五年生にもなれば、四年前から同じ机を並べて学んだ級友達の姿はぐっと減る。
 両隣の組から響き渡ってた笑い声も、年々と小さくなったような気がして寂しくなった。
 休みの日には賑わっていた長屋の濡縁の人影も、今では疎らだ。
 やたらと広くなった教室は奇妙なほどがらんとしていて、休み時間の喧騒も大人しげなのは落ち着いた年齢になったからかもしれないけれど――人数が少なくなったのも原因じゃないかと僕は時々思う。

 流石にそんな些細な事を確かめるため、六年生の教室を覗くなど失礼であったし、中在家先輩におずおず尋ねてみたのだが(小一時間図書室で聞こうか聞かないか迷ったけど)先輩の組はこういっては何だけど全然参考にならなかった。
 何かと騒がしくいつでも明るい七松先輩がいるのだから、そりゃあ静かなわけがない。
 愚問だったと落胆すれば、先輩はいつもの小声で他の組についても教えてくれた。
 彼曰く、どこも騒がしいとのこと。
 ろ組は言わずもがな。は組は一見大人しそうに見えるけれども、厄介事にかかわり易いのは一年も六年も同じらしい。その半分は善法寺先輩が引き寄せてくるとか来ないとか。
 流石にい組は授業中静かではあるけれど、一旦火がついたら止まらない御仁達がいらっしゃるから、特に合同授業がある時など潮江先輩と食満先輩の喧嘩は耐えずとても煩いらしい。

 それを先輩は何だか嬉しそうにしながら言うものだから、僕は先輩達の騒がしさが少し羨ましくなった。

 五年生がこんなに少なくなるのなら、六年生はもっと少ない。
 先輩達の実践演習が殆ど合同授業で行なわれていることは知っているから、誰も口にはしないけれど同級生の皆は次の年にどれだけいなくなるのだろうかといつも不安なのだ。

 僕だって、いつ誰を失ってしまうのか考えれば眠れない日だってある。

 実際にその道を通ってきた先輩達だって、今も本当は怖くて仕方ないのだろう。
 けれどそれを乗り越えてきた仲間達がいて。あと一年という短い時間を精一杯輝かせて。そうやって先輩達は旅立ちの準備を進めている。


 僕等は貴方達のようになれるだろうか。
 前を向くことを恐れずに、歩き出せるだろうか――。


 そんな漠然とした不安感は、ある日を境に急激に現実味を帯びてしまい僕は恐怖した。
 実践演習の合戦場で流れ弾に当たって、友人が死んだ。
 八左ヱ門の同室者だった。




- 君のいる部屋 -




「またその事を考えているのか、雷蔵」

 部屋に帰ってもやはり云々唸りながら書机に向かっていた僕に、同じ顔をした男が呆れた声を上げる。
 そうは言われてもこれが性分だよ、と僕は彼をちらりと見てみる。
 全く同じ造形だというのに、今の僕が浮かべている表情とは全く違う。

「三郎だって少しは考えるでしょう?」
「そりゃあ無いことは無いけども。結局はなるようにしかならないだろ」

 肩を竦める三郎のように、早く区切りをつけなくちゃならないってことは理解している。
 飄々とは振舞っているけれど三郎だって不安になったり、もどかしくなったりはするのだと知っている。今だって受け入れている風には見えるけど、彼には高い高い自尊心があるから決して表に出さないだけ。
 早くから忍者としての自覚があるから、他人に曝け出すのが単に不器用なのだ。
 言うと拗ねるから言わないけど。

「ともかく今は雑念を捨てろ。お前、部屋の片付けに何日かけるつもりだ?」

 僕がそんな事を考えたのが分かったらしく、三郎は苦虫を潰したように目元を歪ませて押入れの方を指差した。
 本日はろ組は休講で、明日のためにも部屋をどうしても片さなければならなかった。
 そういうわけで始まった掃除だが、要る物と要らない物を分けるだけで見事に半日を費やした。つまり、片付けというより仕分けで今日が終わってしまったというわけだ。
 朝から作業しているのにもう空は赤く染まり、開きっ放しの襖からは僕の荷物がごちゃごちゃと散乱している。
 これでは布団を敷くにも邪魔だろう。

「毎回毎回数日悩んだ挙句に、全部また押入れへ適当に突っ込むからこの有様なんだろー? この機会にちゃんと整理してみろって」
「ご尤もです」

 いつもは説教する側の僕だけど、この事に関しては三郎の正論は覆せない。
 僕は手近なところから片そうと、重い腰を持ち上げてようやく作業を再開した。
 ――まあ、五秒で手が止まるのはお約束なんだけど。

 呆れを通り越してもはや諦めの境地にいるだろう三郎は、手伝いもせずに床へごろりと横になった。三郎の片付けはとっくの昔に終わっている。何でもそつなくこなす器用さは見習いたいところだ。
 もっとも気が向かない場合は全然動こうとしないので、どちらとも言えないだろうなぁ、と一人でぼんやり思う。
 そうやって再び違うことを考えていると、黙って天井を見上げていた三郎が不意に口を開いた。

「大体そんなバレバレな状態の方が、八左ヱ門は気を回すと思うけど」
「……顔に出てる?」
「ま、下級生には分からないだろうけど。私じゃなくとも気付く程度には」

 図星を指されてぎくりと肩を強張らせると、三郎はそう言った。
 変装を既に生業としている彼は非常に観察眼に優れていて、平時は僕の姿を使っているほど、多分僕自身よりも僕の癖とか些細な言葉遣いとかを良く知っている。
 そんな三郎が忠告するほどだ。
 本能的な部分で人の心情に機敏な八左ヱ門は、きっと逆に僕を慰めようと困ったように笑うに違いない。
 きっと今、五年生の誰よりも一番不安がっているのは彼の方だというのに。

「あいつも馬鹿だよ。次の日にはケロッとしてたけど、目の下が隈だらけで真っ青。お前が死人かっつーの」

 悪態を付きながら三郎がごろりと横を向く。
 心配しているくせにこの言い様だ。本当に不器用な奴である。
 小さな苦笑を返しながらも、こうして同じ部屋の友人と他愛もなく喋っていられる何気ない日常がどれほど尊いものなのかを感じた。
 それがある日突然失われるというのは、どんな気持ちなのだろう。

 学園を辞めていった多くの同級生達がいる。学費を払えなくなったり、進級できずに忍者になることを諦めていったりと理由は様々だったけれど、一度学園から遠ざかってしまえば出会うことは稀だった。
 また、実家が戦に巻き込まれてとうとう帰って来なかった者達や、自らが戦場へ向かわねばならなくなった者達がどうしたのかなんて、考えたくもなかったし知りたくもなかった。

 けれどそうやって残された、長屋の同室者の寂しげな背中だけは沢山見ている。
 同じ部屋で寝起きしていれば嫌でも係わり合うし、馬が合わなければ頻繁に変わることもあるけれど、大体は六年間ずっと一緒だ。
 最初は他人同士で習慣の違いからぶつかり合うことも沢山あるけれど、学園にいる間は自分の部屋が帰る場所。いってきますとただいまとおかえりを繰り返せば、自然と親しくなれる。
 僕が三郎を大事にしたい気持ちと、三郎が僕を大切にしてくれる気持ちは、それらとは少し違うかもしればいけれど――八左ヱ門だって、同室だったあの子と仲が良かったはずだ。
 いつもにこにこと笑って明るい挨拶を交わしていただろうなんて、簡単に想像が付く。

 でも今は、帰っても誰もいない真っ暗な部屋で一人だ。

 友人が死んだ時に皆泣いた。無表情だった三郎も、小さな葬儀が終わってすぐに何処かへ消え去った。一人になれる場所で素顔のまま泣いていたのだろうと僕は勝手に思っている。
 無論、八左ヱ門も泣いた。銃弾に倒れた彼を背負って戦場から退避したのは八左ヱ門だったから、余計に助けられなかったことを悔やんだのだろう。
 命に対して人一倍思い入れの強かった彼は、一人分の呼吸音ばかりが反響する部屋の中で一晩中何を考えていたのだろう。

「雷蔵、手が止まってるぜ。区切りついたら晩飯食べに行こう」
「あ、うん」

 慌てて手を動かして見るけれど、脳裏に貼り付いているのは翌朝の八左ヱ門の笑顔だった。
 そういえば、今日はずっと長屋に篭っていたから彼の姿を見ていない。
 気になった僕は、上半身を起き上がらせていた三郎に振り返る。

「ねえ三郎。君はちょくちょく表に出てたけど、八左ヱ門の様子見てきた?」
「何で私がわざわざ……いつも通り毒虫追っかけて校舎裏を這い蹲ってたけど」
「やっぱり知ってるじゃない」
「……屋根からたまたま見えただけだよ」

 しつこく言及するのは止めて下さい不破さん、と神妙な口調で呟く三郎に素直じゃないなと溜息を吐き出し、僕はとりあえずさっさと荷物をどうにかしようとようやく鈍っていた作業の速度を上げることにした。

 とりあえず要る物を適当に並べて中に入れて、要らない物は全部袋に突っ込んどこう。



 * * *



 三郎に頭を抱えられたが、気にせず僕は作業をようやく終わらせて部屋を出た。
 組が同じの八左ヱ門の部屋はすぐ近くになる。引き戸の脇に掛けてある名札が一つだけになっていることに胸が痛んだが、とにかく中へと声をかけてみた。
 まだ少し明るいから、委員会の仕事で不在なのかもしれない。
 返事が帰ってこなかったことを不思議には思わず、一応戸を開けて確認した。

 そこに現れたのは、夕暮れの闇に呑まれていく無人の部屋。
 僕は首筋を撫でて行った温い室内の空気に、ぶわりと冷や汗を浮かべてしまった。

「八、いないのか」
「うんまだ帰ってないみたい。先に兵助誘いに行こっか」

 一瞬硬直してしまった僕を怪訝に思ったのだろう、三郎がひょいと暗い部屋を覗き込んだ。
 視界の端で彼もまた少しだけ息を呑んだように見えたのは気のせいだっただろうか。
 ぱっと身を翻した三郎に続き、僕も戸を静かに閉めて踵を返した。
 さっきまで自分達がいた部屋と同じ造りだというのに。この部屋がとても怖いように感じた。


 結局、八左ヱ門は見つからなかったから僕達だけで食堂に向かうこととなった。
 兵助にも尋ねてみたが、い組は授業があったから分からないとのこと。

「三郎は校舎裏で見たんだろう? 私は生憎、黒板と校庭しか視界に入れるものがなくてなあ」
「お、秀才君が窓の外を見るなんて珍しいな」
「私だって余所見くらいするよ。おかげで先生に黒板消し投げられた」
「避けただろ」
「そりゃね」

 ぐだぐだと会話しながら食事を突付く二人を眺めながら、僕はどうしても兵助の隣の空いている席へと視線を動かしてしまう。
 対角線上に座っている兵助はそれにすぐ気付き、苦笑する。

「大丈夫だって雷蔵。八左ヱ門も分かってるからさ。そんな泣きそうな顔するなよ」
「うぐ……そんなに分かり易い?」
「八左ヱ門なら、病気かとか怪我したのかーとか言いそう」

 三郎に言われたことを兵助にも言われて、僕は堪らず肩を落とす。
 傷付いて慰めなくてはならない相手に気を使われては本末転倒だと、あれほど三郎に言われていたけれどやっぱり他の人にも分かってしまうくらいに僕は感情を隠せていないのだろう。
 そういうとこが雷蔵の好いところだけど、と兵助は箸を動かしながらもぐもぐと口を動かす。
 お茶を啜っていた三郎が頷き、一呼吸置いてから湯のみを置いた。感慨深げな溜息を吐き出され、僕は少しだけむっとする。

「変な心配よりはパアッと歓迎会でも開いた方が良いって散々言ったんだけど、雷蔵は真面目なもんだから、先に片付けしようってことになって結局この時間だ」
「それは悪いってさっきから言っているでしょ」
「三郎って八左ヱ門のこと大好きだよな」

 あ、三郎がこけた。
 兵助の突飛な台詞に驚かされたことは多々あるけれど、どちらかといえば人を茶化す側の三郎がこうも簡単に突っ伏すのも珍しい。
 けれど兵助の言葉には同意を禁じえない。
 やっぱり僕以外が見てもそうなんだと分かって、妙に嬉しくなってしまう。

「この豆腐野朗……私は雷蔵一筋だといつも言っているだろう」
「三郎、誤解を招くような言い回しは止めなさい」

 素直じゃないのは微笑ましいけれど、僕のことを隠れ蓑にするのはいただけない。
 ちぇっと三郎は口を尖らせてそっぽを向いた。
 茶化してばかりなこいつのことはとりあえず放置して、一応は八左ヱ門のことを真面目に考えてくれている兵助に(聞こえているのか聞いていないのかいまいち分からないのは、まあ、今日の定食に豆腐があるからだろう)話を振ることにした。

「兵助は考えたことある?」
「勿論。仕方の無いことだがな。私達の道具は扱いを間違えれば人を傷付けて、時には殺す。加害者になってしまえばいずれ被害者になる。途中で学園を去った者はその可能性が低くなるだけだ。農民だって武士を狩るし、商人だって武器を持つ。そういう時代さ」

 男にしては長い睫毛を伏せながら、兵助は真っ白な豆腐に醤油を掛けていく。白地はあっという間に染められた。

「でも先輩達を見ていれば、大丈夫って思わない?」
「え?」

 お堅い話を和らげるように、明るい声を出しながら兵助は顔を上げた。斜め向かいからは彼の穏やかな表情がよく見える。
 僕は、先輩の話を聞いて怖くなった。
 羨ましいとは思えたけれど、彼らのように振舞えるかどうかなんておこがましいとさえ感じていた。
 たったの一年しか歳が違わないけれども、先輩達は僕にとって眩し過ぎた。背中が広すぎた。
 だからそういう風にはなれないだろうと考えるたびに、ではどうなってしまうのかと不安と常に戦ってきたから。
 そう告げたら、兵助はむず痒い笑顔を浮かべた。

「お前ってやっぱり生真面目だよ。別に先輩のようにならなくてもいいじゃない。私達は私達でこの五年間を歩んできたんだからさ。なるようになるよ」

 ――雷蔵なりのやり方で受け入れていけば、それでいいんじゃないかな?

 にっこりと笑った兵助はそのまま最後に残しておいた豆腐をゆっくりと味わい始める。
 生真面目なのは兵助の方だと言い返してやりたくもあったけれど、彼のその言葉はすとんと僕の中に落ちてきて、今までぐるぐると彷徨っていた重苦しいわだかまりが僅かばかりに軽くなったことを感じた。

 それは、とても簡単なこと。

「なーんで兵助の言い分では納得するのに、同じことを言っている私の言い分は認めてくれなかったんだい」
「そりゃあ三郎がいつもふざけてるからだよ。狼少年は云々、って中在家先輩が教えてくれたもの」

 すっかり不貞腐れている三郎の未練がましい声をすっぱり切り裂いてやり、半ば残しかけていた定食をようやく片付けに取り掛かった。
 早くしないと包丁が飛んできちゃう。
 愛すべき僕の親友達はまたぐだぐだと喋り出したが、こうやってもたついている僕をいつもそれとなく待っていてくれていることに何だか今日は堪らない気持ちになった。
 自然と笑んでしまった僕は、さっきからずっと喧しい奥の食卓へとそっと視線を投げる。
 緑色の決意を身に付けた六人が、喧嘩したり宥めていたりそれを無視していたり談笑していたりと好き勝手に騒いでいる。
 控え目に喋っていた僕等とは違って、彼らは食堂の注目の的となってしまっているけれど本当に楽しそうに見えた。
 あんな風に騒げたのは随分昔のように思えるけれど、もう僕は静けさが寂しいとは思わない。
 だって僕にはまだ、同じ時間を歩んでくれる大切な友達がいるのだから。


 湯浴みを終えてもまだ八左ヱ門の姿は見えなかったから、僕達は部屋へと帰ることにした。
 兵助にまた明日と告げて別れ、三郎と連れ立って今日まで二人部屋だった私室へ戻る。
 名札は二つ。引っ掛ける鉤は用具委員がいつの間にか付けてくれていたようで、鉢屋、不破、と並んだその後にもう一つ新しい物が付いていた。

「名札っていろは順にしなくちゃいけなかったっけ」
「なら雷蔵が一番端になってしまう。真ん中でいいじゃないか。寂しくないだろ?」

 散々悩んでいたものだからか、三郎は茶化してそう僕を評するけれどそれはお互い様だから言われた通りに言及しないでおこう。
 忍び笑いを漏らして小突きながら、とりあえず僕達は布団を敷いて就寝の準備に取り掛かる。
 狭い長屋の中に三つ並べて少しばかり二人で待っていたけれど、明日は普通に授業もあることだから夜更かしは憚られる。
 でも、帰ってくる彼のために灯りを点けていてあげたかった。たとえ来なくとも僕は待っていたかった。
 そんな心情を察してくれたのか、はたまた三郎自身がそう思ったのか、彼も世間話などをしながら僕に付き合ってくれる。段々と思い出話に移行してしまうのは僕と三郎と八左ヱ門を繋ぐ、細い糸を手繰り寄せて確認したいがためだったのかもしれない。

 結局亥の刻が過ぎた頃、名残惜しかったけども灯火を消すことにした。
 すっかり闇が落ちた天井の隅を見上げながら、僕はぼんやりと呟く。

「裏々山まで行っちゃったのかな」

 夜目の利く目だとはいえ暗いものは暗い。
 星空の下で駆け回っているかもしれない八左ヱ門が早く帰ってくればいいと思った。

「どうだろなー。今頃ようやく帰ってきたかもしれないし、野宿することに決めたかもしれない」

 もうすぐ今日が終わるというのに最後までこの調子だ。
 ここまでくると最早意地なのだろう。
 僕は隣の三郎に苦笑いを返して、それから逆隣の誰もいない布団を眺める。

 八左ヱ門が決めることだと先生は仰った。
 だから彼がここに来なくても、責めたり同情したりしちゃいけないって。
 葬儀を終えた三日後にそれを聞いた三郎も僕も、神妙に頷くだけで何も言えなかった。
 でも僕はあんながらんとした部屋に、いつまでも八左ヱ門を一人にさせておきたくない。
 級友を失くしたことに悲しみと恐怖を覚え、どうしたら良いのか分からないまま過ごしてきたけれど。それだけは、真っ青な顔をしたまま笑った八左ヱ門を見た時からずっと変わらずに胸の中にある。
 それはきっと三郎だって同じだと断言できる。
 一人でも平気だと笑う八左ヱ門を心配した先生が、学級委員長の三郎にそれとなく部屋割りについて相談していたのを僕は見かけたことがあった。それがきっかけで自分達の部屋に誘おうと言い出したのは僕だけど、その時三郎は躊躇せずに承諾してくれた。
 多分――僕の推測でしかないが三郎は僕がその話を知らなかったままであれば、或いは提案を言い出さなかったのなら、自分から僕に話そうと思っていたのだろう。
 他人の干渉をよしとしないあの三郎が、一度も逡巡を見せずに頷いたのだから。

「ねぇ三郎。八左ヱ門が来たら、ううん“帰って”きたらさ、おかえりって言おうね」
「……ん。雷蔵がそう言うなら、私もそうしよう」

 ああ全く素直じゃない奴!

 僕は盛大に笑いたくなって、布団を顔まで覆い被せた。



 * * *



 色々考えて悩んで迷って、それでも朝はやって来る。
 三郎の難儀な性格に笑いを堪えながら眠った僕は、寝癖が跳ねる髪の毛を引っ掻き回しながら目の前の光景に一瞬言葉を忘れてしまった。

「おっ、雷蔵おはよ!」
「おはよう雷蔵」
「…………」

 同じようにぼさぼさになっている三郎の髪を見るのは初めてではないけれども。
 ――なんでそれを梳いてやってるのが八左ヱ門なの。

「いやーごめんな。昨日は消灯の後までジュンコを探していたから、安心して寝ちまった孫兵を背負って山下りるのに時間がかかってさ」

 目を白黒させていた僕を見て誤解したのか、八左ヱ門はすまなさそうに眼を瞑る。
 疲れているのだろうその顔も、いつかのような無理をしている様子はなく血色が良い。何より浮かんでいる笑顔は常の彼らしい、周りの者の心を晴れやかにさせる類のものだ。

「今日はずっと授業だから、夜のうちに勝手に入って荷物も持ってきちゃったけど狭いかな。雷蔵が言ってくれりゃ退かすぜ?」

 ぼさぼさの髪を大雑把な手付きで纏めながら、八左ヱ門は押入れの側に置いてある自分の荷物を顎で示す。
 襖を開けられてたら雪崩れていたかもしれない。
 ちょっぴり安堵した僕を三郎がにやにやしながら、案の定といった顔で見ている。
 混乱したままの僕に首を傾げた八左ヱ門は、三郎の頭に手を置いたまま今度は僕の頭に起き抜けの温かい掌で触れた。

「まだ言ってなかった。ただいま、雷蔵、三郎。これからよろしくな!」

 にかっと子供っぽい無邪気な笑顔が、すぐ傍らにある。
 僕は嬉しさと照れ臭さとが何だか色々混ざってしまって、昨夜まで完全には消えなかった不安が何処かへすっ飛んでいったことに気付く。
 それは三郎も同じだったようで、口元をへの字に曲げながらも頬がうっすら赤くなっていた。改めて言われて恥ずかしくなったらしい。

 部屋の外でからりと札が鳴った。
 三郎と、僕と、それから八左ヱ門の名前が並んでいるのを想像して、僕は泣きたくなってしまう。

 本当は二人で最初に言おうと決めた言葉があったのだけれども、夜中のうちに勝手に布団に入ってきた八左ヱ門に先回りされて、少しばかり悔しくて。
 僕等は目配せをして、一斉に八左ヱ門へと飛びついてやった。


「「おかえり、八左ヱ門!!」」





おしまい

2009/02/21

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