「そことそこを繋ぐと見えません?」
 一つの疑問は伝言のように繋がっていく。
 隣に座っていた青年も、ゆっくりと空を見上げた。

 夜の空は黒ではなく、藍色のような灰色のような微妙な色彩だった。
 この色に懐かしさを覚えて、青年はほんの少しだけ頬を動かした。幻のような時を思い出す。
「ああ。あれだ。なかなか良いものだろう?」
 指で指し示し、星と星を繋ぐように宙を滑らせる。そうして星座を象ってやれば、二人の少女は喚声を揃って上げた。
 青年はそれを微笑して眺めていた。
 何気なく手を伸ばし、側で伏せている白狼のような獣の背中を撫でた。三つに分かれている尻尾が嬉しそうに振られた。
 青年の右肩には大きな鳥がいた。左右の色が違う、大きな目も空に向かっていた。
 少し固めの羽を空いた手で撫で、青年も再び顔を上げる。鳥と同じ物を見ようとしているかのように。
「見事だろう。創造主も粋な真似をするものだ。森からでは絶対に見ることができないからな」
 誰かに告げるように、青年は笑って言った。


 海岸沿いには数々の木々が生えていた。南へ続くほどそれは鬱蒼と生い茂り、やがては巨大な森を形作っていた。
 再び風が吹く。
 葉のざわめく声と、波の囁きあう声が、一つの調和曲を奏で始める。
 仰向けになった青年は、気持ちよさそうに目を閉じて聞き入っていた。しばらくすると温かな夜の中に、もう一度彼の声音が響いた。
「実をいうと天秤座って初めて見た」
 冷静という言葉を固めて生まれたような彼の、はしゃいだような言葉に驚いて少女達は呆気にとられる。
 しばらくの沈黙の後、可愛らしい声が二人分笑った。
 つられて青年も笑う。大きな声を上げて笑うのは何年ぶりだろうと、感じていた。

 眠りの精が夢の世界への招待状を差し出した。
 意識まで暗い闇に囚われていく中で、青年の耳に小さな歌が届けられた。
 大地と海と風が生み出した音楽に、その歌は重なり交わりあっていく。ささやかなハーモニーは交響曲となった。
 いつまでも飽きなく夜空を見上げ続ける少女達が歌う、子守唄。
 軽やかな二重唱は、数多の星を飾った夜空に吸い込まれていく。

 聞いたことがないはずなのに胸に浸透してくるのは何故か。
 自問にあえて答えを見つけ出そうとは思わず、微笑みながら青年は瞼を閉じた。
 真っ暗なはずの視界に、大切な人の姿が浮かぶ。
 もはや二度と目にすることはできないだろう屈託のない笑顔で、こちらに向かって手を振っていた。
 肩に乗っていた鳥の喉を軽く擽り、青年はゆっくりと意識を手放していった。

 今夜は良い夢が見られそうだ。



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