指先を掠めた痛みのキズ。
 赤くなんてならない、戒めの痕。



† エンゲージ †



 戦場は醜いものだった。
 生と死が踊り狂う乱戦の中を、一人の若い騎士は悔しげに眺めていた。
 突然の反乱の狼煙は、騎士道に反したような奇襲攻撃だった。汚いやり方だと彼は反乱軍の盟主を罵ったが、その隣で静かに佇んでいた冷徹な男は軽い笑みを浮かべるばかりで何も言おうとはしなかった。
 生真面目な騎士として有名な彼の態度が不思議で、騎士は尋ねた。

「お前もそう思わないのか、ディード?」

 氷刃の騎士は、名とは違う温かみを持った声で答えた。

「あの人は選んだ。それだけの違いだ」

 ディードはそう言って、王国軍の指揮を執るべく去っていった。
 残された若い騎士は、喧騒の波に飲まれていく眼下の戦いを見下ろした。
 騎士同士の戦いだというのに、何と美しくないことか。
 これは戦争だ、と真っ直ぐに告げたディードの精悍な横顔を思い出す。その顔は、何故か哀しみに囚われたような憂いを帯びたものにも見えた。
 あの人、と敵軍の騎士を呼ぶ彼の声音は、どうしてあれほど切なく響くのだろう。

「ゼロ、行くぞ」

 曖昧な返事を返して、翼の騎士はもう一度眼下を見る。
 今の自分に、迷いを感じている暇は無い。祖国を守るために、約束を守るために、ここに帰ってきたのだから。




 混乱の渦中で敵も味方も入り乱れ、指揮なぞ早くも意味を失くした。ただ互いを見分ける術は、掲げる旗と反乱の原因の一つであろう見た目の違いだけだった。
 土煙と怒声が各所で上がり、文献で読んだことのある遠く異国の地を思い出す。
 理想を叶えるためには、血を血で洗わなければならないのだ。
 そのことを、嵐の騎士は随分前から気付いていた。そして耐えて、耐えて、耐えていたのに――。

「久しぶりだな」

 交える刃が涼やかな音をたてる。トールギスは哂っていた。

「相変わらず王家に尾を振る犬のままか、ディード?」
「黙れ」

 嘲りを受けながら、ディードは淡々とした物言いのまま攻撃を薙ぎ払う。
 互いに軍の大将であるが、好戦的なトールギスは親衛隊の者を見かけるたびに自ら剣を振るってきた。根底にある嫌悪と嫉妬が滲み出るままに、彼は戦う。
 いっそ、清々するほどのその感情の露呈にディードは目を細める。
 本音では彼が羨ましかった。
 いつでも自分の道を自分で決めなければ気のすまない、一見すれば我侭な彼が。

「俺はお前の底をよく知っている。似通っているからなぁ」
「……黙れ」

 ああ、何て耳障りな。

 ディードは戦場にありながら、瞼を閉じたかった。
 いつも隣にあった懐かしい声と対峙している現実を、見たくはなかった。
 そんな女々しさを感じ取ったのか、トールギスが不意に笑みを消した。

「今ならまだ間に合うぞ」

 一緒に来ないか、と誘われたのはこれで三度目だった。きっと最終通告だろう。
 ディードは柄を握る手が震えることを感じた。
 彼と共に国を滅ぼしてしまえば、この心の重しはきっと軽くなる。けれど、自分は騎士だ。それを忘れた時、自分は闇に喰われる。
 そこだけ無音になったように、二人は互いに見詰め合う。
 淀みなく何事も選択することのできるトールギスが、本当に、羨ましく思えた。

「ディードっ!」

 答えに窮していたディードに、ゼロの叫びが届いた。
 突っ立っている氷刃の騎士を見て何を思ったのだろう。焦燥に駆られた声音だった。
 それを合図に、静寂の世界は壊された。
 トールギスは愛用の大剣を持ち直し、力なく頭を垂れたディードへと容赦なく刃を差し向けた。
 殺意に染まっている赤紫の瞳。
 言葉を向ける余裕は、もう無いのだとディードは知った。

「っ!!」

 防御魔法で辛うじて剣を受け止めたディードは、指に走った痛みに顔を歪める。
 剣先が辛うじて結界の中に突き通されたのだろう。
 片手の指に一閃の傷跡が残った。

「俺は必ず、この醜い王国を葬り去ってやる!」

 近づいてきたゼロに言ったのか、呆然と佇むディードに告げたのか、トールギスはそのまま乱戦地帯の中へと飛び込んで消えた。



 雑兵を薙ぎ払ったゼロは、ディードの元へと文字通り飛んでやって来た。
 ディードは微かに彼に笑いかけ、取り落としかけていた鎌を持ち直した。

「……ラクロアを守る。それが我々の使命、だよな」

 ゼロは一人言のように呟いた。
 隣の彼が、いつものように力強く頷いてくれることを願いながら。

「ああ。そうだな」

 ディードは微笑んだ。変わらない、声で。頷いてはくれなかった。
 ああ、とゼロは絶望を感じる。
 彼はもう慣れてしまったのだ。溶けない氷を纏うことに。
 遠くを見たままのディードの視線の先には、白い鎧の男がいるのだろうかとゼロは悔しげに俯いた。
 視界の端に映ったのは、ディードの左手。

 ――まるで誓いのように残されたその傷跡。

 慌てて顔を上げたゼロは、その手を庇うように握りこんだ。

「ゼロ?」
「何でもない。早く行こう」

 浮かんだ考えを振り払うように、ゼロは冷たい腕を引いて後方へと下がっていった。
 嵐の呪詛が漂うこの場から、早く去りたかった。





 指先に刻んだ所有のキズ。
 人間のように赤くなんてならない、戒めの痕。



 トールギスは一人、嘲笑を浮かべていた。

「早く俺の隣にくるがいい」

 彼の人の指に残った傷跡を想い、彼は楽しげに自分の指先に口づけを送った。
 ――闇に堕ちてくるがいいさ。
 凍える冷気と滑ったような黒が、あいつには何よりも似合っているのだから。




 -END-




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嵐×氷刃←翼でした。
左の薬指に残ったキズは契約の証、みたいな。書いていたら少女革命を思い出した<懐かしい
相変わらず女々しいな、でっちゃん…。
(2007/09/26)



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