左門か三之助がおつかいをさせられる時は必ず俺が同行する。
 これが、ろ組の暗黙の了解だ。
 あいつらは何故俺が付いてくるのか全然理解していないのだが、まあ、三年間ずっと同室なのだから一緒に来ることに疑問は抱いていない様子だ。
 ――何故かということに気付いたのなら、俺だって少しは楽になれるのだが……それは気の遠い話だろうな。

 話を戻すか。

 で、俺は今日も二人のお守りをしながら帰路を急いでいた。
 学園内の柵の中であれば少なくとも行方不明にはならずに済む。町中で見失えば、二日三日どころか一週間も居所が分からなくなる。その度に先輩方や先生方に捜索してもらうのも気が退けたし、俺の胃腸が土井先生なみに危険状態になるから止めてもらいたかった。

 けれどいくら忍のたまごとはいえ、子供の足じゃ一日に歩ける距離などたかが知れている。
 だから俺達はいつも迷わぬようにと大体同じ行程を歩き、同じ茶屋で一休みするのが恒例だった。
 そこの茶屋の娘さんがなかなか可愛くて、普段は滅多に異性と出会う機会がないもんだから俺は少しばかり憧れていたのだ。
 ――ん、くの一がいるじゃないかって? ありゃあ女って部類じゃねぇだろ。付き合うだなんて、考えるのも恐ろしい!
 歳はちょっと俺達より上かもしれないけど、気立ても良くってはにかんだ表情がぐっとくる。
 毎度立ち寄るものだから、歳の近い俺達とは世間話をするくらいには馴染んでいたんだ。


 だから俺は正直、ものすっごくショックを受けた。

 茶屋に立ち寄ったのはだいぶ日が傾いてからだった。今夜は冷え込むらしくもしかすると雪が降るかもしれないと、昨日出かける前に立ち寄った用具倉庫で食満先輩が仰られていた。
 少し心配していたけれど、俺達三人のために持ち運びやすい傘を背負わせてくれた。
 だから早く帰りたかったのだが、俺はあの茶屋の子に会えるかもしれないという期待を持っていたものだから休もうと喚く左門に同意して、ほいほいと暖簾を潜ってしまった。
 三之助は寒いから早く帰りたいと呟いていたが、ここからならば日が完全に落ちる前に学園に着く距離だと説き伏せ、いつものように団子を三つ注文した。

 案の定、あの子がやって来て俺達の前に皿を置いたのだけれど、今日は少しだけ様子が違った。
 彼女は三之助をちらちらと何度も眺め、それから勘定の際に顔を真赤にしながら文をあいつに差し出したのだ。
 ――所謂、恋文というやつだと俺はすぐに分かってしまった。


「なあ左門、何で作兵衛は怒っているんだ?」
「さあ? 寒いから腹でも壊したんじゃないか?」

 ああ、もううるさい三病コンビ!
 俺はむっつりしたまま――内心では失恋に涙を流しながら、暮れていく空に馬鹿野朗と叫びたい気持ちを押し殺し、学園の重たい門を潜ったのだった。



 それがついさっきのこと。



 何処から聞きつけてきたのか(きっと左門辺りが数馬に俺が腹痛だと言い付けたのだ。事の顛末を付随させて!)風呂から帰ってきてみれば俺達の部屋には組の二人が集まっていた。
 藤内がお疲れ様と無言で苦笑し、数馬は俺がぴんぴんしているのを確認すると一応安堵の息をついた。

 先に部屋に戻っていた三之助は、例の手紙を部屋の隅でじっと読んでいる。
 それを視界に入れたくなくて、俺は左門の方へと怒りをぶつけてみる。

「おい、余計なことこいつらに言ってねぇよな?」
「言わないぞ! 作兵衛の失恋を慰めてやろうと真摯な提案をしたまでだ!」

 それが余計っていうんだ……。
 思わず項垂れた俺を藤内と数馬が肩を叩き、申し訳程度に慰めてくれた。ありがたいのか哀しいのか。

「っていうかお前、いつから知ってやがった!?」
「忍者は感情を悟られないよう心掛けなければならぬと潮江先輩は仰っていたぞ!」

 偉そうに踏ん反り返る左門は、どうやら俺の少し弛んじまった表情を目聡く見ていたらしい。記憶力だけは達者であるのだから侮れねぇよな、全く。
 畜生、と毒づきながら俺は借りっ放しの傘を視界の端に認め、溜息を吐き出した。
 この傘は食満先輩のお手製だから用具倉庫に突っ込んでおくわけにもいかない。だから六年長屋へこれを返しに行くために心の準備をしなければならないってーのに、何で今からこんなに疲れているのだろうか。

「失恋ったって、俺はあの子の名前も知らねぇよ。別に、そんなんじゃねぇやい」

 とは言ってみるものの、ずっと黙り込んだまま灯火の下で文を見ている三之助が、気になって気になって仕方ない。
 彼女への微妙な気持ちは、恋と呼ぶには小さすぎたけれども。
 衝撃を受けている自分を思えば、好きだったんだなぁ、と後から認識できた。
 一番沢山話をしたはずの俺ではなくて、隣でむしゃむしゃと団子を食べていた三之助に惚れるってことは、最初から勝ち目なしだったのだろう。背の高いあいつが羨ましい。

「名前も知らないのかよ? じゃあ送り主の娘さん、もしかして三之助の名前も知らないんじゃ」
「いや、俺達の会話を聞いてたらしくてさ。向こうは俺達の名前知ってたんだよ。三之助に文を渡した時、三之助さん読んで下さい、って……言ってたから……」
「わあぁ! 藤内、地雷だよ!」
「あ、悪い」

 は組に悪気がないのは分かっているけど、何だか複雑だ。
 だんだん泣きたくなってきたぜ。

「三之助どうするのだろう。忍者にとって色は厳禁だって先輩が!」
「あーあー左門、すっかり洗脳されてる」

 大きな口を大きく開いて言う左門に、会計委員長の影を見ながらも、俺達は部屋の隅で揺れる影を見る。
 背丈のある三之助の後姿は、俺達よりも大人びている。普段は全然そんな雰囲気は感じないけれども、こうやって俺達とは違う世界を見ている時のあいつは何だか違うのだ。
 その違和感が何なのか、分からないのだけれども――。

「……」

 終始無言だった三之助は、不意に立ち上がった。
 その手には折り畳まれた手紙がある。読み終わったのだろう。
 好奇心に推されて左門は、多分この場にいる俺達が一番聞きたいことを臆せず問いかけた。

「三之助、あの子と付き合うのか?」
「うわ、直球ストレート……」

 ずばりと言い放った左門に、冷や冷やしていた藤内が小さな悲鳴を上げる。
 三之助は気にした様子もなく振り返り、俺達の輪の中に加わるとぶっきら棒に腰を下ろした。

「いや、今度断りに行ってくる」
「え?」

 思わず俺はぽかんと口を開けてしまった。
 自然と出てしまった声に三之助は不思議そうに首を傾げたが、こいつは俺の失恋のことなんざ全然知らねぇから当然の反応だろう。
 どうして、と数馬が言葉を失くしてしまった俺の代わりに尋ねてくれた。

「名前も知らないし、可愛いというかぶっちゃけ好みだけどさ」
「好みだったのかよ!」
「んー? 作兵衛も好みだったのか?」
「あー畜生! そうですよ、好みでしたよっ!!」
「落ち着け作兵衛!」
「俺の何が駄目だったんだぁぁぁ!」
「作兵衛! 叫び方が食満先輩に似てきてるぞ!」

 あーもう今なら血の涙流せるじゃねぇか?
 俺は痛くなる頭を抱えながら叫び、無性に虚しくなってしまった。
 これはまあ日常的な俺の発作みてえなもんだから、慣れている三之助は意を介さずに文を何度か引っ繰り返して見つめている。困っている気配もなかったから、好みだとは言っていても興味がまるで無いのだとすぐに分かる。
 本当に付き合う気はないらしい。
 学園生活しているのだから、一般の娘さんとは勿論お付き合いなんて出来るわけ無いのだけれども、少しくらい未練がましくてもいいと思った。
 三年にもなれば恋愛に興味を持つのは自然だったし、もしかしたら故郷に許婚がいたっておかしくない年齢だ。
 いつも忙しくてそれどころじゃない俺だって、関わりのない世界じゃなかった。
 何せあの子が好きだったのだ。
 余計に、三之助の態度が気になった。

 三之助が顔を上げた。俺と視線が合う。
 方向音痴だということも無自覚なあいつは、結構鈍感だ。なのにこういう時だけ妙に勘が良くて何だか悔しい。
 今度こそ困ったように笑った三之助は、ごめんな、と酷く穏やかな声音を響かせた。

「俺、あいつで手一杯なんだ」

 うんざりするように肩を竦めた三之助は、何だかとても寂しそうにだけど幸せそうに苦笑した。
 ぽかんとしている俺達を置いて、寝間着のまま三之助は部屋を出て行く。戸が閉まった音を耳にしてからようやく藤内が声を上げる。

「ああ! 三之助の野朗、逃げたなっ!」

 呆然としていた俺はその叫びにはっと瞬いた。
 あんまりにも漢前な素振りだったもんで、一瞬俺達は見惚れてしまったのか。不覚。

「でもあいつって誰だ。作兵衛知ってるか?」
「俺が知るわけねーだろうが」

 左門が首を傾げるが、俺は勿論答えなぞ知る由も無い。
 でもあいつの笑みが妙に焼き付いていて離れなかった。
 何だか、俺と似ていたから。
 大声であの子を好きだと告白できなかった俺と。三之助に取られても唇を噛み締めることすらできなかった俺と――。




 結局俺は、その夜食満先輩のところへ傘を返しにいけなかった。
 藤内と数馬はしばらく俺達と談笑して、委員会がようやく終わった孫兵も途中から一緒になって夜を過ごした。
 俺の失恋話は散々話の肴となってしまったのだが、これはもう俺自身笑い話にしかならねぇ。未練がましいのは性に合わないのだ。
 左門がうとうとしてきたところでお開きとなったが、三之助は帰って来なかった。もしかしたら誰かの部屋に泊まってくるのだろうか。
 そこまで気を害したようには思えなかったが、顔に出ていないだけで、本当は俺達にからかわれて嫌だったのかもしれない。
 当り散らすような真似をしてしまって申し訳なく思い、そのことを帰り際に孫兵に零した。
 一瞬驚いた顔をした孫兵は、俺達よりも少し大人びた表情を浮かべて笑った。

「きっと、三之助はあいつって人が好きなんだよ。でも多分それが誰なのか僕達には言えないんだろうね」

 何で、とは尋ねられなかった。孫兵は困ったように眉尻を下げたのだ。
 その笑い方は三之助と同じ雰囲気で。
 ――ここにきて俺は、ようやくあいつから感じていた違和感の正体を掴めた気がした。
 本気で好きな人が、できたんだ。

「僕はジュンコを愛してるけど、僕達はどうしてった結ばれない。作兵衛はもしかしたらその茶屋の子と結ばれるかもしれない。その違い、分かるよね」
「……ああ」
「きっと僕が本気でそうしようとすると君達は反対するだろ? 多分、三之助もそう思っているから言わないんだよ。心配掛けさせたくないからさ」

 どこか悟ったような目をする孫兵と、時々遠くを見る三之助が重なって見えた。
 ――三之助のごめんなって、そんな意味もきっとあったんだろうな……。

「俺、どうすればいいんだろ……」
「いつも通りが一番いいよ、作兵衛。三之助だってそんな大切な人が出来ても普段通りなんだからさ」

 にっこりと笑っておやすみと呟いた孫兵は、い組の長屋へと去って行った。
 騒がしかった自室には、静寂が戻る。
 左門は疲れたのか、もう就寝している。普段は委員会で寝不足気味なのだから布団の魔力にイチコロだったのだろう。
 俺は灯火を吹き消し、孫兵に貰った助言をもう一度頭の中で整理しながら眠りに付いたのだった。



 * * *



 あれからどのくらい経ったろうか。
 静かな早朝の廊下が微かに軋み、浅くなっていた意識が急激に持ち上げられた。
 俺はぼんやりと天井をしばし見つめていたのだが、部屋の前でぼそぼそと聞こえた声に驚き目を見開いた。

「……雪だぞ、三之助。初雪だな」
「そうですね」

 三之助の名前が紡がれた。だけどそれはあいつの声ではなく、ぶっきら棒に返された方が三之助だった。
 あいつ、誰といるのだろう。
 もしかして一晩泊まらせてくれた人に、ここまで送ってもらったのだろうか。
 敬語を使っていることからどう考えても上級生だろう。何て無礼な奴なんだ、ていうかどうやって先輩の部屋で寝ようという気になれるのかわけ分からん。

 そんな俺の混乱を尻目に、二人分の人影が揺らめいた。
 そういえば寒い。雪が本当に降ったのだ。食満先輩の予想は当たったのか。
 雪が降ると何だか音が篭るから、まるで自分が世界の中に一人ぼっちに残されたような寂しい気分になる。
 いつもなら耳障りな左門の寝息も、それを紛らわしてくれるから有り難い。

「ふふ、美しいなぁ。どうだ、雪景色を背負うこの私は」
「へいへい。ちょっと待ってて下さいよ」

 突然戸が開き、俺は慌てて布団をかぶった。寝たふりなんてする気はなかったけれど、起きているのがばれると何だか気まずい。
 三之助は一応気遣っているのか、忍び足で部屋の中央を横断してから何かを持ち出して再び戸を閉めた。
 僅かな時間ではあったが、布団の下で俺は昨夜の孫兵との会話を思い出していた。

 三之助の言っていた、あいつ。
 きっと俺達からは祝福されないような相手。
 茶屋の娘さんとならうまくいけるかもしれないのに、それを断ってまで一緒にいたいのに――決して結ばれない相手。
 その人と、三之助は今一緒にいるのだろう。

 寂しげに首元を撫でていた孫兵の横顔が浮かび、自分の餓鬼さ加減が何だか情けなく思えた。
 あの時、孫兵はどんな気持ちで俺に話してくれたのだろう。
 そして――三之助は今、どんな気持ちであの人と並んでいるのだろうか。

「傘とは用意がいいな。だがお前は寒くないのか?」
「すぐ部屋で着替えますから平気ですよ。……ほら、あんたの手の方が赤いじゃないですか、貸して下さい」

 意識してしまうと遠くの会話が断片的に耳に入ってしまう。つんけんした会話だというのに、何だか楽しそうな二人が外にいるのだと思うと何だかやり切れなかった。

 俺は、慎重に起き上がって戸を少しだけ開いた。
 濡縁の向こう側は真っ白い。
 その真ん中で、一本の傘が咲いている。寝間着を着込んだ三之助と、白に映える紫の制服を纏った人が手を繋いで微笑み合っていた。

「お前は変なところで義理立てをするのだなぁ。わざわざ恋文のことを報告しにくるとは思ってもみなかった」
「後であんたにバレると煩くて面倒だし。ってつねんなよ、滝夜叉丸」
「先輩!」
「いいだろ今ぐらい」

 囁きながら小突く二人から視線を外し、俺は戸をゆっくりと閉める。
 どうしよう。
 何か、凄い泣きたくなった。

 俺は急いで枕に突っ伏し、滲んでくるものを必死に耐えた。
 ふられたことが分かっても泣かなかったのに。妙なわだかまりが押し寄せてきて、感極まったように目元が不意に熱くなってしまった。
 溢れてきたこの感情が何なのか、孫兵に聞けば少しは理解できるのだろうか。

 素直に祝福の出来ない自分が悔しくて。
 往来で仲良く出来ないだろう二人がもどかしくて。
 大人になるということは難しくて、少しばかり悲しいことなのだと俺はようやく分かった。


 十二歳の冬。
 恋の辛さというものを知った、

 の朝。






おしまい
2009/03/12

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