under the RAINBOW




 一年生か、或いは二年生の頃だったかは定かではないが、今から見ても幼いといえるくらい昔に放課後の図書室で二人して一冊の本を読んだことがある。

 いくら読み書きを習っていても武士や豪農の家の出ではない者は文字と触れ合ってきた時間が短く、読めない綴りの方が多いのが当たり前で、座学が苦手な八左ヱ門は事の他覚えが悪かった。
 まだあまり仲が良い方ではなかったけれど、雷蔵と親しかった八左ヱ門に私が勉強を教える機会は少なくはなくて、読めない本を一緒に読んでもらいたいと乞われたことも珍しくない。
 私は正直面倒だと思っていたのだが、お人好しの雷蔵が付き合うと言ってしまえばずるずると成り行きで図書室なり何なりと付いて行ってしまい、結局は自分から向かったわけではないのに八左ヱ門から毎度のように感謝を――あの、眩しい笑顔と共に捧げられた。

 今から思えば、悪い気がしていなかったのだから、自分なりに彼へ好意を持っていたのかもしれない。

 そうやってお馴染みの放課後を過ごす中、その日だけはいつもと少し違っていた。
 雷蔵は用事ができて出かけた。
 私は珍しくそれを追いかけなかった。
 そして初めて雷蔵を交えず、八左ヱ門の隣に座って同じ御伽噺を眺めたのだ。
 内容はもう深く思い出せなかったけれど、虹の袂には宝が眠っているとか幸福が待っているだとかそんな風な伝説を描いた逸話だっただろうか。当時の私は可愛くげもなく、子供騙しの話だと呆れて読んでいた気がする。
 だが八左ヱ門にとっては十分に興味関心を惹かれるものに値していた。
 きらきらと輝く目をしながら彼は、虹は何処で生まれるのかとか、あれは何色でできているのだろうかとか、笑いもしない私に対して始終楽しげに語って見せてくれた。

 学園に来る前から既に忍としての術を身に付けていて天狗になっていた私は、普通の子供と変わらない八左ヱ門が苛立たしかったのかもしれない。汚いことなんか全然知らないような、真っ直ぐなあいつが羨ましかったのかもしれない。
 八左ヱ門も本にも目を向けずさっさと部屋に帰ろうと立ち上がった身勝手な私に、やはり彼は嫌な顔一つしなかった。
 今日はお開きなのだと勘違いしたのだろう。本棚へ御伽噺を片付けると、廊下へと出て行った私を追いかけてやはり屈託なく笑った。
 雷蔵がいたら相手にしなくても済んだそれらの仕草にさえ腹立たしさが込み上げるのに、どうして今日は一人で八左ヱ門の側に残るなんて気まぐれを起こしてしまったのだろうか。

「どうしたんだ? 大丈夫か?」

 自己嫌悪を思い浮かべていたのが顔に出てしまっていたらしく、八左ヱ門は困った様子で大きな瞳を覗かせる。変装で隠しているはずの自分の表情が見えているわけもないはずなのに何故分かったのだろう。
 私が自尊心をほんの少し傷付けられたことには気付かず、彼は「そうだ!」と言って私の手を無遠慮に触れた。
 小さな手の温もりに驚く間もなく、八左ヱ門は言い放つ。

「おれ、いつかお前を虹の麓に連れてってやるよ。約束だぞ!」

 ――その言葉だけは、五年生になった今でもずっと一字一句違わずに覚えている。



 * * *



 課題に埋もれてひーひー言っている雷蔵の頭を眺めながら、午後の惰眠を貪っていた三郎は欠伸を一つ漏らした。
 途端、振り返る視線の奥に潜まれている殺気には気付かないふりをしてだらしなく寝返りをうつ。

「はーちーやーくーん?」
「嫌だわ不破さん。僕はもう課題終わらせているんですよ。自分の部屋の中で寛いでいても問題ないでしょう?」
「……そりゃごもっともだけどね」

 三郎の態度に一々怒っていられない。言葉通り既に自分の分はこなしているのだから、何をしていてもそれを非難するわけにはいかないだろう。
 墨塗れの自分の指先を見つめながら溜息を吐き出した雷蔵は、瞬間的に膨らんだ怒気を鎮めるなりほんの少し途方に暮れた。

「こういう時、お前のそつのなさが羨ましいと思うよ、僕は」
「私は雷蔵の思い切りの良さが羨ましいって常々思うけどね」

 おや、と雷蔵は同じ顔をした男を見つめる。
 だらしなく思えていた態度は、よくよく見れば憂鬱気味である。顔を逸らされていても、彼が自分ではなく他の誰かを思い浮かべて喋っているのは何となく分かった。
 となるとその相手は一人しか該当しない。

「なぁに、八と喧嘩でもしたの?」
「ぶっ!」

 筆を止めずにわざとらしく名前を告げてやると、背後で床に頭をぶつける盛大な音がした。
 不敗の男が何と間抜けな反応だろうか。
 噴出しそうになりながら雷蔵は書き付けをこなしつつ、三郎の返事を気長に待った。

「……なんでそこで八左ヱ門なんだよ」

 長い間を空いて、ひっそりと三郎が口を開く。
 散々逡巡していたようだったが、何を今更というのが雷蔵の感想である。
 三郎と八左ヱ門が相思相愛であるのは五年生ならば皆知っているのだ。
 はっきり言って、正直者の八左ヱ門と恋仲である以上隠すのは無駄であるのだが、意外と照れ屋な三郎には諦めきれないらしい。
 無自覚な頃から八左ヱ門に対して“好きな子は虐めたい”を地で行なっていたのは最早語り草となっている。
 娯楽の少ない学園の中で人の恋路は話の種にしかならないのだから、知られてしまった事実は消せようにもないだろう。
 いい加減気付けばいいのにとも思わなくもないが、反応が面白いので取り敢えず現状のままでも雷蔵は満足している。

「今頃八も課題に追われて大変だろうなー手伝いに行こうかなー、でも行ったら行ったで邪魔になるかもなー……とか大方こんな感じでしょう」

 くすくすと忍び笑いを漏らしつつ、三郎の声真似をしながら言ってみれば図星だったらしい。
 悶えるように突っ伏した三郎の髷、雷蔵の視界の端をゆらゆらと震えている。
 単なる同級生だった頃も、友達だった頃も――いや、勿論今でも友人関係であるのだが――恋い慕うようになってからも、八左ヱ門に対する三郎の不器用な態度は変わらない。素直になれないからぶっきらぼうになりがちなのは良くある話だが、開き直って一目も気にせずいちゃつかれるよりはましなのかもしれない。
 親友二人のそんな光景を思い描いて、雷蔵は苦笑いを滲ませてしまった。

「不思議だね。一年生の頃なんか僕がしつこく遊びに誘わない限り、誰とも一緒に行動したがらなかったのに」
「私もお子様だったってことさ」

 体を起こした三郎は肩を竦め、床を大きく軋ませる。
 雷蔵が振り返ったときには引き戸に手をかけて、半ば廊下に身を乗り出していた。どうやらやっと決心がついたらしい。
 健闘を祈ると手を振れば、意地悪げな笑みとぶつかった。

「そこの要点、さっきの回答の応用だぜ」

 言い逃げるようにして戸が閉まった。
 遠ざかっていく足音に、雷蔵はやれやれと呟きつつ目の前の課題に今度こそ集中した。勿論、三郎が気まぐれを起こしたように装いながらくれた助けをありがたく使いながら。



 自分達の部屋からあまり離れていない位置に八左ヱ門の部屋があるのだが、立ち寄ってみたところ人の気配が全くしなかった。どうやら外にいっているらしい。
 提出間際でも相変わらず外を駆け回るのが八左ヱ門らしく、折角の勇気を振り絞ってやって来た三郎は肩透かしを食らいつつもほんのりと温かいものを感じてしまう。
 無闇にぶらついてもきっと擦れ違うだけだろうと思い、三郎は五年長屋から出た。

 部屋に戻っても良かったのだが、折角集中し始めた雷蔵を邪魔しては悪いだろう。
 授業は既に終わっていて、委員会がある者や遊ぶ者など様々な人達が学園内を歩き回っている。放課後の教室にも誰かしらいる様子だったが、生憎八左ヱ門の姿は見当たらない。
 仕方なく三郎は、喧騒から離れた馴染みのある一室へと体を滑り込ませる。今日はここにいると断定できる相手が、案の定文机の前で首を傾げていた。

「あれ、課題があるから委員会に出られないって言ってなかったっけ」

 きょろりと動く黒い瞳に相槌を返しながら、三郎は少々乱暴な仕草で座り込む。部屋には彼らの他には誰もいなかった。

「んー終わらせてきた。一年坊主達はどうした?」
「もう纏めるだけだったから帰した。学園長先生が急な思い付きをしなければ急な用事は入んないって」
「ま、そりゃそうだな」

 てきぱきと手を動かす勘右衛門を眺めながらも三郎の意識はやはりたった一人に向けられていた。
 そのまま何も言わずに押し黙って何処かを見ている三郎に対し、居心地の悪さを少しばかり感じていた勘右衛門は仕事を続けながらも眉尻を下げて大げさな溜息をついた。
 わざとらしいそれに流石気付いた天才忍者は、怪訝な顔をして友人の視線を受け止める。

「八左ヱ門と喧嘩とかしてたっけ?」

 のんびりとした口調で問われて、勢いよく顔を上げた三郎を尻目に勘右衛門は首を傾げる。

「それとも雷蔵の方だったか?」
「……何でそう思うんだよ」

 雷蔵と似たように言い当てられて、少しばかり気分が斜めに傾く。彼に図星を突っつかれても素直に認めることが出来る三郎ではあるが、これが他の人間であれば捻くれた性根が邪魔をして思わず噛み付くような言い方になってしまう。
 その部分は幼い頃から相変わらずのため、同じ学び舎で五年間を過ごしてきた親友達には単なる照れ隠しなのだと既にばれているのだが、プライドが天にも届くかのように高い三郎の矜持のためにもせっつく様な真似は止めておこうと勘右衛門はひっそりと笑んだ。

「勘右衛門、終わったか」

 学級委員長委員会の引き戸が、無遠慮に開かれて盛大な音を立てた。
 常と変わらぬ平坦な声音で呼びかけてきた黒髪の少年は、そこで奇妙なものを見つけたように首を傾げてみせる。

「何だ、三郎いたのか。八左ヱ門なら井戸にいたぞ」

 何故ここにいるのか。微妙な表情を浮かべているのか。
 そんな疑問さえそもそも浮かばないらしく、唐突に現れた五年い組の秀才は完全に固まっている五年ろ組の天才にさも当然のように八左ヱ門の帰還を告げた。

 あちゃあ、と後ろで勘右衛門が苦笑いをしながら頭を抱えたのだが、無論あまり細やかな神経をしていない兵助はもう一度首を捻ってみせた。
 見る見るのうちに三郎の首筋が赤らんでいったのが見えてしまい、勘右衛門は会話をしながら動かしていた筆を硯に置くなりさっさと耳を両手で塞いだ。

「う、うるせぇ! 今行くとこだったんだよ!」

 半ば叫ぶようにして三郎は兵助の横を通り抜けると、見事なスタートダッシュを決めて風のように廊下を駆け抜けていった。
 流石に、盛大な足音を立てるような真似はしなかったけれども、随分と混乱している様子がちょっとばかり可哀想にも思えた。
 もちろん兵助は自分が何をしたのか全然分かっていない。
 長い髪をひるがえして三郎の去って行った方向へと顔を覗かせていたが、勘右衛門には彼の頭の上の疑問符の山が見えている。

「とどめの一撃、お見事……」
「はあ? 何がだ?」

 きょとんと目を丸くしている親友に苦笑を投げ掛けながら、青春を謳歌している三郎の姿を思い浮かべる。
 これが忍術学園の人間ではなく、市井の女の子であれば三郎だってこれほどまでにペースを崩されないだろうに。たまたま好きな人が親友で、同性で、同じ忍を目指す者で、昔は邪険に扱っていた相手だったのが運の尽きというか――。

「ま、でも八左ヱ門だから、って部分もあるから一概には言えないか」

 書類を調えながら立ち上がる勘右衛門に、兵助が不思議そうな顔をした。

「三郎は幸運だろ? 私達、一度だって付き合うのを止めろだなんて言ったことないじゃない」

 さも当然のことのように二人の間柄を受け止めている兵助にとっては、当事者である三郎が認めようとしない今の状況が不可解でしょうがないらしい。それには勘右衛門も同意見であるが、気取り屋の鉢屋三郎という男にとっては、きっと大問題なのだ。
 もしもそれで八左ヱ門を傷付けるようであれば自分達も何かしなければならないだろうけれども、連れ合いの八左ヱ門自身が鈍いし天然だしで、三郎の盛大な照れ隠しも通用しないのだから勘右衛門達に出来ることなんてただ見守ることくらいしか残されていない。
 そんな平和な日常の何処に不満を持てるというのだろう。

「三郎だって分かっているぜ。ああいうことするのって、相手に甘えているからだろ?」
「ま、そりゃそうだけど。さんざん人を豆腐で釣っては延々と恋愛相談しといてあれはないじゃない」

 ――それは釣られる兵助にも問題があったんじゃないか、と呟きそうになった勘右衛門だったが敢えて口を噤む。
 とにかくこれ以上此処で三郎の青い春を考えていても仕方ない。
 勘右衛門は書類を手にすると、兵助と連れ立って委員会部屋を出た。



 * * *



 かっと迫り上がった熱と衝動に任せて出てきてしまったものの、三郎はすぐに冷静さを欠いた自分を恥じて駆けていた足の速度を徐々に落とした。
 井戸端にいると聞いたから自然とそちらへと向かっていたが、三人からああも言われてしまうと素直に会おうとは思えなくて悶々としてしまう。
 自室を出た時には確かな決意があったが出鼻を挫かれる形となり、更に兵助には何も言っていないというのに全部すっぽりと通り抜けて答えを提示されては、天邪鬼な部分が擡げてしまうのもしょうがない。

 とはいえ、会いに行くと宣言してしまった。
 八左ヱ門の気持ちを知らずに片思いをしていた頃は、何事も率直に言い当ててくる兵助に相談していたから彼だって三郎が八左ヱ門のことをどう考えているのか、知らない仲ではない。
 だからああいう言葉がぽっと出てくるわけなのだが、そうは理解していても今更性根を変えられるわけのない三郎である。
 溜息を一つ零す。
 “あの”鉢屋三郎が恋愛にこうも奥手だなんて、六年生辺りにばれては一大事だろう。絶対にからかわれるに決まっている。
 勘右衛門が心配していた通り、三郎は八左ヱ門に対しての照れと同時に自分の調子が崩されることを懸念していた。
 だからこそ八左ヱ門に黙っておくよう固く約束させておいたというのだが。

「やっぱりバレバレなのか……」

 雷蔵が聞けば、何を今更、と呆れられるような台詞を零しながら三郎は庭へと降りる。
 三郎とて八左ヱ門が全部隠せるような器用な性格ではないとは重々承知している。というか、そんな嘘のつけない彼だからこそ惹かれたとも言える。
 周りを常に騙して生きている三郎にとって、自分の感情が先立ってしまう八左ヱ門は愚かしくも好ましい存在だった。でもそれはお人好しで忍者には向かないくらい優しい雷蔵にも言えたことで、二人と共に行動するようになったのは確かな友愛の気持ちからであるのは明白だ。
 それなのに、何故だか八左ヱ門にだけ特別な想いを寄せるようになってしまった。
 その辺りの苦悩やら何やらを乗り越えて、今があるというわけなのだけれども時々まだ考えこんでしまう癖がある。
 八左ヱ門はいつだって幸せそうに笑ってくれるから、彼が自分をどう思ってくれているのか聞かなくても分かるのだけれども。

 ――八は、あの頃の約束覚えていてくれているだろうか。

 自分だけが懸命に忘れぬようにしがみ付いているほどの記憶は、相手にとっては何気ない言葉の一つに過ぎなくて覚えていないなんてことはざらにある。
 無意識の内に身内に甘くなる八左ヱ門は、そうやってこちらの気持ちにお構いなく心をときめかすような言葉を簡単に吐くのだから性質が悪い。気の無い相手でもその気になるかもしれないと以前愚痴ってみたが、おつむがあまりよろしくない恋人には理解されなかったという苦い思い出もある。
 そこがまた好きだという自分は変態なのかと、一瞬遠い目をしそうになった三郎は、視界の端に見えてきた癖っ毛を見つけた。
 げんなりしかけていた顔を瞬時に引き締めてしまう時点で、相当惚れ込んでしまっているのだと苦笑が滲みそうになるが、好きな相手の前ではやはりそれなりに見栄を張ってしまうのは当たり前だろうと開き直る。

「は――」

 はち、と呼びかけようとして思わず噤んだ。
 井戸にいたのだから予想していなかったわけでもないが、八左ヱ門は上着を脱いで水をかぶっていた。三郎が思ったとおり、逃げ出した毒虫を捕まえていたのだろう。足元の黒い足袋にうっすら泥が浮かんでいるのが見える。
 否、それはどうでもいいのだ。
 問題は、三郎の目の前に晒されている眩しい二の腕である。
 さんざん前述したとおり、三郎はかなりのはにかみ屋さんである。
 自分が変態かもしれないなんて疑問を抱いてしまう程度に好きな相手が、普段は決して見えない白い内側の肌をそれはもう男らしく晒しているのだから、思わず息を呑んでしまうのも当然だ。
 ましてやこれでも思春期真っ盛りの一男児。人一倍性に関しては気になる年頃である。

「よっ三郎! いいところに来たな、ちょっと結うの手伝ってくれないか?」

 少しばかり傾いた日の下、八左ヱ門の健康的な肌に付き纏う雫はきらきらと乱反射をしている。手拭いで適当に拭いたのだろうが、細かい水滴がところどころつたって汗のように流れていっていた。
 高く結い上げている髪は下がっていて、水を含んだせいで湯上りの時のようにしっとりと濡れていて落ち着かない気分にさせる。
 両思いになってからは歯止めが緩くなった気がして、妙な意識をしてしまうのが厄介なため共に風呂場行かなくなっていたのを不意に思い出す。
 この状況では逆効果だと、よく回る自分の頭に呆れ果てながらものろのろと八左ヱ門の側へと近付く。極力、際どい部分を見ないように務めようとするのだが、異性ではあるまいし八左ヱ門が慎み深くするわけもなく。脇やら肩口やら、雫が溜まった鎖骨やらがちらちらと見えてしまって困る。

「……」

 眦を顰めつつ、八左ヱ門の後ろに回りこんだ三郎だったがここでも試練が待っていた。

「タカ丸さんがいたらよかったんだけど、流石にこれくらいで髪結いさんにやってもらうってのもなぁ」

 押し黙ってしまった三郎に気付かず、からからと笑う八左ヱ門。
 この二人を親友達が見ていたのなら、全員が同じような溜息を吐いて三郎に同情を寄せていたかもしれない。
 八左ヱ門が自分の後ろ髪を持ち上げて見せているため、三郎の眼前にはいつもは頭巾に隠れている項が惜しげもなく晒されていた。

「……っ本当に、こいつは……」
「何だよ?」

 訝しげに振り向こうとする八左ヱ門の頭を無理やり前に持っていくと、やや乱暴な手付きで三郎は濡れた髪をまとめていった。さっさと終わらせるに限ると開き直ったのが半分、残りは感じてしまった劣情に対しての罪悪感。

 ああ、どうしてこんな無頓着野朗に私はこんなこと感じてしまっているのだろうか――と手際よく作業を続けながら、三郎は内心で涙を浮かべていた。
 それでも几帳面にも手伝ってやってしまうのが惚れた弱味というもので。
 結い終わったって振り向いた八左ヱ門が次に紡ぐ言葉と表情が何なのか、すぐさま予想が付いてしまうのだ。そして、それが今か今かと待ち望んでいる自分がいる。
 少しばかり背の低い八左ヱ門の双眸が薄っすら細まり、よく開く口元が明るい笑みを象った。

「ありがとうな、三郎!」

 そうやって一等嬉しそうに微笑むと、清涼な声音で感謝と三郎の名前が紡がれる。
 ん、と素っ気なくしか返事の出来ない自分の不甲斐無さを思いながらも、三郎は湧き上がってくる愛おしさとむず痒さを素直に表情へと滲ませた。
 二人っきり、しかも八左ヱ門の前で溢れ出る好意を隠しても意味はない。鈍い彼には、不器用であってもきちんとこちらからの意思表示をしなければ伝わらないということが、長年の片思いから重々過ぎるほどに理解している。

 それに。

 彼の笑顔を前にしてしまえば、先程まで確かにあった苦悩もどうでもよくなってしまうのだ。
 それは親友達も先輩後輩も変わらず、大概は八左ヱ門の笑顔を見て「まぁ、いっか」と落ち着いてしまう。動物が彼に懐くのも、ささくれ立った警戒心をあっという間に解いてしまう優しい魔法があるからだ。

「その論理で行くと、私は見事に引っ掛かってしまったわけだなぁ」

 流石は戦国時代のムツゴロウ、などとぼんやり呟きながら結んだばかりの頭をぐりぐりと撫でられて八左ヱ門は不思議そうな顔をしたが、三郎の変装ではない瞳が温かな色を灯しているのを見とめてつられるように再び笑う。
 ここで接吻の一つでも交わせられればいいのだけれども、と少しばかり不埒な希望が過ぎったものの大概三郎はこの甘やかな空気を八左ヱ門と共有するだけでも、十分過ぎるほどに満ち足りた気分にさせられている。
 きっと遠くない未来に、それだけでは満足できなくなるのだろうけれども――それは、その時までの楽しみにしておいたって悪くはない。

「八はずっと私の側にいてくれるのだろう?」
「というか、お前が俺から離れないんだろ?」

 告白の際に交わした会話を蘇らせてみれば、八左ヱ門はその時の誓いを忘れてはいなかったようで可笑しげに笑い声を漏らしてみせた。
 ふざけ合うようにして三郎も笑ってみせたが、とくりと跳ねた鼓動の感覚に苦笑を禁じえなかったのが本音だ。
 ――こういうところが、本当に性質悪い。

「ところで三郎、俺に何か用事だったのか?」
「んー、課題のこと。雷蔵も結構大変そうだったからお前はもっと苦労するだろうし、この私が教えてやってもいいかなって」

 とりあえず上着を着てもらい(いつまでも晒しておかれて誰かに見られても困るし)井戸端から長屋へ向かう八左ヱ門の隣で、意地悪げに三郎は口の端をつり上げて見せた。
 ついさっきまで雷蔵に図星をさされてあわあわとしていた当人だとは思えないが、残念ながらそれをつっこんでくれる愛すべき級友達はこの場にはいなかった。
 ここにいるのは、幼き頃から淡い恋を実らせてきた捻くれた少年と彼を受け止めた真っ直ぐな少年のただ二人だけ。

「終わったのか!? すげーな流石は三郎!」
「……お前はいつもそうやって私を褒めるな」
「だってそうだろう? ちびの頃から俺が読めないものとか全部読めたじゃないか。三郎も雷蔵も、俺にとっちゃずっと憧れだぜ?」

 そこで無粋なことに雷蔵の名も出してしまうのが八左ヱ門の迂闊さでもあるのだが、今更雷蔵と同列に上げられることに対する嫉妬なんて擡げはしない。

「それに、好きな奴のこと自慢できるなんて贅沢だろ?」

 にっと笑った八左ヱ門の頭を小突きながらも、三郎の頬は鬼灯のように赤々と上気していた。
 上がる体温を慌てて振り切るように早足で廊下を進むと、八左ヱ門の部屋はもうすぐそこまで迫っていた。

 雷蔵にも勘右衛門にも言われたけれど、もしも八左ヱ門と喧嘩して顔さえ合わせてくれなくなってしまったのなら、間違いなく自分は落ち込むに決まっている。己を乱されることへの躊躇などの比ではなく、それこそ足元が崩れるくらいに衝撃を受けてしまうと思える。
 だけどそれ以上に、彼なりの最大限の恋慕を寄せて貰えている今という時が三郎にとって至上の幸福に他ならない。
 この感覚を忘れずにいれば、喧嘩や仲違いをしようともきっと八左ヱ門への気持ちは揺らがないだろう。
 あの約束を後生大事に抱き締めながら想いを重ね続けてきた三郎にとっては、結ばれたという事実が何よりもの証拠になる。
 八左ヱ門の愚直さに涙が出そうになることだってあるけれども、いつだってそれは大事な彼の笑顔と共にあったものだから、うんざりすることなんて多分これから先も無いはずだ。
 三郎は呆れるくらいに、今が幸せなのだから。


 ――虹の麓に……。


「――八は、昔から男らしい奴だな。惚れ直してしまいそうだよ」
「へっ? 何だよ急に」

 くつくつと喉を鳴らしながら八左ヱ門を部屋に引っ張り込むと、三郎は誰にも見られない場所で思いっきり愛しい人を抱き締めた。
 体中から火が出そうだったが、この際どうでも良いだろう。
 気付いてしまった答えに、全身全霊が喜悦に茹って八左ヱ門への恋情が噴出しそうだ。あんなに必死になって隠そうとしていたのに、今この瞬間ばかりは世界中の人間に三郎は大声で叫びたい気分になった。

「好いているよ、はち」

 珍しく慌てている八左ヱ門に微笑みかけながら、三郎は真摯な声を落とす。
 きっとこれは、誰の真似でもなく生身の鉢屋三郎という少年だけが持ち得る真実。
 それに思い当たった八左ヱ門は、先程の三郎のように顔中を赤らめてみせる。けれどそのまま目の前にある薄い胸板に飛び込んで、満面の笑みを返してくれた。
 くるくる変わる鮮やかな表情はまるで七色のようで。三郎はようやく自分の腕の中にある場所が何処なのか、知った気がした。






 ――そうだ! 三郎!
 ――なに。
 ――おれ、いつかお前を虹の麓に連れてってやるよ。約束だぞ!
 ――……ふん。ただの迷信っていっているだろ。
 ――そこにいったら幸せを呼ぶ宝が見つかるんだ! そしたら三郎、笑ってくれるだろ?
 ――おれが笑うのとお前が約束するのに何か関係あるのかよ。
 ――おれが嬉しい!
 ――っ……ほんと、馬鹿じゃないかお前。
 ――だっておれ、三郎のこと大好きだからな!





おしまい


2013/02/10(発行:2010/09/05)
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