夕涼みの風が凪ぐ。
静まり返った小川の草陰は、暗い帳を下ろしている。
しんとする世界の中、輝きは僕らの胸に。
** 蛍火 **
「蛍を見に行きませんか?」
そう騎馬王衆に勧められたとき、元気丸は思わず眉を寄せてしまった。
別に気分を害したわけではなかったのだが、尋ねてきた破餓音丸はあからさまに慌てた様子で謝ってきた。
謝られたことに驚いたわけではなく、そこまで自分は酷い顔になったのだろうかと唖然としてしまった。
違うんだ、と元気丸が言ったものの、おずおずと去っていった破餓音丸はどうも釈然としていなかった。
心配そうな顔付きで部屋に戻ってきた破餓音丸を見て、他の三人は首を捻った。
「……何が悪かったのだろう」
「? どうしたんだ」
怪訝そうに尋ねてきた爆覇丸を見上げ、破餓音丸は溜息を吐き出した。
一瞬だけ心外そうな顔付きになるものの、関わっている者は自分の大事な主だ。怒鳴りそうになる声を抑え、爆覇丸は再度訊いた。
「若は、ほら、嫌なものは嫌だってはっきり言う性質だろう」
言葉を濁しながら破餓音丸は自分の意見を述べていく。
元気丸はよく喋る。好きなものを好きだと素直には言い出さないが、嫌いであれば必ず拒絶を示す。困ったような怒ったような、曖昧な態度はあまり見せることがない。
先程の彼は、見る者が見れば不快を表したように思える。
けれど破餓音丸はそうは思えなかった。
何故なら部屋を去る前に、元気丸は自分に謝ったのだから。
「何か、耐えているようにも見えた」
「耐える……か」
猛禽丸はふと思い返す。
天真爛漫を絵に描いたような子供が、頑なな表情を浮かべたことのは過去にそう何度もなかった。
あるとすれば、出会って間もない頃の事。
空に虹が架けられ、朝日が新たな天宮の時代を祝福した時の――。
「どうした、神妙な顔付きで」
奇妙な沈黙の中、部屋に訪れた騎馬王丸が四人の顔をそろりと見回した。
いつも慌しく仕事に勤しんでいる彼等が、こうして揃って大人しいのは珍しい。
不思議に思い、騎馬王丸はほんの少しだけ眉を寄せた。付き合いが長い間柄であれば、それが困ったような表情だとすぐに分かる。
戦場の中を走る時や兵を率いる時のきついものではなく、生来の彼の気性が見え隠れする感情の片鱗。それは騎馬王丸が唯一負い目に感じている、家族を思うときの顔付きだ。
その仕草が、破餓音丸の中で先程の元気丸と重なった。
「……ご家族の?」
「やはり……そうなのか」
無意識の内に呟いていた言葉に、すぐ隣の猛禽丸が合点がいったとばかりに溜息を吐いた。
今度こそ怪訝そうに騎馬王丸が視線を投げたが、二人は顔を上げることができなかった。
「――また、元騎丸が何かしたのか」
たったそれだけで騎馬王丸は事の原因に気付く。
この人に隠し事はできない、と顔を見合わせて四人は苦笑を浮かべた。
「実は……」
機獣丸が話した内容を聞き、騎馬王丸は顔色を変えた。
時々、どうしようもなく後ろ向きになってしまう自分が嫌でしょうがなかった。
けれどこれは自分自身の問題であり、構いたがりの部下達には何の咎も無い。愚痴交じりで当り散らすほど、幼くもない。
様々な感情が織り交ざってしまい、逆に破餓音丸を心配させてしまった。
こんな時、もっと大人であればと考える。
自分の過去と向き合えるほどの分別が自分に備わっていたらと元気丸は思った。
「元騎丸、入るぞ」
「!」
思い描いた大人の声がすぐ側から響き、元気丸は慌てて返事をした。
気まずい。
さっきのこともあり、今騎馬王丸と顔を合わせることは何となく落ち着かない。
「四人がお前を怒らせたのではないかと困っていたぞ?」
くすりと笑みを湛えながら言う父親の眼差しに居た堪れずに、元気丸は黙って俯いた。
こうしてわざわざ部屋に訪れたということは、どういった経緯があったのかも聞いていることだろう。
ますます肩身が狭くなったような気がして、沈黙は保たれたままだった。
「何か一人で耐えているのではと、皆心配している。蛍が、嫌いだったか?」
優しく包み込むような物言いに、元気丸は無言で頭を振った。
違うんだ、とさっきのように言いたかったが、開いた口から吐き出されたのは切羽詰った空気の塊だけだった。
そうじゃない。
皆にそうやって心配させているのに、己の傷を克服できない自分が情けないだけで。
怒っているのだと見えたのは、案外間違いではないのかもしれない。
いつまで経っても前に進めない自分に、憤っているから。
「――ちょうど、今頃だったろうか」
ぽつり、と騎馬王丸は控えめな言葉を綴った。
静かなそれにびくりと肩を揺らした息子を見ながら、彼は続けた。
「暑い夏だったが、それでも夕刻になれば幾分か涼しくてな。川縁などは特に良い塩梅だった」
昔話はまるで一人語りのようで、騎馬王丸はすっと瞼を引き下ろした。
記憶の糸を辿り、あの頃を探り出す。
波乱ながらも幸せだと感じていた一時の安らぎを。
「辺りは一面蛍だらけで、儚い光なのにやたらと眩しく感じた。あいつは、それを楽しそうによく眺めていた」
「――そうなんだ。蛍が凄く好きだって、言ってた」
遮るように元気丸が言う。
騎馬王丸は頷き、しゃがんで子供と目線を合わせた。
覗き込んだ元気丸の顔は、今にも泣きそうな苦しそうな表情だった。
騎馬王丸は何も言わずにその小さな頭を、宥めるように何度も撫でてやった。
「毎年、一緒に見に行っていたんだ。だけどその夏は、どうしても越えられなかった」
震える独白を、騎馬王丸は黙って聞き届ける。
そうすることで失ったものの大きさを確認するように。
「おいらは初めて一人で蛍を見た。数日で死んでしまうあの光が、怖くなったんだ……」
「……あいつみたいで?」
黙って肯定する元気丸に微笑みかけ、騎馬王丸は彼を抱き上げた。
急なことで身動きが取れずにいる息子を尻目に、そのまま屋敷の裏口へ向かった。
外は夕暮れを過ぎ、太陽は隠れている。空には少しずつ星が輝き出していた。
「き、騎馬王丸、放せって!」
「いいから来い」
裏の扉を開け放し、緩い坂を下っていけば小川が流れている。
長く伸びた草が行く手を阻むが、お構い無しに騎馬王丸は歩を進める。
小川の側では騎馬王衆の面々がやきもきしたような面持ちで、自分達を待っている様子が見えた。
状況についていけず、元気丸は下ろされた後も唖然と周りの大人達を見回していた。
「ほら、元騎丸。見ろ」
騎馬王丸に促され、元気丸は振り返る。
そこにあったのは――。
無数の、光。
思い出されるのは母親との思い出。
蛍が好きだった彼女。一緒に見ようと約束した自分。一人になった夜、川辺で母を求めて泣き叫んだこと。
それから、いつの日かまた置いてけぼりを食らうかもしれないという恐怖。
恐々と一歩後退った元気丸は背中を押し留められ、双眸を歪めて父の顔を仰ぎ見た。
騎馬王丸は前を見据えたまま、揺らぐことなく言った。
「逃げるな」
迷いの欠片も含まれていない言葉に、子供の背が強張った。
こんな子供に恐怖に向かい合えというのは酷なのかもしれない。だが元気丸は天宮を率いる武者としての道を自ら選び取った。一人で立てるほどの器がなければ、民衆は決してついては来ないことを騎馬王丸は良く知っている。
厳しすぎると罵られようとも、確実に先に逝く自分が残せるものは限られている。
いつか必ずその日が訪れることを知っているからこそ、元気丸に逃げて欲しくはなかった。
「現実から目を逸らすな。近い将来、再びお前に突きつけられることを忘れるな」
蛍はふわりふわりと辺りを自由に飛び回る。
光は絶えず輝き、そして消え行く。
それは確かに命の灯火のように思えた。
「――あいつが蛍を好んでいた理由、知っているか?」
黙ったままの元気丸は、小さく首を振った。
騎馬王丸は鋭かった目元を和らげ、子供と顔を合わせる。哀悼と愛惜の念が入り混じったような複雑な笑みが寂しそうで、元気丸は目を瞠る。
それは、確かに彼が彼女を愛していたのだと思わせるには十分すぎるほどのもので。
「蛍の光は命の光。子を生す為の交信であり、未来を育むための導。たとえ儚くとも、その一瞬の輝きは人生そのもののようだから、だと」
瞠目したまま動かない元気丸の周りに、蛍が集まってくる。
彼らは、夏を越えることなく死に絶える。元気丸の母親のように。
けれどその死は無ではなく、次の世代に繋ぐため。穏やかに逝った彼女も、また。
「あいつは、俺なんぞにお前という未来を残してくれた。だから、逃げないでくれ」
零れ落ちた透明な雫を拭ってやりながら、騎馬王丸は再び笑う。
この父もまた、いつか逝くのだと思うと涙が止まらなくなる。
騎馬王丸だけではなく、騎馬王衆も、虚武羅丸も、いつか必ず別れが来るのだ。
その時の自分の役目は、彼らが信じた未来の形を少しでも見せてやること。そしてそこからまた始まる未来へ、繋ぐことだ。
蛍の、光のように。
「……うん」
元気丸は鼻を啜りながら、しっかりと答えた。
あんなに恐れていた蛍火が、涙で滲んだ視界に映る。
幾つも集まっているその光は拡散して眩しくも感じられた。
それはまるで、あの戦いで見た奇跡の光のように未来を照らす灯りにも似ていた。
-END-
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リクエスト頂きました「元気丸+騎馬王丸+騎馬王衆」です。
相変わらず長くて申し訳ない;コブちゃんはなかったので今回は不在。
もうちょっと明るい話だったのですが、かなり深刻な話になってしまった…。
バックボーン話もそのうち書きたいところですね。
(2005/07/23)
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