ふたつのきもち




 僕と八左ヱ門はいわゆる“お付き合い”をしている仲だった。
 これに関しては親友達を巻き込んでの騒動から発展した結果であるので、今は割愛しておく。
 勿論、騒動といったって学園内に表面化しているわけじゃない。だったら今頃僕と八左ヱ門は、長屋の廊下でさえ一緒に歩くことも恥ずかしくてできなかったことだろう。
 この事件のことは僕らの他に、当事者である五年生の一部と――多分、先生方も気付いていらっしゃるのだと思う。あと先輩方も薄々と。

 色々めまぐるしかったあの時を思えば、今現在の状況というものは逆に微笑ましいくらいなんじゃないかと当時の僕ならば苦笑いできたのかもしれない。
 でも、あの時と少しだけ違う心情がある。
 僕が八左ヱ門のことが好きだって、自覚してしまっているという事実。八左ヱ門もまたそんな僕を受け入れてくれたという幸福。
 結ばれた絆が生み出したのは綺麗な感情ばかりではなく、強い日差しが生み出す焦げ付くような影みたいに、伴って醜い部分を呼び覚ましていくのだと僕に現実を知らしめてくる。
 八左ヱ門にだってこんな泥沼みたいな感情が生まれるのだろうかと一度考えてみたのだけれども、心の底から幸せそうに笑ってくれるあの笑顔を前にする都度にそれは霧散された。
 きらきらと輝く朝露みたいな、不思議と穏やかな気持ちにしてくれる彼の笑い方が心地よくてたまらなくて、裏表のない性格である八左ヱ門にはきっと思いもよらない感覚なのだろうと僕はひっそりと劣等感を封印した。
 けれどどう足掻いたって僕らは聖人君子なんかじゃ決してないわけだから、些細なやきもちとか友人としての延長上にある喧嘩なんかはやっぱり昔と変わらずにあった。
 彼のことを純粋に見ていられたあの頃とは付随する想いが全く以て違うのが、ちょっとだけ悲しくもあったのだけれど。

 そんな風に毎日を過ごして、僕たちの関係って一体何なんだろうってふと考えてしまった。
 迷って迷って、迷い続けた洞窟の中からようやく出口の先へと飛び出せたというのに、光溢れた花園で浮かれて遊んでいるうちに背高草の向こう側で君を見失ってしまったような気分だ。
 そのまま見つけられなければ、楽園にも思えるこの花畑は薄暗い迷いの森へと変貌してしまうのかもしれないと不安になるほどに。

 ――こういうところが僕はいけないんだよね。

 ふっと溜息を漏らした僕に気付いたらしく、隣を歩いていた三郎が横目でちらっとこちらを向いた気配がした。
 聡い彼には何でも筒抜けなのかもしれないけれど、いくら三郎とはいえ僕にだって男のけじめってやつがあるから八左ヱ門と恋仲になった後ではあまりその話題を出さないようにしていた。
 それは三郎だって分かっているはずだ。

 友達としてならば、同じ組であるのだし何度も八左ヱ門の話もするし、相変わらず三人でつるむのも変わらず。
 なのに三郎は八左ヱ門とはうまくいっているのかだなんて一回だって訊ねてきたことはない。
 普通はそういうものなのかなと思っていたけど、い組の二人は時折八左ヱ門がいない場所で進展具合を聞いてきたりしているから三郎は三郎なりに気を使ってくれているのだと思う。

 ――僕の想像でしかないけど、彼にはばれているのかもしれない。
 この、人を愛するが故に生まれる歪みを。

 忍務や普段の行動を共に過ごしがちである三郎だから、些細な僕の変化もお見通しなのかもしれない。逆も然りだけれど、どちらかというと飄々としている三郎はなかなか本心を読ませないところがあって、迷い癖のある僕ばかりが心配をかけている気がしてしょうがない。
 それを第三者の目で見ている八左ヱ門が何度か告げてきたことがある。
 僕の焦り、三郎の判り難い気遣い、二人の間に小さな亀裂が走りそうになるたびに彼の言葉と行動には救われた。だから三郎は僕と違った意味で八左ヱ門のことを大事にしているのは頭では理解できる。
 でも、そんな風に前から続いていた八左ヱ門の優しいお節介が気に障り始めてしまった自分に気がついてた時点で、僕は唐突に身震いを覚えたのだ。

 僕と三郎のことばかりを気にする八左ヱ門に、何度苛立ったか。
 それが完全な嫉妬と独占欲から生み出されたのを自覚したその夜はずっと眠れないまま、隣で静かに上下する布団の影ばかりを複雑な目でただ睨み付けていた。
 三郎はその夜も、背中から注ぐ棘の視線を感じつつ黙ったまま寝たふりを続けていたらしい。
 次の朝、眠気に耐えられず微かに意識を失っていた微睡みの後、瞼をあげた僕の隣は既に空っぽになっていた。一緒にいると気まずくて、互いが休まらないと判断したのだろう。
 喧嘩した日もそんな風に、先に距離をとって頭を冷やす期間を設けてくれるのは三郎の方からが多かった。それを指摘すると、「私は意外と臆病者なだけさ」と嘯くように笑っていたことをその時急に思い出したのだった。
 卑下にすべきは僕の方であるというのに。

 だけど僕は何も言えず、そうしていまだに奇妙な距離を保つ僕と三郎と八左ヱ門の関係を壊すことを躊躇ったまま二の足を踏んでいるくせに悩むのだ。誰も彼もが僕という存在を受け入れてくれるこの優しいぬるま湯に浸りたいが故に。
 でも逆を言えば、僕はもしかすると三郎も八左ヱ門も信じていないということになるんじゃないかとも思えた。
 だって、色々なものを乗り越えて築いた関係が僕の浅ましい感情を露呈するだけで壊れてしまうと考えること自体、その関係性を最も軽んじていたのは他ならぬ僕であるのだと白状するようなものではないだろうか。
 だからこそ、僕は迷う。

 言えないから。言いたくないから。
 嫌われたくないから。ずっと好きでいて欲しいから。側にいて欲しい。離れないで。

 こっちを向いて。
(何処にもいかないで)

 八左ヱ門に近づくな。
(置いていかないでよ三郎)

 ――そんな風に、毎日が雑音のような僕の自問自答の日々となった。

 縁側に差し込む光の眩しさに目を細めながら、僕はただ静かに待っていてくれる三郎は最高の相棒なのだろうと改めて認識させられた。
 同時に、僕はいつも怯えている。
 だからこそ僕なんかよりもずっといい奴で、見た目は僕そっくりになれる三郎に、いつの日か八左ヱ門を奪われてしまうのではないか、彼の隣にいる不和雷蔵という存在を乗っ取られるのではないかという、それは潜在的な恐怖だった。
 そんなはずないと言い切る自分と、もしかしたらと嘆く自分が両極端に浮かんでは沈む毎日というのはほとほと疲れる。
 この溜息だって、結局は自己嫌悪と自己愛の狭間から生まれたしょうもないものに決まっているんだ。

「雷蔵は、」

 ふっ、と吐息を吐き出すような自然さで三郎が唐突に僕の名を呼んだ。
 僕が人知れず物思いに耽っているといつの間にか隣にいて、飽きるまで黙したまま側にいる奴だけど、こんな風に自発的に話しかけてくることは珍しかった。

「……八左ヱ門のことが好きじゃなくなったのか?」
「っ!」

 僅かに間が開いたのは言い淀んだからだろうか。
 三郎から発せられた思いも寄らない言葉に驚いた僕は、弾かれたように彼の方へ顔を向けた。
 そこにあるのは僕と寸分も変わらぬ姿をした級友の横顔だったのだけど、先程までこちらを向いていたはずの目はそのまま庭へと注がれているのに――勿論、庭を見ているわけではなく埋没している記憶の海へと想いを馳せている様子で、僕は少しだけ不安になる――その声だけは真っ直ぐに届けられた。

 好きじゃなくなった、って。
 どういう意味なんだろうか。

 考えたことは一度もない。
 八左ヱ門を好いていない自分なんて、きっと彼と出会った時から一片たりとも想像さえしたことはないのではないかと思う。

「どうしてそんなことを聞くの?」

 心の中で瞬時に否定が響く。あり得ない事象だと意識する自我に、何故か安堵を覚えた。
 次に浮かんだのは純粋な疑問であり、僕は尋ねたい気持ちをそのまま口にした。
 すると三郎は今度こそ僕の方へときちんと顔を向けてきた。いつもの、どことなく楽しんでいるような目つきではない。のんびりとした口調で話してきているくせに、やけに真剣で静謐な色を灯している。

「……」
「三郎?」

 無言のまま微かに眉を動かした三郎だったが、僕と似たような溜息を零すなりやおら立ち上がりかけた。
 彼の思考は纏まったようだけど、でも僕は納得なんてしていない。
 どうして三郎がそんな質問をしてきたのか聞く権利はあるんじゃないだろうか。他ならぬ、八左ヱ門との関係についてなんだから。
 気が付けば僕の手は瞬時に動いていた。
 去ろうとする三郎の袖を掴んで、無理やりにでもこちらを向かせる。
 聞き捨てならない言葉を、僕は四の五の言わずに否定すべきだったのだ。どれほど僕自身が迷いを感じ、八左ヱ門との間柄が清く正しい関係であると大口を叩けなくとも、それでもこの胸に今も消えずに灯っているたった一つの真実だけは譲れない。
 どんなに誰かを恨みがましく思ってみても、僕は。

「八左ヱ門のことが好きじゃないわけ、ないよ」

 それなりに必死な顔をしていたらしい。
 浮つくような柔らかい僕の声音に芯が通っていたのを瞬時に見抜いた三郎は、一旦廊下の端を何となく眺めた。
 誰もいない廊下の先にはただ曲がり角があるだけで、きっと僕が何も言わなければ三郎はあの向こう側へと姿を消していたことだろう。
 そうして彼の中での僕と八左ヱ門の関係は、一種の破局状態に陥っていたかもしれないと思うとほんの少し背筋が震えた。

 ――そうだ。
 何も言わないのは、優しさなんかじゃないのかもしれない。
 不意に、僕はそんな気がした。

 だから僕は自分の想いを吐き出す。足りなかった勇気とか度胸とかを拾い集めたわけじゃない。後悔してしまわないようにと、ある意味それは恐怖から吐出された衝動だったのかもしれない。

「八左ヱ門が好きだ。あの子が、他の誰よりも」

 黙って僕を見つめてきた三郎の瞳は、相変わらず真摯な色を持っている。
 少しの嘘も許されない、内面を突き刺してくるような視線。
 それはあの子とは違った意味で愚直であると指摘すれば、三郎はきっと僅かに顔を顰めた後でこっそり笑うんだろうなぁなどと、場違いな感想を抱いた。

「三郎が今更どうしてそんなことを確認するのか解らない。でももしかすると君がそう聞かなくてはならないくらい不安になる要素が僕にあるのなら」

 ――僕は何度だって己の胸に誓おう。
 しっかりと言葉を自分自身に刻み込みながら発した制約。
 それを彼はどう受け止めたのか、残念ながら僕には計り知れなかったのだけれども、立ち上がりかけていた腰を再び下ろしたところを見ると受け止めてくれたのだと分かる。
 でも僕はそれに安心ばかりをしていてはいけないのだ。
 この、醜い内側を。汚い劣情を。浅ましい己を唯一無二の恋人へ曝け出すのは憚れた。八左ヱ門に嫌われたくないわけじゃない――彼はそのくらいで人間を見限るような人ではないから――彼の中の僕と現実の僕を比べて、落胆されるのが怖かった。
 それは多分、これからもずっと続いていく迷いだろう。
 でも、きっと一生涯を共にするやもしれないこの男には打ち明けていかなければならないと思った。
 三郎が見守ってくれていた理由を、僕は今になってようやく理解できた気がしていたから。
 口を閉ざして傍観者に徹するのは、彼からもたらされた試練なのだ。

 僕が僕、不破雷蔵として八左ヱ門を愛し続けていけるのか。試していながら、信じてくれている。
 鉢屋三郎という存在に怯えていることに勘付きつつも、僕らを同一視しないために意見も相談も言わずに聞かなかった。
 突き放しつつ適度な距離を保ってくれるのは、昔から変わらない彼のやり方。今回のそれの半分は僕と彼という、親友や恋人とはまた違った次元で育まれた絆から生まれた心配だったのだろう。

 そしてもう半分。
 これが一番の推測でしかないけれど。

「ありがとう三郎。僕の事もそうだけど、八左ヱ門の事、好いていてくれて」
「雷蔵はいいとして八左ヱ門はどうというわけではないぞ。ただ、ちょっと聞いてこいって言われてだな」
「うん。それでも、ありがとう」
「……変な雷蔵だな」

 そう言いながら照れ臭そうに頬を掻いた三郎の困り笑顔を見ても、不思議ともう僕の中に薄暗い嫉妬は微塵とも浮かばなかった。
 それよりもずっと崇高な、憧れみたいな感情が湧き上がって仕方がない。
 ――やっぱり、三郎は私なんかよりもずっといい奴で、強い人なんだ。

「八左ヱ門に会ったら伝えてくれる? ちゃんと話がしたいって。僕らがこうした仲になったのは何か急だったからさ、まだじっくり話したことないんだ。今ならきっと、僕は迷わず話せる気がする」
「ふーん。まあ会ったらな」

 興味なさ気に立ち上がった三郎が廊下の先へと歩き出したの、今度こそ僕は止めずに見送るのだった。
 八左ヱ門に無性に会いたい。
 会ってあの子の口から直接、雷蔵が好きだと聞きたかった。
 そして何よりも僕の想いをもう一度、正しく伝えてやりたくて堪らなかった。
 大丈夫だよって笑ってくれるのはいつだって八左ヱ門で、それに甘えていたのは僕の方。
 せめてこんな時くらいは僕が安心させてあげたかった。

 探しに行こう。
 僕はそう思い立って、三郎が去って行った方向とは逆へと走り出した。
 迷っていた時間がもったいないくらいだ。それより何より、まず君の笑顔を抱きしめればよかったのだ。



「だ・と・さ。雷蔵の気持ちを疑うなんて贅沢者だと思うんだが?」
「……るさい」

 わざとらしく肩を竦めてみせて、私は廊下の角の漆喰に寄りかかったまま身を縮こませている親友を見下ろした。
 膝を抱えて頭を伏せているから表情はこちらから伺えなかったが、残念ながら自己主張の激しいぼさぼさ頭の髷が小刻みに震えているのが丸分かりだ。
 その隙間から微かに覗いた首筋が、ほのかに上気しているのが見える。

 小さく高鳴った自分の鼓動などには気付かないふりをして、私はかぶりを振る。
 ――喜ばしさと切なさと、落胆が入り交じったような感情が私を随分と揺さぶったのだけれども、目の前の鈍感野郎には微塵とも感づかせない自信はあった。
 もう長いこと、そうしてきたから。

「八左ヱ門」

 ふっと息をついて、私はからかう口振りを潜めた。真摯な気持ちを胸にして唇を開けば、彼の名を呼ぶこの声は何て甘く優しくなってしまうのだろうか。
 内心で苦笑するだけに留め、ゆっくりと諭すようにもう一度目の前の“友人”の名前を紡いだ。

「八左ヱ門、顔をあげろよ」
「……俺……」
「そんな顔を私にしてどうする。雷蔵は待っているんだぞ」
「……ああ」

 真っ赤な顔をしながら自信なさげに顔を上げた八左ヱ門に笑いかけながら、大丈夫、と伝える。
 そんな風に何度彼を慰めたかは分からない。

 ――でもきっと雷蔵は気付いたのだろう。

 私が八左ヱ門に頼まれてあんなことを尋ねにきたと。もしかすると、それはどうしてなのかまで、相棒としての以心伝心によって私の態度から薄々読まれてしまっているのかもしれないと思うと少々気が滅入りそうだ。
 でも彼は流石にここに八左ヱ門が座っていることは知らないまま、向こうへ行ってしまった。
 その事実に安堵と優越感を覚えてしまう時点で、私はとんでもない卑怯者だろう。
 雷蔵は自分自身の心と戦っていたというのに、私なんて。

 自虐的な感傷を覚えながらも、それでも胸に灯るのは最愛の二人へ注ごうと一心に望む想い。
 雷蔵が幸せで、八左ヱ門が幸せで。
 そうすれば私も幸せだから。
 互いを愛し合う二人の隣には立てなくなって、ずっと傍にいたい。温かな陽だまりを守れれば、私はそれで満足できる。
 私はそういう臆病で卑怯な人種なのだと、瞳を瞬かせていた雷蔵に、私を信じて頼ってくれている八左ヱ門に再三聞かせてやりたい。

 それでも二人は、本当の意味で私を嫌うはずがないのだと知っているけれど。
 ――知っているから、余計に性質が悪い。

 こくり、こくりと私の励ましに頷いた八左ヱ門は一気に立ち上がると、自らの頬を両手で叩いて渇を入れた。らしからぬ弱気を打ち払って、そうして八左ヱ門は私の方を向いた。
 まだ顔は赤かったけれど、雷蔵のことで話があると言って連れてきた時の不安定さはどこにもない。
 真っ直ぐに前を貫く視線と、朗らかで何でも包み込んでしまいそうな明るい笑み。
 それは紛れもなく雷蔵が愛した竹谷八左ヱ門の姿であり――私が惹かれてやまなかった清廉な佇まいであった。

「ありがとな、三郎!」

 弾む声音が自分の名を晴れやかに響かせて、むずがゆい感覚が全身を震わせたのだけど。
 それは、誰にも知られてはならない想い。
 走り出した八左ヱ門はすぐに雷蔵に追いつくだろう。そうして二人は、今日からまた共に歩き出す。
 不意にこみ上げた寂しさに見ないふりをしながら、私もまた歩き出した。
 ふたつの気持ちを抱えながら、仮面の下で少しだけ泣いた。





おしまい


2013/02/10(発行:2011/09/25)
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