君は二度目のサヨナラを告げた
「これから天宮へ出かける。決して表には出るな」
足音に怯え縮こまる細い肢体を無理やりに抱いた、気だるい空気の中。
ガーベラは僅かに響く振動を足元で感じながら、ベッドの上で蹲っている白い背中をゆっくりと摩った。
こくりと項が動いたことを確認し、ガーベラは手を放した。
相変わらずデスサイズは何も言わない。
声が出ないわけではなく、出るべき言葉が頭の中で作られていないのだ。
舌足らずな口調でようやく名前や簡単な単語を喋られるようにはなったが、それでも情事に啼く甘い叫びの方が断然聞く回数が多かった。
未だに冷めぬ熱を抱いているデスサイズは、しゃくりを上げながら泣いていた。
痛いわけでも苦しいわけでもなく、持て余す疼きに耐えながら。
子供のように簡単に涙を流す彼を、ガーベラはじっと眺めていた。
長い髪をかき上げてやるだけで、静電気が走ったようにデスサイズは喉の奥を引き攣らせた。
押さえ込んだ欲望が擡げたが、時間が無い。
自制心で理性を呼び起こし、ガーベラはぽんと軽く頭を撫でてやった。
こうしてしまえば、疲れも手伝ってデスサイズはすぐに寝てしまう。とろりと落ちる瞼に唇を落とし、意識を失っていく彼をそっと抱き締めた。
行為とは逆に、愛しさと優しさを込めて。
ガーベラの腕の中で甘えきったように、最愛の死神は静かに眠りについた。
無意識に浮かんだ笑みのまま、ガーベラは腕をゆっくりと外した。
乱れた衣服を整え、投げ出した上着を手に取る。絹のシーツをベッドの上の住人にかけてやると、彼は音も無く部屋から出て行った。
ガーベラの表情にはもう微笑みなど欠片も残ってはいなかった。
これから復讐に終止符を打ちに行く。自らも兵を率いて、今も何処かで監視している魔人を呼び起こすために。
「……もしも、私が帰ってこなければ――」
呟いてしまった言葉を自嘲で掻き消し、ガーベラは要塞の廊下を進んでいった。
鋼鉄の扉を、振り返ることは無かった。
地響きが酷くなる。
体感した揺れに驚き、デスサイズは身体を起した。
異様に上がっていた熱は落ち着き、普段のように肌は冷たくなっていた。
きょろりと見回せば、いつもと同じガーベラの研究室の奥の部屋。
けれど部屋の主の姿は何処にも無い。
優しかった掌の温度を思い出すと、妙に物悲しかった。
「がーべら……」
感じてしまった空虚感に突き動かされ、彼の名前を呼んでみる。
帰ってくる言葉は無く、殺風景な部屋の中で無意味に反響した。
開かない筈のドアに近づき、耳を寄せてみても足音一つ聞こえてこない。
あの音を立てているときのガーベラは怖い存在で、デスサイズはいつも怯えて彼を迎えていた。
逃げることは思いつきもしない。
彼の世界はガーベラという一人の男によって完結しているのだ。
けれど、その彼が側にいない。
いつもだったらしばらく一緒にいてくれるはずなのに。
彼が言う「じぇねらる」という者に呼ばれたのだろうか。
小さな幅でしか考えることの出来ない中で、デスサイズは懸命に思い出した。
出るな、とガーベラは告げていた。
彼は「あーく」という所に行くから、絶対に部屋を出るなと言った。
戻ってくるとは、言わなかった。
その時、一層激しく要塞内が揺れた。
何処かの系統を壊したのか、ドアはデスサイズの目の前で僅かばかりに隙間を開けた。
デスサイズはその隙間に手を差し込み、がむしゃらにこじ開ける。
「がーべら、まって……」
いつもなら彼の言葉は絶対だった。
けれど、デスサイズは言い知れぬ不安に押し潰されそうだった。
怒られてもいい。怖いことをされても構わない。ガーベラはそれでも最後に、不器用な優しさを見せてくれる。
そんな彼の存在がいなくなりそうで、デスサイズはただ彼に会いたかった。
帰ってくるという言葉を、聞きたかった。
叫ぶのは、哀しい過去の話。
純粋で愚かだった昔の自分を嘲りながら、ガーベラは目の前で助け合う人と機械を眺めた。
作り出した者と作り出された者。
その関係はいくら絆を育んでも覆されるものではない。
なのに、垣根を越えようと足掻く彼らの姿はガーベラの――マドナッグの心中を大いに掻き乱した。
敬愛していた男に、男を信じる少年にマドナッグは叫びたかった。
信じられるわけがない。
お前達はその隔たりを越えることが出来るのだと、何故言い切れるのだ。
自分と同じく孤独に落とされ、静かに壊れていったあの騎士は。
どんなに叫んでも、どんなに手を伸ばしても。
人と己との境目を越えられることは叶わなかったというのに。
冷たい色を灯しながらも私という存在を見てくれた柘榴色の瞳を、永遠に曇らせたのは貴様等だと言うのに。
――潮時だ。我が玩具。さぁ、我の礎になるが良い。
ジェネラルの無機質な声が響く。
時間だ、とマドナッグは空をぼんやりと仰いだ。
思い浮かんだのは、壊れてしまった彼の儚い微笑み。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」
掴まれた他人の腕に、酷く心が狼狽する。
目の前で起こっていることがまるで信じられない。
何よりも、心の回路が繋ぐ温もりが心地良いものだと感じてしまったことが。
ぎしぎしと身体中の歯車が狂ったように悲鳴を上げる。
瞳を限界まで大きく開き、見つめる先にいる男は微笑んだような気がした。
許しを乞える。
救いの手が、そこにある。
それは甘い誘惑。願ってもやまなかった、救済の証。
一度は振り払って落ちたはずの赤い釜が、足先まで迫っていた。キャプテンは再びマドナッグを掴み上げ、今度は放そうとしなかった。
救うという言葉が真実だと知らしめるように、固く固く。
マドナッグは呆然としながら、不意に泣きたくなった。
感じないはずの温もりが胸に灯った。
生きた亡骸である彼を抱いている時と似たような熱さが込み上げるのに、焼け付くような焦燥感は感じられなかった。
手を掴んでくれた人達は脱出しようとしている。
死に場所に骸を投げることのできなかったマドナッグは、別れを告げてきたはずの彼を思い浮かべた。
困惑したように、彼はそれでも言いつけを守ってあのベッドの上で膝を抱えているだろうか。
ジェネラルが外に出るのならば、きっと要塞内は無事で終わるはずだ。
だから大丈夫だろうと、必死に自分で言い聞かせる。
マドナッグを守ると言ってくれた人達は、きっと彼の存在を良くは思わないだろう。
自分のいない世界でいいから、彼に生きていて欲しいと願うのは罪だろうか。
もう誰の物にもしてやらないと心に誓ったはずなのに、そう思ってしまうことは愚かなことなのだろうか。
「……あ……」
マドナッグは咆哮を上げるジェネラルを見上げ、不意に呟きを発した。
轟音に巻き込まれ、その声は誰の元にも届かない。
それでもマドナッグは瞳を大きく開き、驚愕を露わにその咆哮を凝視していた。
「あ、あああっ!」
もがき出すマドナッグをキャプテンが驚いたように見たが、退避の方が先だと抱き込むように空間転移の穴に飛び込んだ。
マドナッグは手を伸ばした。
伸ばしても、届かないことは分かっている。それでも声を出し、指先を広げた。
先程、生きてさえいればそれでいいと思ったはずなのに。
諦めきれない自分の滑稽さが、哀れで愚かだった。
開いたままの奥の扉の中で必死に自分を探すデスサイズの姿が、だんだんと視界から消えていった。
ガーベラの声を聞いたような気がして、デスサイズは顔を上げた。
誰かいたような気がした。
しかし、視線を這わせた赤い釜の側には立ち上る熱気の揺らめきだけしか見えない。
轟々と揺れる要塞内。咆哮を上げながらようやく玉座から立ち上がることを許された魔神が、歓喜に打ち震えている。
何が起こっているのか彼には理解が出来なかった。
ただただ衝動的に体が動く。手を伸ばし、縋るように宙を掻く。
会いたい人が何処にもいない。
帰ってくるといったのに。
もう一人にしないって言っていたのに。
――我の呪縛から逃れようというのか、贄よ。
――我にもたらす見返りとして代償を、放棄しようというのか我が手足よ。
不意に低く唸るような声が響いた。
赤く不気味に輝く眼が、辺りをぎょろりと見渡している。
デスサイズはそれをぼんやりと見上げていた。「じぇねらる」というのはこれの事なのだろうか、とガーベラの声を思い出しながら壁に手をついて眺める。
あれが呼んでいるのはがーべら?
がーべらはもう、いない?
奇妙な痛みがさらに大きくなったような気がする。込み上げてくる焦燥感の正体に気付かず、デスサイズは一歩踏み出した。
それを、魔神が見つけた。
――良い餌を見つけた。このままでは足りぬ。世界を、混沌に変えられぬ。
「がーべらは何処」
――不良品の玩具よ。あの、愚かな人形の代わりにせめて我の体内で有意義に生きるが良い。
「がーべらは……何処……」
――貴様は、我に喰らわれる運命だったのだ。
光が世界を覆った。紅い魔神が崩れ落ちていく。
まるで絵空事のように呆然と傍観していたマドナッグは、ふらふらと残骸の元へと近づいていった。
本当に大事だったもの。
本当は、一番大事だったもの。
その自覚は遅過ぎた。何故、こうもことごとく失ってしまった後に気付くのだろう。
受け入れられた温かな手に惑わされ。かけられた言葉の優しさに涙を覚えた。
だけど。
見返りとして失ったものは、大き過ぎた。
首だけとなっても生きようとする妄執の混沌よ。
貴様が次元をも貫いた死の閃光は、果たして私を彼の元へ導いたあの日と同じものをもたらしてくれるのだろうか。
「マドナッグ!」
ごめんなさい、キャプテン。
ありがとう。そして、さようなら。
今、側にいくよ、ディード。もう二度と一人にしないから。
楽園へ、還ろう。
-END-
無駄に長め…。救いようのない話でごめんなさい。でもこういうラストもありなのでは、という感じで。
鬱な二人は思考が何処までも後ろ向き…。
(2005/10/05)
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