・・・ い つ か の 空 に ・・・



 冴え栄えとした雲一つのない深藍の空には、青褪めた月と赤らんだ月が寄り添い合って浮かんでいる。
 それは故郷で見上げた夜空と相違のない景色で。
 文化も形容もまるで別物の異国が、同じ世界に存在することを思い出させた。

「こんなところにいたのですね」

 軽やかな少女の声に、彼は顔だけを振り向かせた。
 見てみれば綺麗なドレスに似合わない慣れた足取りで、国の王女が屋根へと上ってきていた。

 こんな姿を見たら、彼女の騎士ははしたない、とでも嘆くだろう。
 想像した様が現実味を帯びていて、彼は喉元を軽く震わせた。

「月見ですか。ここは絶好の場所ですからね」

 リリ姫は皺が付かないように丁寧に座り直して、にっこりと微笑んだ。
 お転婆だとは思っていたが、普段からこのような場所に来ることに慣れているその台詞に、彼――騎馬王丸は耐えていた笑いを表に出さざるおえなかった。

「姫はどういった時にこちらに?」

 わざとらしい口調に、リリ姫もくすくす笑った。
 それから騎馬王丸を見習って、空を見上げる。

「わたくしは勉強とお説教から逃げ出して。子供の頃の話だけど」

 思い返して懐かしんでいるのか、彼女は僅かに目を細めた。
 幼い時から王位継承者として恥にならないよう振舞うことを教えられてきたけれど、それでも時折、何もかもから逃避したくなる時があった。

 母親を亡くして、悲嘆に暮れる父を困らせないようにしよう。
 皆が望むように、立派な王女になるのだ。
 彼女は自分にそう言い聞かせて、ずっと過ごしてきた。


 騎馬王丸はそれを聞いて、手元の将棋の駒をじっと見下ろした。
 自分の息子も、母親を亡くして一人ぼっちになった。彼の子供らしい素直な心は、自己防衛のための卑屈さに覆い隠され、無力な子供であることを呪っていた。

 それは寂しさの裏返し。

 守られることが心地の良いことだと知っていながらも、守られる自分が嫌で仕方がない。だから自分は一人で立てるのだと言い張り、精一杯の防護壁を張るのだ。

 元騎丸も、リリ姫も。


「騎馬王丸は、どうしてここに?」

 暗に月見だけではないだろう、と言われて騎馬王丸はそっと笑う。
 彼女は鋭い。国を治める者としての洞察力は、かつて一国を治めていた騎馬王丸も感嘆の息を漏らしていた。

 微かな風の音が響き、目の前では精霊の樹がそよそよと揺れている。城の屋根の上では沈黙が続いた。
 そうして幾らも立たないうちに、将棋から視線を上げた騎馬王丸は空を仰ぎ見た。


 闇に溶け込みそうになりながらも、輝こうとする青い月。
 闇の中でもがきながらも滾る憤りを抑え切れない、紅い月。
 ソラディオラーマを象徴する双子月は、静かに世界を見下ろしている。

 その色は、彼の記憶の中の誰かを髣髴とさせた。


「……馬鹿な男が、三人ほどいた」

 ぽつりと、自然に漏れた声にリリ姫が振り向いた。
 騎馬王丸は思わず口に出していた自分に驚きながらも、口を閉ざそうとは思わなかった。誰かに聞いて欲しいと、思っていたのかもしれない。

 武者の静かな話に、姫は黙って耳を傾けた。


 一人目の男は底の見えない嘲りを浮かべていて、人を試すような物言いが耳障りだった。
 二人目の男は淡々とした口調で静かに責め、時折狂言じみた言葉を吐き捨てた。
 三人目の男は二人を疑念の目で見ていたが、自身の野望のために黙認を続けていた。

 彼等は常に一緒にいたわけではなく、また同じ目的を持っていたわけでもなく、利用し利用される間柄だった。
 だからそこには情けも何もなく、殺伐とした空気が漂っていた。
 顔を合わせば、化かし合い。
 それでも付き合いは、二年半にも及んでいた。

「他人から見ればさぞかし滑稽な構図に見えたことだろう」

 騎馬王丸は視線を動かすことなく、流れていく雲の様子を睨みつける。
 じっとその横顔を見守るリリ姫は、辛そうに眉を寄せていた。

 けれど、不意に騎馬王丸の表情が和らいだ。

「だがその男達は、そんな関係を続けている中でも時折――本当に稀に、ただ静かに隣になっているだけで心地が良かったことがあった」

 視線を少しだけ流し、貴方と今こうしているようにな、と騎馬王丸は言う。
 そして再び、寂しそうに月明かりを見上げた。


 ある日、一人目の男が消えた。影のような姿だったから、まるで幻を見ていたように残された二人は思った。
 一人が欠けた後、三人目の男は徐々に行く末が曇っていくことを感じていた。二人目の男は病んだ一面が露わになっていった。

 そうして今度は二人目の男が、苦しげな声を叫びながら死んだ。
 残った最後の一人が、それを近くで見ていた。
 何も言うことが出来ずに。手を伸ばすことすら出来ずに。

「生き恥をかくことを選んだ男は、失くした後に気付くのだ。相容れない彼等は、それでも一時は特別な存在であったことに」


 騎馬王丸は話し終えた直後に立ち上がり、天に向かって片手を伸ばした。
 不安定な足場だというのに、彼の背筋はしゃんとしていて。
 けれど、伸ばされた指の先は不思議なくらい震えていた。

「あの月を見ると思い出す。その愚かな二人の佇まいをな」

 リリ姫は悲しそうに眼を瞑った。
 自分にも本当は失くしたくないヒトがいた。いくら道に背くような行いをしようとも、彼と過ごした優しい日々は到底捨てきれるような代物ではない。
 たとえそれが偽りで塗り固められていたとしても、その瞬間に感じた想いは本物だったからこそ。
 彼女もまた、そっと空を仰いだ。


 青い月。紅い月。


 思い出すのは、底の見えない死神と絶望を招き寄せた紅の機械人形。
 思い出すのは、いつだって守ってくれた黒い騎士の背中と血反吐を吐くように投げられた愛の言葉。

 けれどそれは結局、思い出でしかない。
 月はただあるがままに夜空で光を放っている。新しい時を刻みだした、世界に向けて。



 見上げた空は、いつか見たあの日と何も変わらない。





-END-




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双子月の色が青と赤(紫?)なので、デスサイズとガーベラに見立ててみた話。
本編中でも何度もソラディオラーマの象徴のように、この月が描かれていますよね…。
ラクロア遊学中な騎馬王丸は姫と仲良しなイメージがあります。
(2005/09/18)

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