月だけが見ている




 その日は最高の星見日和の快晴。
 夜が訪れるよりも早くから胸が騒いでしまい、放課後は始終顔が綻びっぱなしだったらしくて後輩達が楽しそうに「良いことがあったんですか?」と尋ねてきてからようやく自覚した。
 けれどそれは確かな本心であるから、勿論素直に頷いた。

 今夜は、二人っきりの観測日。


「――だったんだけどな」
「……曇ってきちゃったね」

 月見亭の屋根に上って、仰ぎ見るのは薄曇の黒い空。どんよりと重苦しい膜が自分達と天の間に塞がっているようで、気分まで滅入ってしまう。
 西風が強くとも日の入りがとても綺麗に映えていたから、きっと大丈夫だと楽観視していた。
 皆が寝静まった長屋を抜け出す時刻、見つからないようにとそればかり注意を払っていたものだから空模様が変わっていることには気付かなかった。
 約束の場所で落ち合って、ようやく一息ついて見上げた夜空には藍色の輝きがなくただ無情な闇ばかり。
 いつもの屋根に上がってみて待ってみても、風は吹けども一向に晴れる気配はなかった。

「迂闊だったなぁ。俺、楽しみにしてばっかりで天気が変わるなんてこれっぽっちも思ってなかったぜ。ごめんな雷蔵」

 闊達な笑顔に少しばかりの苦吟を乗せつつ、眉を八の字にして困った笑みを浮かべた八左ヱ門に雷蔵は大きく首を振った。

「八が謝ることないよ。僕も浮き足だっちゃって、部屋からここまで来る間も全然気付かなかった。無駄に夜更かしさせて僕の方こそごめん」

 消沈した声音で頭を垂れてしまった雷蔵の旋毛を、こつんと小突いてやる。
 驚いて顔を上げた彼は、じっとこちらを睨むように眺めてくる拗ねた視線と出会った。
 自分の方から謝ってきた八左ヱ門が何故そんな目をするのかが分からずに、雷蔵は慌ててしまう。星は見れずとも今は二人きりだ。仮にも慕い合う仲である相手の機嫌を損ねたくはない。

「あのっ、八……?」
「無駄なんかじゃないだろっ」

 焦って上擦ってしまった呼び掛けが恥ずかしいと思う間もなく、ぶっきらぼうに返された言葉に思考が一瞬止まってしまう。
 きょとん、という擬音と共に雷蔵に見つめられながら、八左ヱ門は訴えるように口の端をひん曲げてみせた。妙に子供っぽい仕草ではあったが、当の雷蔵は可愛いなぁなどとぼんやり頭の片隅で感想を抱いているため指摘する人間は残念ながらここにはいない。

 そんなことよりも重要なのは、八左ヱ門の言葉の意味である。
 月に二、三度だけ二人はこうして深夜に落ち合う約束をしていた。昼間は忙しい学園生活を謳歌しつつ、夜もまた委員会の仕事で何かと擦れ違い気味の二人は、それでも恋人らしいことを一つや二つしたいと年頃ならば誰でも考えるささやかな願望を勿論抱いていた。
 幸い同じ組であるから逢わない日の方が少ないのだけれども、どうしたってお互いの側には友人や先輩後輩の姿が絶え間なく存在していて、雷蔵も八左ヱ門もお人好しの上に責任感が強いものだから私事を優先させるほどの我儘を振りかざせるわけがなく、結局は自分達の事情は後回しにしてしまう。
 そんな堂々巡りがしばらく続き、結ばれてから一度だって共に出かけたこともなかった二人は流石に後悔した。
 気持ちが通じ合った瞬間は飛び跳ねるほどに嬉しかったのに、晴れて恋人になってもやっていることはいつもと同じ日常の延長。
 だからせめて、と約束を交わしたのは雷蔵の方からだった。

 せめて、ほんの一刻だけでも構わないから。
 二人だけの時間を作りたいって――。

「……うん、そうだよね。ごめんね」

 あの時、顔を真っ赤に染めながら誰もいない廊下の隅っこでそれでも内緒話をするように小声で願った言葉。耳打ちしてくる雷蔵を不思議がっていた八左ヱ門も、それを聞くなり満面の笑みを浮かべて何度も何度も頷いてくれた。
 自分だって同じ気持ちだと照れ臭そうに話してくれた彼に愛おしさは留まらず、人影がないのをいいことにその場で勢いよく抱き締めてしまったという恥ずかしい思い出も付随していたけれど忘れようはずもない。
 それから一月が過ぎ、二月が過ぎ、空を見上げるのも段々と習慣になってしまっていたからか、いつの間にやら目的と手段が少しばかりずれてしまっていたらしい。
 でも八左ヱ門はきちんと“雷蔵と過ごすための夜”という部分をしっかりと認識していた。少々失言だったのかもしれない、と雷蔵は謝ってしまったが本当は相手のそんな気持ちを知ることができて内心では嬉しくもあった。

「別に、そんな謝られることじゃねぇけどさ……俺と一緒にいるのに無駄とか言うなよな」
「うん」

 斜めになっていた口元がちょっとだけ和らいだのを見て、雷蔵も顔が綻ぶ。再度頷くと、二人でまた暗い空を仰いだ。
 身を傾ければ肩が触れそうな位置はいつものことだったけれども、今夜は何だか心の距離が一層縮まっている気がする。
 雷蔵はこっそりと座っている屋根瓦を横目で見下ろして、そこにある自分の手と無防備に投げ出されている八左ヱ門の手を見比べた。
 どちらも忍具を扱うのに長けた忍の掌であったけれども、少年のあどけなさが抜け切っていない未完成さが漂う。歳を重ねるごとに肉刺が増え、痕が残り、肌が擦れて硬くなっていくだろうことは先生達の大人の手を知っているから、きっともう数年ほど経ってしまえば八左ヱ門も自分も柔らかさなどとは無縁のものに成り下がってしまうのは明確だ。
 けれど幼い頃から何度も引いて、或いは引かれたその掌の温もりだけはずっと同じでいてくれるだろう。差し出された手と常に共にあった眩しい笑顔はいつだって雷蔵を照らしてくれるのだから。
 想いを伝え合ってからは意識してしまい一度たりとも触れなかったが、それが急に惜しい日々であったことに気付いてしまい、雷蔵は緊張で震えながらもゆっくりゆっくり自身の指先を隣へと近付けた。
 八左ヱ門もこの時間を望んでいてくれたのだ。怖がることなんて、何も無い。

「雷蔵」

 ぽつりと静かに落とされた声音。
 宙に浮かせたままの手が思わず止まり、飛び跳ねた肩を不審がられたのではと雷蔵は焦った。
 呼ばれるがままに視線を八左ヱ門の顔へと戻すと、夜空を見上げているとばかり思っていた真っ直ぐな瞳は頬を染めている雷蔵をしっかりと映し出していた。
 八左ヱ門の目に映る自分が、急激な温かさが冷えた指先に伝わってきたことに目を見開いた。

「へへ、俺の勝ち! あったかいなぁ、もっと早く握ればよかった!」

 ――そんな風に心の底から嬉しそうにはしゃぐものだから。
 雷蔵は今度こそ溜まらずに、空いていたもう片方の手で大好きな人の肩を勢いよく抱き寄せる。夜風に晒されて冷やされていた体温は触れた箇所から温められていくのが直に伝わってきて、八左ヱ門もまた残っていた片手を背中へと回したのだった。
 固く繋がれた掌が熱を生み、お互いに気恥ずかしさで頬は紅潮していたのだけれども、身体の距離も零になってようやく二人はきちんとした恋人としての時間を過ごしているのだと実感を覚える。
 まだ、手を繋ぐので精一杯だけど。
 何処にいたって無駄な時間はないのだから、自分達なりの歩みで進んでいけば良いはずだ。

「ねぇ八、今度はさ二人で昼間に出かけてみない?」
「いいなそれ! でも何処に行こうか?」
「う、うーんとね……それはまだ迷っているんだけど……。でも僕は八となら何処へだって行ける気がするよ」

 お互いの眼差しの中にきらきらとした幸福の星を見出していた二人の真上には、いつの間にか雲間から覗いていた一つの大きな満月が優しい光を湛えながら見下ろしていた。





おしまい


2010/11/11
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