fall from grace



 自分を後ろで嘲笑いながら頭を垂れた、彼の人の姿。
 たった数日で、それは思い出と化してしまった。水に溶けていく絵具のように、酷く現実味のない感覚。

 いない。消えた。帰って来ない。暗い部屋にまた一人。

 置いていかないで――捨てないで――逝かないで。

 闇夜を見るたびに激しく胸を揺さぶる感情の波音。この雑音を消すには、暗闇と寄り添うように生きることを選んだ彼の者が傍らにいなければいけない。
 二度と、自分の手の中から零すものか。
 たとえそれがおぼろげな影であろうとも、失いたくないと思う気持ちには既に言い訳すら出来ない。
 出会ってしまったことは必然。

「誓っただろう。貴様は、私と共に世界の破滅を見るのだと」

 まだ暗い空の中、双子月だけが妖しい光を放ち続けている。




「ジェネラルよ……我が愚かなる願い、聞き入れて欲しい」
 禍々しい暁色の瞳が一点に絞られた。魔人は己の代理人を冷たく見据える。

 ――いいだろう。我は機嫌が良い。

 主人の唸りを解し、ガーベラは恭しく礼をした。
 これから行うことは完全に私事である。未だに境界を彷徨う素材達を追うことであれば、まだ大義名分はつく。
 だが、これは。
 ガーベラは微かに目を伏せて、意思を固めると面を上げた。

 ――彼の死神か。

 発言をする前に呟かれた言葉。僅かに瞠目の様子を浮かべたガーベラに、ジェネラルは笑う。次元すら超える力を秘めている魔人にとって、要塞内で行われているささやかな逢引など筒抜けなのだ。
 ガーベラは口の端をつり上げながら、背筋を伝っていく冷たい汗の感触に耐えた。我が主ながらさすがだと思い、逆に彼の者の仮面の奥を自分以外に見られていたことに嫉妬心が芽生える。
 しかし、魔人へ拒否の言葉を口にすることは出来ない。
 自らも踊らされている人形の一つだと理解しているからこそ、ガーベラは何も言わなかった。乗じているのは自身も同じく。装甲の下で気付かれぬように自嘲を零しながら、ガーベラは主に請う。
 願いは目の前の悪魔にしか叶えられない。

「私を、ラクロアへ……いや、デスサイズの元へ送って頂きたい」

 常に暗い感情が漂うガーベラの眼に、真っ直ぐと見据えられたジェネラルはしばし沈黙を保った。
 それから、不意に声を上げた。

 ――見返りは何だ。お前が私の復活目的以外に動くことは、本来あってはならない。

 覚悟していたようにガーベラは間髪入れずに答えを返した。

「本来ならば闇の果てに散るべきであった我が身、貴方に捧げましょう」

 そう。
 孤独の空間に放り投げられたあの日、全ては終焉を迎えるはずだった。しかし目の前に鎮座する魔人は自分を拾った。塵と共に彷徨うことしかできなかった、意味を成さない命を。
 だから迷いはなかった。
 もう一人で死に逝くことはないのだから、怖いものなどない。


 次元の道は開かれた。
 禍々しい三つ目の焦点を合わせ、ジェネラルは自分が拾った道具を見送る。
 邪悪な笑みを零しながら。

 ――せいぜい、二人揃って我が礎になるがよい。

 獣の咆哮が要塞内に響き渡った。






 + + + + + + + +





(もしかしたら拒絶されるかもしれない)

「ならば奪い去るだけだ」

(もしかしたら彼の者の亡骸が待っているのかもしれない)

「ならば私は全ての破滅を望むだけ」

(もしかしたら何も残っていないのかもしれない)

「上等だ。あれのいない世界など未練も無い」


(もしかしたら――)



「うるさい、マドナッグ」


 歪む空間の中、ガーベラは呟く。
 ぴしゃりと言ってしまえば、不安の具現であるマドナッグはなりを潜めた。
 元からこれは自分の本性だ。どんなに否定したとしても、消せるものではない。しかし受け入れることもガーベラには出来ずにいた。
 マドナッグである自分は、裏切られて傷付いた弱い己だと彼は信じている。
 ガーベラとして生まれ変わったのに、いつまでもその影は離れない。
 デスサイズのことを思うことで、影は顕著に現れるようになっていた。


 無意識で不安がっているのだろう。
 分かってはいたが、歯痒い。


 微かに唇を噛み締めたその時、次元が繋がった。





 ラクロアは霧のような雨が断続的に降っていた。
 人の気配が全くしない国の中、ガーベラは一人歩き始める。この辺りにはまだ緑が残ってはいた。石化もしていない。建物らしきものも見当たらないことから、国の外れに位置するのだろう。

 ジェネラルはデスサイズの元へと自分を送った。
 ならば必ずこの近くにいるはずだ。

 鬱蒼と生い茂る森を一瞥し、ガーベラは歩を進めた。
 まるで惹かれるように、その足は真っ直ぐと淀みなく動いていく。

「……デスサイズ」

 求める人の名を呟きながら、ガーベラはひたすら雨で霞む森の中を歩いた。






「――……」


 驚きのあまり身が竦む。
 ガーベラは反射的に振り返る。確かに声が聞こえた。
 呼吸も忘れて、もう一度耳をよく澄ませる。雨が草木で弾ける音が、酷く邪魔な存在に感じた。

「……――」

 再び聞こえた。幻聴ではない。
 首を巡らせたガーベラは、初めて道を逸れた。
 歩調はどんどん早くなり、落ち着けと言い募る理性とは相反して身体は正直に動いていく。
 膝に当たった鋭い草も、頭に当たった木の葉の衝撃も、ガーベラには伝わらない。早く行かなければと心は焦るばかり。


 見つけた。

 早く、捕まえないと。

 またこの手から逃げていってしまうから。


 荒く息をついたのは一体何年ぶりだろう。
 ガーベラは滲む汗を額に感じながら、足元で転がっている黒い服を見下ろした。雨に打たれたそれはぐっしょりと濡れそぼり、重たげに主の身体を覆っている。
 乱れた髪が白い肌に貼りつき、ぽっかりと開いた瞳がじっとガーベラを見返していた。

 何ら変わらない彼の美貌を目に留めた瞬間、ガーベラの心中に渦巻いていた重みが消えた。
 自分を追い立てていた焦燥感が霞みのように霧散している。
 現金だ、とガーベラは苦笑した。


 呆然とした様子のデスサイズは、立ち上がる気力が残されていないのだろう。じっとガーベラの顔を眺めている。
 その身体は、一瞥しただけでもどのような状態にあるのか理解できた。
 高い所から受け身も取れずに落ちたのだろう。
 周りには折れた木の枝が散乱し、衣服や髪には葉が絡まっている。地に滴る雨の中には、微かに赤い液体が交わっていた。
 けれど意識ははっきりしている。命に別状は無いだろう。

 ようやく安堵の息を吐き出したガーベラは、デスサイズの顔の横で屈んだ。
 覗き込むように見下ろせば、先程と同じように自分を凝視している瞳にぶつかる。


 何か、おかしかった。


 そういえば、先程から聞こえていた掠れ声は目の前の人物から一度も発せられていなかった。
 浅い呼吸だけが薄い胸を上下させ、デスサイズは言葉を忘れてしまったかのようにただガーベラを見上げている。

「……デスサイズ?」

 いつもの皮肉が、早く聞きたかった。
 ガーベラは彼の名を呼び、ゆっくりと手を伸ばす。
 抵抗すら出来ない弱々しい体の上体を起こし上げ、顔に貼りついている髪を払ってやった。

 降り注ぐ雨は強さを増し、木々を煩くざわつかせる。
 そんな中でさえ大きくなっていく自分の鼓動の音が、酷く耳障りだった。


 何故そんな目で見るんだ。


「デスサイズ!」

 何度も彼の名を呼ぶ。肩を揺さぶるたびに、抵抗を忘れた頭がつられて動いた。
 罵倒でも厭きれでもかまわない。
 ただひたすら、自分という存在を認識して欲しくてガーベラは呼びかけ続けた。
 色を失った瞳が、硝子玉のようにガーベラの必死な姿を映し出す。そこには一片の感情すら窺えず、掴んだ拳に力がさらに篭る。

「デスサイズ……私を見ろ……」

 叫び続けたせいで喉はからからだった。
 掠れた声はみっともないほど悲愴な色を湛え、押さえ込んでいた不安の象徴であるマドナッグとしての自分が露出していくことを感じた。

 これではまるで、宇宙に捨てられたあの日のようではないか。

 衝動的にガーベラはデスサイズを抱き締めた。
 相手に宿っているはずの体温は雨によって冷えている。抜け殻のように身を委ねている彼は、人形と何ら変わらない。
 そう思ってしまった自分に嫌気が差し、ガーベラの目元は歪んだ。


「私を、見てくれ」

 答えは返らず、雨音だけが辺りに満ちていた。




-END-


とりあえずガーベラのデスサイズに対する気持ちの表れとしての話。
(2005/06/21)
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