どうして好きになってしまったのだろう。
 否、友情以上の好意を彼に抱いてしまったのだろう。

 親友のままでいればこんなことにならずに済んだというのに。この境界さえ越えなければ、たとえ自分の想いが報われずとも明日も明後日もずっと笑顔でおはようと挨拶できたはずなのに。

 彼が自分を通して、その向こう側のあいつを見ていると知ってしまってから記憶がぶつりと途切れている。
 自分を見ていると勝手に思い込んでいた己を呪いたい。
 見ていたのは、その隣にいつもいた存在。この顔と同じ容貌を写し取っている彼だった。
 その事実に打ちのめされたのは自分の身勝手で。彼は何も悪く無いというのに、この手は彼を叩いた。この指は彼の喉に食い込んだ。

 なのにまだ嫌われたくないなんて思っている。

 嗚呼、なんて浅ましい。
 もう一人の親友は、いつだって彼と僕を優先してくれていたのに。
 なのに、僕の嫉妬は治まらなかったんだ。

「……はち、ごめんね」

 ――こんなにも惨めな朝を迎えたのは初めてだった。




殺 し た




 雷蔵が八を好いていたのは知っている。
 まっさらな陽だまりの笑顔の八に、花のような微笑みを浮かべる雷蔵。私にはない温かな空気が並んでいるところを考えるだけで、とても幸せになれる。
 だから私は言わないのだ。
 いつも雷蔵と一緒だったから。何でも雷蔵とお揃いだったから。
 自然と私も八のことを愛するようになってしまったのは、きっと必然。でも私は雷蔵の恋路を妨げるようなことなぞ出来るはずがなかった。

 雷蔵と八が二人で笑い合っている姿を見るだけで、私は至福である。

 二人を傷付けるもの全てが私の敵で、私はきっと叶わない恋を胸に秘めたまま彼らを守り続けることが生き甲斐となるのだろう。
 そう、予感していた。
 悔しいとは少しだけ思ったこともあったけれど、雷蔵のことは嫌いになれるはずもなく、彼の心を攫ってしまった八を責めるのもお門違いだろう。
 私は報われなくても良い。
 雷蔵が優しさを失わずに、八が明るさを損なわなければ――胸の痛みもきっといつか消化されるのだと信じていた。


 ――でも。


 雷蔵が、八を泣かせていた時はどうすればいいんだろうか。
 八が、雷蔵を泣かせていたらどうすればいいのだろう。

 少しも考えなかったそんな事態には、思いがけずにすぐさま出会うこととなった。
 多分私が彼らと一緒にいた日々の中で、最悪の朝だ。
 雷蔵が八を好きだと私に教えてくれた日よりも、八もまた雷蔵が好きだということに気付いた日よりも、もっと酷い。

 両想いだというのに互いが互いを好いていることには気付いていない彼らに気を利かせ、二人っきりにしたのが昨日の夜。
 兵助の部屋を宿代わりにして帰ってきた私が自室で見たのは、散々なものだった。



 どうして。



 声にならなかった言葉は、ひゅうっと喉で絡まる。
 一気に冷や汗が浮かび上がり、早朝の寒さが背筋を震わせていった。

「……雷蔵」

 私は同じ顔をした彼の名を呼ぶ。
 虚ろな表情で部屋の隅に座り込んでいた雷蔵は、緩慢な動作で私の方へと視線を投げた。普段の穏やかな笑顔は欠片も見当たらないその顔色は、蒼白にも近かった。

「さぶ、ろう」

 焦点が次第に合わされ、雷蔵がか細い声を漏らした。
 泣き腫らした痕が見て取れる目元には、再び涙が浮かび上がっていた。それを必死で堪えようとする雷蔵の指先を見とめ、私はさらに絶句してしまう。

 委員会で書物を繊細に扱う白い指。
 そこには酷く不釣合いな赤いものが付着していた。
 よくよく見れば指だけではなく、骨ばった手の甲にも乾いたそれがへばり付いている。

「三郎、どうしよう、僕、どうすればいいの?」

 いつまでも戸を開けたままにするわけにもいかず、私は用心深く部屋へと入った。
 狼狽した雷蔵がくしゃりと顔を歪めて、柄にもなく私までも貰い泣きしそうだった。だが、本当に泣きたいのは当人達の方だ。奥歯を必死で噛み締めて自分に言い聞かせ、私はとにかく雷蔵を落ち着かせるために背中を軽く叩いてやった。

「……その様子じゃ、無理やりだったのか」

 びくりと肩を引き攣らせた雷蔵は、無言でゆっくりと頷いた。
 嗚呼、と私は胸の内で嘆息を吐き出した。

 二人を守ってやりたかった。けれどこれでは、私が罪を犯したようなものだ。

 少し落ち着いた雷蔵から離れ、私はさらに奥で無造作に敷かれていた布団へと近付いた。
 その惨状を直視できず、無意識の内に目を細めてしまう。
 八、と掠れた声が唇から零れ落ちる。
 私が何の二心もなく恋情を抱いた初めての人は、乱れた敷布の上で身体を弛緩させたまま意識を失っていた。乱れた髪が貼り付いてる首筋には愛撫の痕が残っているだろうと予感していたのだが、現実はもっと残虐だ。
 どれくらい長く絞められていたのか、くっきりとそこには手形が残っている。その大きさは、きっと私の背後で泣いている雷蔵のものと一致してしまうのだと思うと哀しくて仕方が無かった。

 今、私はどんな顔をしているのだろう。

 本当は自分を除け者にして結ばれようとしていた二人が、このような結果になって清々しているのではとふと悪い考えが浮かび、酷い嫌悪感が込み上げた。
 私を見てくれないどちらもを一片に地獄へと突き落せたような達成感に酔い痴れているのではないだろうか。醜い嫉妬を親友がずっと抱いていることも知らずに、それとなく相談してきた雷蔵も、雷蔵にだけ輝きを増す笑顔を見せる八も、憎く思っていたのでは――。
 引き摺られそうになる薄暗い感情を私は慌てて振り払う。
 違う、そんなこと思っていない。
 あんな状態の雷蔵に対して怒声も嘲笑も叩きつけることなど出来るはずも無く、目の前で蹂躙された痕を晒す八にだってそれは同じだ。
 ただ胸が裂ける痛みだけが、私の全身を支配している。

「……あ」

 泣くまいと耐えて歪んだ私の視界に、微かに身じろいだ八の姿を映した。
 意識が戻ったのだろう。しゃがれてしまった喉から乾いた声が漏れる。雷蔵が背後で呼吸を引き攣らせたのに気付いたが、私は八の目覚めをじっと待った。

「らい、ぞ」

 全身が痛むのだろう。緩慢な動作で身体を起こそうとした八は眉を顰め、雷蔵の名を呼んだ。
 どうやら私と見間違えたのだろう。
 焦点の合わぬ双眸を限界まで見開いた八は、がたがたと震え始めた。

「嫌だ、雷蔵……もう、止めてくれよぉ……!」

 逃れるように布団の上でもがいた八は、必死に身を縮ませる。怪我の具合を確かるために伸ばした私の手を振り払うことも出来ずに、ただ恐怖が通り過ぎることを待つような、彼らしからぬ仕草に私は涙が零れそうになってしまう。

「八、八、ごめん、ごめんね!」

 絶句していた雷蔵は、その悲痛な声に耐え切れなくなったのか八へと駆け寄りひたすら謝絶の言葉を投げ掛けた。
 泣き叫ぶ雷蔵の姿もまた痛ましく、彼とてこんな抱き方なぞ望んでいなかったのだと分かる。
 八のことを誰よりも大切にしていた雷蔵だ。
 彼とて男であるから好いている人と二人きりの褥にあれば、我慢の限界にも陥る。それを見越して私は彼らを置き去りにしていったのだから、予想はついていた。
 しかし、そんな雷蔵がまさか八に対して暴力を振るうなんて。それでも八が受け入れていれば、多分私が今感じている罪悪感は少しばかり軽くなったのだろうけれど――否、それは私自身が単に自分の罪と向き合うのが怖いからだ。何て矮小な感情だろう。

 恐慌状態に陥っている八には、雷蔵の叫びも届かない。
 視界を遮ることも忘れて、私達の区別も全く付けられないまま恐怖に身を竦ませるばかりだった。

「もう、見ないから、雷蔵のこと、好きになるから」

 何度も縋るように泣き喚く雷蔵から顔を背け、八は壁に頭を寄せて枯れた声で呟く。
 弱々しいその声は私の耳にもはっきりと届いた。
 眩しい太陽のような彼を、ここまで追い詰めるなど昨夜は一体何があったというのか。
 単に無体を働いたとしても、何故雷蔵は八の首まで絞めてしまったのだろう。その拳を赤に染めるほど手を上げてしまったのか、私には正気を失っている八から視線を逸らして、事の真相を唯一知っている隣の雷蔵を見やる。
 さらに顔を青褪めてさせていた雷蔵だったが、私の方へと振り向くなり少しだけ目を細めた。
 救いを求めながら罪深さに怯えた瞳には、微かな怒りと切なさが揺らいでいる。けれど悲しみの色の方が濃くて、涙が後から後から流れてしまっていた。

 ――どうしてそんな目で私を見るんだい、雷蔵。

 嫌な汗が背筋に流れ、私は無意識に唾を飲み込んだ。
 彼のこの表情を自分はよく知っている。
 基本的に奔放な八が、他者と過剰に触れ合ってしまう時。雷蔵は拗ねたような顔を浮かべて、そんな風に小さな嫉妬の炎を燃やしているのだ。
 それを隠さない雷蔵の潔さは私には真似の出来ない部類で、臆病者の私はそんな彼と八を巡って争うなんて考えは一切思い浮かばなかった。だって見守っているだけで十分だった。
 邪魔なんてしたくなかった。二人が側にいれくれるのならば、八を雷蔵に取られても良かったのに。

 でも、どうして。

 どうして現実はこうも儘ならないの。


「三郎のこと、もう、見ないから――」



 今、この場にいる者の誰もが悪意など一欠けらも持っていないというのに、どうして誰も報われることがないのだろうか。



終わり

2009/03/12

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