落花流水には程遠くとも
戦いに明け暮れていた去年は、祝えなかったから。
政宗は穏やかな海の上にいた。春も半ば、外国との貿易を終えてようやく手に入れたのは珍しい香木だった。
有り余る富も名声も持ち合わせているくせに全く持って頓着しない元就にとって、こういった嗜好品は必要ない物なのかもしれない。彼の屋敷を訪れてもそういった香の類は見当たらなかったし、元就の着衣からも日向の匂いしか感じたことは無い。
要らないと言われれば彼の好きな餅でもこさえてやるつもりで持ってきたから、期待はしていない。
けれど元就は去年、戦で荒んでいた政宗の元へと一通だけ頼りをくれていた。
本人はそんなつもりではなかったのかもしれない。
しかし奥州の状況を知っていながら敢えて送ったのならば、それは立派な激励文であった。頭に血が上りきっていた政宗も、元就からの突き放されたような口調とその端々から滲み出てくる気遣いに知らずと心が和んでいた。
簡単には会えない自分達の状況に苛付いても仕方が無い。
ならば待つ間であれども相手を想い、愛しさを噛み締めていた方がずっと実になる。
冷静さを取り戻し、早く戦を終わらせようと一気呵成を心に決めて取り掛かったからこそ年内には争いごとも集約した。
その礼だとでも言っておけば、意外と律儀である元就はきっと受け取ってくれるだろう。
生誕の祝いだとは伝えなくとも、自分の気持ちを受け止めてくれるだけで十分に政宗は満足できる。
沢山望み過ぎてはいけないのだ。こんなにも遠く離れた地で同じ想いを通わせていられるだけで、奇跡なのだから――。
「よお、政宗! 久しぶりだな!」
「元親……」
郡山城へようやく訪れた政宗の前には、元親がいた。
元就は奥で執務をしているらしく書見台で熱心に何かを読んでいる。
何とか日を合わせて来たというのに自分に話しかけてくるのはもっぱら元親だった。奥州から覚悟を決めて旅立つ政宗とは違い、瀬戸内海を挟んでいても隣国ではある四国からやって来る元親の方が確かに気軽にやって来られる。
政宗がやっとの思いで香を美しい織物でしたため船出を待つ間、元親はのんびりと居城で寛いでいただろう。
今日ここにいるのも単なる気まぐれで、ある意味日課のような些細な事。
それでも政宗は自分が一番最初に祝うのだと盲目的にも信じていた。
人がいう恋い慕い合う仲とは少し違う微妙な関係だったが、元就が他国の人間に自分の生まれ月を教えたのは政宗が始めてだ。それを聞いた時、彼の特別なのだと自惚れでも何でも良いから舞い上がりそうになった。
だからいつか必ず、その日に元就に会いたかった。
本人には分からなくても構わないから、生まれてきてくれて、この時代に生きてきてくれてありがとうと全身で伝えたかった。
こんなにも親友の存在が羨ましいと思う日はなかった。
元親と知り合う前から元就とはこんな関係だったから、今までは余計な気後れを感じずにいられたというのに――会う頻度が高い方が親しみを感じやすいというのは元就に限ってないだろうが、それでも政宗が敷居を跨いだ数よりもいつからか元親の訪問回数の方は多くなっている。近いからいつかこうなるだろうと考えていたが、結局自分はそれを知っても全然平気ではなかった。
今も、こんなに足元から妬け付くような感覚が迫り上がってくるくらいに。
「あの本は……」
「ああ、この間手に入ってよぉ。俺は読まねぇからあいつにやったんだ。珍しい本なんだとよ」
意外と喜んでるだろ、と元親はまるで自分のことのように朗らかに笑った。夢中で読んでいるところを見ると、本当に欲しかった物らしい。
先程無意識の内に隠してしまった香木の包みを、思わず政宗は握り締めてしまった。
意気込んできたから引っ込みは付かない。けれどあれだけ膨らんできた想いが急激に萎むことを感じずにはいられなかった。
一心不乱に文字を追う元就の背中を眺めていると、自分の方こそ場違いなようで堪らなかった。
「政宗は何の用事で来たんだ?」
事情を知らない元親が無邪気に尋ねてくる。
政宗は曖昧にはにかむと、開きっ放しだった戸から音もなく辞した。
戸惑ったような声を上げられたが、振り返ることもできずに政宗はさっき通された廊下をぼんやりとした足取りで戻っていく。
「伊達殿? もうお帰りなのですか?」
元就の部屋へ茶と菓子を運んできただろう、盆を抱えた隆元が前方から声をかけてきた。
顔馴染みである青年に一瞥をくれるものの、政宗は再び顔を逸らして重い足取りで歩く。怪訝な視線が届けられたが気にする余裕もなかった。
擦れ違い様に突然、ぐいと腕が無遠慮に引っ張られた。
流石に驚いた政宗が左目を見開き顔を上げると、隆元の後ろにいたらしい元春が厳しい顔付きで此方を睨んでいた。
この城に住んでいる隆元とは違い、彼の弟の元春とは余り面識がなかった。
困ったように双方を眺めている隆元を尻目に、猛将と名高き元春の鋭い眼差しが容赦なく政宗に突き刺さる。
「逃げ帰るつもりなのかよ」
部屋に元親がいることを知っているからこそ出た言葉なのだろう。
案内した矢先に同じ道を通って出て行こうとする客人に何かを感じたのか、遠慮などすることもなく元春は静かな怒りを滾らせていた。
「あんたがどんだけ心待ちにしていたか、今日此処に土産を持ってきた時点で察しているさ」
政宗の手の中の物をちらりと見下ろした元春は、元就のいる部屋へと目を向けた。
家族である彼等は当然元就の生まれた日を知っている。祝いだって、政宗が生まれてくる前から幾度もやっているのかもしれない。それに対して妬いても意味が無いと割り切っているが、どうして元親にはそう考えることが出来ないのだろうか。
溜息を吐き出して気を抑えた元春は、困惑している兄に早く盆を持っていくことを勧めた。
それからすぐ側の部屋へと政宗を連れて行く。
「俺は兄上とは違ってあんたのこと余り知らない。だが、兄上と同じくらいには元就様のことを見てきた」
祐筆か小姓の控えの間なのだろうか。今は誰もいない室の棚を勝手知ったると言わんばかりの動作で漁っていくのを、政宗はただ俯き加減で見ていることしか出来なかった。
「この前の正月の席でだったかな。あの人珍しく零してくれたんだ」
目的の物を見つけたのか、棚から手を引いた元春は何かの包みを政宗に寄越した。趣のある包み。中身は縦に長い箱のようだ。それはまるで政宗が持ってきた祝いの品と似たような装いで――。
思い当たる節に気付き、ばっと元春の顔を見やる。
真剣な表情をした元就の次男は大きく頷いた。
「隠すこともせずに、独眼竜は天下と戦以外で何を所望しているのだろうか、だなんてさ。らしくないしおらしい声で聞かれたんだよ」
信じられずに呆気に取られている政宗をじっと眺めていたが、不意に元春は表情を崩した。
すると政宗と同年代の若者らしい笑顔が浮かび、歳相応となる。
「息子としてはそりゃ複雑だけど、俺はあんたに任せてもいいんじゃないかってちょっと思ったぜ」
「……ちょっとかよ」
「ははっ、少なくともほいほい何処かに行っちまう鬼よりかはあんたの方が一途だろ? じゃなきゃこんな遠くまで、たった一人の人間に祝いの言葉を送るためだけに来ないよ」
というわけだから元就様のこともう少し信じてやってくれ、と言い残して元春は去っていった。
手元に残ったのは、渡された包みと渡したい包み。
不安に駆られるのは政宗だけではない。期待はしなくとも自分の気持ちだけは受け取って欲しいという高慢さも、決して片方だけが抱くものではない。
「俺は何遍も同じことやってるくせに全然分かっていないよな……。これじゃあ説教受けるのも当然か」
苦笑いが浮かび上がり、政宗も部屋を出た。
奥州を出るときに決めたのだから、自らの手で、声で、目で、確かに元就へと伝えよう。
きっと待っているのは向こうだって同じだ。
* * *
「なあ毛利、いいのかよ?」
「……」
政宗が悲痛な面持ちで出て行ったことに部屋の主は気付いていたが、一度も振り返らなかった。
途中までは確かに熱心に本を読んでいたのだが、立ち尽くしたままの馴染んだ気配に気付いてからは一頁も進んでいない。着いてからずっと、読書している背中をのんびりと眺めていた元親はそれを知っていた。
どうして政宗が元就に会いに来たのか、そもそも二人はいつ知り合ったのか、聞きたいことは山のように浮かんでいたのだが年下の友人のあの顔を見てしまえば野暮だろう。
泣き出しそうだったな、と元親は無遠慮だったろう自分の言葉に責任を感じた。
「政宗、わざわざ奥州から出向いてきたんだろ? 声くらいかけてやれって」
「……我が何故此方から話しかけねばならぬ。勝手に来たのは向こうであろう」
言い募る元親に微かな苛立ちを感じつつ、元就は冷めた口調で返した。
双方が拙いと思うものの元親も元就も普段から互いに売り言葉に買い言葉を言い合っているから、自然と着火してしまえば後の祭りだった。
「んな言い方あるかよ! 訪ねてきてくれたのは向こうだろ、お前何様のつもりだ!」
「煩い! 大体貴様とてずかずかと勝手に上がり込んでおるだけであろうが! 意見される筋合いなぞないわ!」
価値観の違いに衝突を繰り返してきたからこそ、不毛な言い争いは最近ではなるべく控えようとお互いに努力はしてきた。
だが元親にとって政宗は戦国の世で出会えた大事な友だったし、元就に至っては言葉ではうまく表せないくらいに深い存在であった。
故に互いが互いを、自分達の何を知っているのだと憤り、結果的に罵倒の投げ合いへと徐々に熱が上がってきてしまう。
元親などに言われずとも、分かっていた。
遠い国から今日という日に合わせて来てくれた理由は、思い上がりではないとすればたった一つだろう。
文だけじゃ足りないと、一人きりで政宗への手紙を書いている時はいつも思っていた。
だがいざ本人を目の前にすると、頭の中が真っ白になってしまった。姦計を張り巡らせる時は不必要なくらいよく回るというのに。
策を講じるならば滑らかに発せられる弁も、舌が凍ってしまったように何も生まれなかった。
だから待ったのに。
政宗が声をかけてくれることを待っていたのに。
――何も言わずに出て行ってしまった。
「何を言えばよかったというのだ! 来てくれて嬉しいとでも笑えばよかったのか!? 馬鹿馬鹿しい!」
「――父上、長曾我部殿、そこまでに致しましょう」
今にも手が出そうな二人の間に、静かな声が割り込んだ。
盆を持ってきた隆元が呆れた顔で彼らを見やる。
「落ち着いて下さい。話し合うならもう少し冷静に出来るでしょう」
宥めるように茶を差し出し、隆元は困ったように微笑んだ。
隆元に宥められて微かに落ち着きを取り戻した二人は、乗り出していた身を下げて元の位置へと腰掛ける。一触即発の状態が緩和され、元親は思わず深い吐息を漏らした。すぐさま元就が睨み付けてきたが、先程のように頭に血が上ることはなかった。
「俺達って本当に喧嘩ばっかだなぁ。まあ会った時から反りが合わねぇのは分かってたけどよ」
粗茶を受け取り、ゆっくりを含むと荒んでいた気持ちが和らぐ。
ようやく口調の棘が消えたことを察して、隆元は気付かれぬよう肩から力を抜いて安堵した。
「でもよ毛利。さっき言ったことは本当だ。政宗だって全く言葉が要らないわけじゃねえはずさ。あんたと話がしたくて此処に来たんだろ?」
「……分かっておる」
無言で出て行った政宗はどんな顔をしていただろう。
時折、不安定な子供じみた表情を見せることがあった彼は、振り向きもしなかった自分をどう思っただろうか。
潰れた右目の逸話を話してくれた時のように、酷く寂しげに歪んでいたかもしれない。
此方を見てくれと、言葉にはしないものの切望した眼差しをぶつけてくる幼子が政宗の中には巣食っている。昨年とてずっと会わないままだったことが気に掛かり、何となしに文を送りつけたのも、生まれた日を苦しげに笑いながら教えてきた彼のその顔が脳裏にちらついて離れなかったからこそ。
あの目を思い出すたびに、胸の中にもやついた何かが燻っていた。
それを鎮めるために何をすれば良いのか、元就にはいまだ答えが見つからない。
返ってきた政宗の手紙には柄にもなくはしゃいだ様子が刻まれていたから、喜ばれたのだろうと思う。だから物を与えれば喜ぶだろうか、と気付けば政宗へ贈るための品を昼夜問わず考え続けていた。
他人に対して己の時間を割くなどらしくないのに、何故こうもあの独眼竜の笑顔が頭から離れてくれないのだろうか。
包装された品を直視できず、元就は自室に置くことすら躊躇って小姓へ適当に奥まった場所へしまっておけと命じた。それは無様な現実逃避だった。
その矛盾を元親に指摘されたような気がして、気が付けば怒鳴り返していた。
元就は、政宗が言葉に飢えていることを知っている。
でなければ文一つで奥州筆頭たる者があれほど舞い上がったりするはずもない。彼が寄せてくれている懸想は気紛れではなく、ひたすら真摯であったのは分かりきっていたこと。
自分の何が政宗の琴線に触れたのかは未だによく理解できないけれど、それは元就も同じだろう。
自分とあろう男が、息子とそう歳も変わらぬ子供に惹かれはじめている。その理由の答えも、元就はまだ見つけられていないのだから。
「ったくお前ら面倒臭いぜ。話がしたいって顔に書いてあるくせに、妙なところで遠慮したがりだ。いつもなら誰が何を思おうと構わねえって不遜な態度丸出しなのによぉ」
頭をがしがしと掻きながら、元親は呆れたように愚痴った。
それには同意せざるおえないと隆元もひっそり笑い声を零す。自覚の無い元就は、二人を怪訝な目で見つめていた。
「兄上、そろそろ」
「ああ元春か。では長曾我部殿、参りましょう」
「んん? ああ。お邪魔虫は退散ってな!」
障子の向こうから声が掛かり、隆元は茶を片付けると元親に退室を促した。
彼らが何を話しているのか察した元親は、朗らかに笑って元就の肩を叩いた。
「毛利、言葉が出ないんならちっとは笑っとけよ! 政宗のこと嫌いじゃないならそれだけでも違うぜ!」
いそいそと去っていく三人に取り残され、元就はぼんやりと開け放たれたままの廊下を見つめていた。
そこへ、見慣れた影が伸びる。
恐々としながらも揺るぎの無い声が名を呼んだ。
「入るぜ、元就」
その手には二つの包みがあって。
途端にかっと全身が熱くなったような気がして、再び声が出なくなる。
だが同じ過ちを二度もするわけにはいかない。
思い悩んだように少しだけ俯きがちな政宗に、元就は精一杯笑ってみせた。
「しっかし毛利も政宗とダチだったのか。意外な組み合わせだな。いつからだ?」
「……もしかして長曾我部殿、気付いておられないのですか」
「あん? 何を?」
元々元親が城に来たのは、元就へ本を渡すためである。
政宗という来客もあったことだしもう帰るというので、隆元と元春は城門まで見送りにきていた。
そこで飛び出した元親のこの発言である。
元就の息子達は互いの顔を見合わせて、大きな溜息を吐き出した。
「それであの助言とは、勘が鋭いのやら鈍いのやら」
「長曾我部の鬼は阿呆だな」
「喧嘩売ってるのかよ元春!」
元就譲りの冷たい視線を受けながらまごついた元親は、突然背後から怒声を浴びせられた。
大きな体躯を引き攣らせ、恐々振り向いてみるとそこには自分の息子の姿がある。
「父上、息抜きにしては随分と遠出でございましたな」
「いや、なに、帳簿合わせに飽きたわけじゃねーんだぜ、断じて違うんだ」
「先日より貿易に忙しいのですからさっさとお帰り下さいっ!」
信親に尻を叩かれるようにして元親は船着場へと駆け出した。
呆れながらも毛利の二人へ礼をした信親は、困ったように微笑む。
「毛利殿は如何されましたか?」
「さて、うまくいっているといいですけれどね」
「結局贈り物の中身は何だったのだ?」
元春はあの包みを思い出し、それを郡山城まで届けにきた信親へと尋ねた。
大陸の商人と貿易に向かうついでに元就からこっそりと頼まれた物を手に入れたのが信親である。政宗と友人関係にある元親にはどうしても頼むのが癪であったから、律儀な彼の息子に声をかけたらしいというのを元春も隆元も知っている。
信親は贈り物が誰に捧げられるのか聞いていなかったが、その品を日常的に使うような相手は一人しか思い浮かばず、父に頼まなかったことを一人で納得していた。
不器用な人だ、と小さく笑んだ信親は美しい細工を思い出す。
「それは、独眼竜殿を見ていれば分かることでしょう」
同意を求められ、隆元と元春もそれはそうだと笑い声を零した。
思う以上にあの二人はお互いがお互いを求め合って仕方の無い、似たもの同士であるのだから。
「政宗様、あまり煙草ばかり吸っておられると臭いが染み付きますぞ」
「ん、分かってる」
叩き付けて灰を落とした煙管が真新しい物だと気付き、小十郎ははてと首を傾げた。
あのような献上品、目録でも見覚えが無い。
誰かから貰ってきたのだろうか。
「見事な細工でございますな。これは玉虫と……翡翠でしょうか?」
「目も覚めるような緑だろ。あの人らしいchoceだ」
上機嫌な主に小十郎まで嬉しくなる。
厳めしい顔付きが和らいだのを楽しげに見つめていた政宗だったが、次の瞬間それも凍り付く。
「では小十郎が先程から探しております香木は、中国ですか?」
「っ! げほっごほっ!」
「国主が無断持ち出しとは嘆かわしい。整理していた者が失くしてしまったと泣いておりましたよ」
「あ、あれはだな、後でちゃんと言おうと――」
- END -
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擦れ違いばかりだけれども、思う事は一緒な二人。
三兄弟の中で元春が一番正面から噛み付いていけるような気がする。政宗と歳が近そうだし。
(2009/6/16〜6/24)
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