目を覚ませば、知らない人達がじっと見下ろしていた。
ここは何処だろうか。
この人達は誰だろう。
自分は、誰だったろう?
[ 知 ら な い 世 界 で ]
意識を覚醒させた彼を見て、気付かれぬようにゼロは安堵の息を漏らした。
封印されし闇と鋼を司る竜は、彼の身からすでに引き剥がされている。
辛うじて応急処置をしてある身体では、きっと抵抗できないだろう。
そこまで考え、何て浅ましいとゼロは自己嫌悪を感じた。
微塵も見せたことのないきょとんとした様子で、彼は周りを見回していた。
幼くも思えるその仕草に、キャプテンとゼロは顔を見合わせる。
今、ここにいる三人の中で、直接彼と相対をしたことがあるのはこの二人だけだった。爆熱丸も多少は見たことがあっただろうが、今の彼の姿からは思いもよらないのだろう。
だから、彼のその行動が奇妙なものだと気付かない。
難しい顔をして小声で話す二人を余所に、爆熱丸は彼の顔を覗き込んでいた。
「気が付いたか! お前をゼロが連れてきたときはかなり驚いたぞ」
「……?」
近づいた顔に驚き、彼は背筋を強張らせた。
まるで初めて外界へ出た雛のような行動に、流石の爆熱丸も困惑する。
「あの、初対面の方に図々しいのですが――ここは、どこでしょうか?」
「ここはガンダムサイの倉庫だ。現在、ミノフス境界を航行中」
困ったような問いに、艦長であるキャプテンが生真面目に答える。
初対面、という言葉にゼロはサッと青褪めた。
「ディード……忘れた、というのか?」
「それは、私の名前ですか?」
見上げてくる瞳には、あれほど満ちていた憎悪や欲望の念は何も見えない。それ以前に存在していたはずの気高さも、仲間を見守る優しさも、そこには残されていなかった。
忘却。
罪も、思い出も、今の彼にはない。無くなってしまったのだ――。
「何故だ! 何故だ! 何故なんだ、ディード!」
「止めろ、ゼロ!」
我を忘れたように、ゼロは彼の肩に掴みかかった。呆然とする彼に、理不尽な怒りをぶつけているとは分かっている。
けれど、このやり場のない気持ちはどこへ掃えばいいのだ。
消えた命は、奪われた命は、もう戻らないというのに。
失った絆は、戻らないというのに。
爆熱丸に抑えられ、キャプテンにたしなめられても、ゼロの枯れた叫びは響き続けた。
彼の前には、親友も、最大の敵の姿もない。
全てを失った哀れな騎士のなれの果てが、虚ろな目で見上げてくるだけ。
リリ姫と会合させることを危惧していたゼロは、それでも彼女を彼と引き合わせた。
あんなにも少女に対して抱いていた激情は、ディードの中にはやはり残されていなかった。
きっと彼の記憶が少しでもあれば、忘れてしまうくらいの覚悟だったのかと、デスサイズは自分のことを罵ったことだろう。
半端ない覚悟で、全て捨て去る決意をして。
そうまでしても愛しい人を手にできなかった彼は、再び代償を払ったのだ。
「――ゼロ」
「は、はい!」
ぼんやりと思考に耽っていたゼロに、リリ姫が真剣な声で静かに呼びかける。
温和な印象を持つ少女のこうした面を見た者は、彼女が国を背負う責務があることを思い出させる。
だから彼女は、王女としての態度を崩さない。
「ディードは、国で正式に裁判をかけます」
辛そうに目を伏せ、リリ姫は言った。
ゼロは慌てて反論を述べた。
「で、ですが! 故国に戻るまで連れて行くと? その間、記憶を取り戻したらまた貴方に危害を……」
「きっと、もう戻せません!」
言い募るゼロに、泣きそうな声が響く。
主の嘆きの言葉に、騎士は黙って頭を垂れた。
ゼロ自身にも分かりかけていたことだ。
リリ姫を会わせても、決してディードは思い出す素振りすら見せなかった。
沈痛な面持ちの姫に向かっても、無知な微笑みを返すだけ。
今の彼の周りには、本当に何もいないのだと痛感した。
大切な人も、仲間も、過去を重ねてきた自分すら。
「ディードはもう、記憶すらも放棄してしまった。殻に閉じ篭ってしまった。わたくし達には、どうしようもないのです」
ドレスの裾を握り締めるリリ姫を、ゼロはじっと見つめていた。
自身で失った記憶は、周りの者の助力で戻ることもある。
けれど。
薄情な自分達は、ラクロアを陥れた死神の帰還を望んではいない。
だから、ディードはずっとあのままなのだ。あのままに、自分達がするのだ。
倉庫の中でぽつりと座り込んでいるディードは、誰かに言われるまで決して動こうとはしなかった。
それはまるで、許可がなければ動いてはいけない囚人の身であることを理解しているようにも見え、シュウトは複雑そうな視線を彼に投げかけていた。
ディードは人の視線に聡く、すぐに振り返る。
「シュウト、怒っているのか?」
敬語を止めろ、とゼロに言われたディードは、すぐに口調を変えた。
言われるがままに行動に移すディードは、出会ったばかりのキャプテンのように見えてしまい、シュウトは心底で自己嫌悪に陥る。
目の前にいるのは、あの子を傷つけた奴。
だけど、今は何も知らない無邪気な人。
二つの感情が渦巻き、シュウトは自然とディードを睨むように見ていたようだ。
ディードはすぐさま気が付き、困ったようにおずおずと尋ねてきた。
「怒って、ないよ」
苦し紛れに絞り出した硬い声を、ディードはどう思ったのか。
シュウトは唇をぐっと噛み締め、のろのろと顔を上げた。
「なら、良かった」
ディードは笑っていた。
拒否されたわけではないのだと信じきって、安堵したような笑顔を浮かべた。
守ってあげると約束した時、困惑したように――それでも控えめに笑ってくれた薔薇の少女のように。
「シュウト、持って来たぞ」
キャプテンの声に、シュウトは現実に意識を戻した。
自動扉の向こうから三人とリリ姫が近づいてい来る。その手には、一輪挿しの花瓶があった。
この薔薇を見せても何も思い出せなければ――。
ゼロはリリ姫に最後の暇乞いをした。思い出さなければ、連れて行く。思い出してしまえば、今ここで自分が彼を斬ると。
そっと近づいていくリリ姫の後姿を眺めながら、翼の騎士は拳をきつく握り締める。
思い出してしまえば、ディードはデスサイズとなって再び姫を手にしようとするだろう。
思い出さなければ、近い未来でやはり自分が彼に断罪の剣を振るうことになるだろう。
どちらも差して変わりの無い結末。
彼を連れてきてしまったのは、自分のエゴ。
親友という名の男を見殺しに出来なかったばかりに、周りに負担をかけてしまっている。
なのに、やはり殺したくはないのだと思うことは、いけないのだろうかと自身に問う。
「これは?」
「この子は僕の、大切な、大切だった子だよ」
自分に言い聞かせるように、シュウトは青い薔薇を見つめた。
「大切……」
彼の言葉を口の中で反復させ、ディードはその美しい花にそっと手を伸ばした。
その行動に彼の忌まわしい所業を思い出し、シュウトの顔が、リリ姫の顔が、微かに強張った。
だが、手が触れる直前でディードは動きを止めた。
「……駄目だ。触ってはいけない。これは、いけない……」
「ディー、ド?」
夢遊病者のように虚ろな視線を転じたディードに、ゼロは戸惑いの声を上げる。
呟く言葉は、自責を孕んだように危うい音色を紡いでいる。
「大切、なものには触ってはいけない。私が触れば、きっと、穢れてしまうんだ」
そのままディードは、床に倒れこんだ。
遠くで自分を呼ぶ声が聞こえたが、霞んでいく意識がそれを遮断した。
何故だか心の何処かで、警告が聞こえる。
汚らわしいその血塗れの手で、大事な人に触れてはいけないのだと。
「ディード、ディード!」
誰かが呼ぶ声が聞こえる。
彼の意識は再び現世に戻り、人工的な灯りの下で自分を見下ろす人々の心配そうな顔を見る。
「目が覚めたか? 何か、思い出したのか?」
君は、誰。
此処は、何処。
私は――……。
「ディード? それが私の名前ですか?」
繰り返されるのは、知らない世界。
繰り返されるのは、真っ白な自分。
そうやってきっかけになるものを全て排除して、彼は空っぽな自らの体の中で永久の眠りにつく。
もう二度と、周りのものを失わないために。
-END-
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記憶喪失ディードの発端。何かほんのりシュウ黒リリ←デス?
記憶障害を戻すきっかけになるものを見ても、自己防衛で再び忘れていくという話。
最初はリリ姫を奪われたことで記憶を失い、次にプリンセスローズを見て記憶をリセットした。
ように見えれば幸い(え?)
(2005/09/30)
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