今宵、月見亭で。
<序夜>
暦は初夏である。
皐月晴れの空は快晴で、夕暮れ時ともなれば見事な朱色が一面に広がり濃紺の闇夜と交じり合う様は雄大だ。千切れた雲の端々が金紗のように煌き、その背景の下ではさらさらと笹の葉が柔い風を受けて舞い踊っている。その葉も疎らに朽葉色混じりの物があり、夕陽を透かして微かに鶸色へと輝いていた。萌黄の葉との対比がまた美しく趣がある。
時間帯によって移り変わりゆく景観からこの亭を建てた者の趣味の良さが窺えたが、当の本人は今のところ景色を楽しんでいる余裕など無いに等しかった。
茶を飲みながら素知らぬ顔をしてみるものの、外を眺めている目の前の客人をちらりと薄目で確認してしまうのは政宗の最近癖になりつつある。
向こうはそんな政宗の物言いたげな視線を察しているのか、いないのか、時折怪訝な顔をして振り向くのだった。
出会いは合戦場という何とも色気の無い場所ではあったのだが、文のやり取りから始まり参拝先での偶然の遭遇や悪友からの誘いで同席に与ったりと、意識する回数が多くなってから政宗が恋慕を意識するようになったのは早かった。
気が付けば目で追いかけるようになり、見目麗しくはある外見とは裏腹な性格が面白く、対して接点があったわけではないのにやたらと彼の事を考えている自分を認めるのは難しかった。
しかし諦めきれずにいた。
その時点でも相当な傾倒をしていると自覚していたのだが、政宗とて相手と自分の立場を理解していないわけではない。仕舞ってしまえる想いであれば告げないままでもよしとしようと、一人で決めていた。
それを試すためにも、珍しく奥州に滞在している相手を誰の介入もなく政宗は一人でこの亭へと誘った。もどかしいのはこれ以上我慢ならず、答えを見つけたかったのだ。
奥州筆頭たるこの伊達政宗が、詭計智将と名高き中国の鷲――毛利元就に戯れではなく本気を寄せられるのかどうかを。
己が想いの真実を見つけるべくした決意を思い出し、政宗は臆しかけていた心を奮い立たせるために背筋を正した。
気だるげに欄干へと肘かけていた政宗が急に動いたのが気になったのか、元就は落日に参詣していた形を崩して今度は身体ごと政宗の方へと向ける。どんな時も崩されることのない姿勢は元就の生き方を準えているようで、容赦なき戦の手腕により汚名をかぶり続けているというのに揺るぐことがない。罵倒や中傷などそれこそ政宗が知る実情よりも無数に浴びせられているのだろうが、元就は動かない。
それが悪友である元親は嫌だと言うが、政宗は憧れにも似た羨望を微かであれど抱いている。
近くで見れば元就の不器用な人となりも知れたからこそそう思えるのか、同じように不器用で素直になんてなれるわけのない政宗だったからこそ分かったのかもしれない。
時折自分を穏やかに見つめてくる飴色の瞳に見惚れたことは数知れず。冷たい口調の端々に、誰にも悟られないまま零れていく血の通った言葉があったことに気付くたび、妙な焦燥感に掻き立てられた。
大概元就の戦歴を知る者は、彼の纏う血生臭さに閉口するばかりだろう。政宗が体験している倍以上の死線を元就は潜り抜けてきた。戦に出るならば人が死ぬのは当たり前だから、敵も民も、それこそ身内も失わないというわけはない。
政宗は今自分の側にいてくれる者全て失いたくは無いといつも願っている。
此処に来るまでに失ってばかりだったから、得た者だけでも零れ落としたくなかった。
――けれど、誰かから誰かを奪っている自分がいつ何時奪われてもおかしくはない。
覚悟はあるが現実に起これば、その時我を失わずにいられるか政宗には自信がない。それこそ右目たる小十郎を喪ったとすれば、狂っていくのかもしれないと想像するたびに恐れた。
元就は、そんな喪失を超えてもなお真っ直ぐに立っている。
自分の事を多くは語ってくれない元就だが、政宗が歳の近い家臣達とじゃれあっている様子を見ながら小さな小さな笑みを浮かべるから、予想は何となく当たってはいるだろう。大切な人だったのかと問えるほど厚かましくなれる関係では無いから尋ねたことは一度たりともなかったが。
ともかくそんな風に迷わずにしゃんと背を伸ばし、自分の見据える方角を間違えない元就の一途さが政宗には堪らなく眩しいものに感じられていた。
政宗とて叶えたい野望は持っている。だがそのためにどれだけの犠牲と代償を払えるかと問われてしまえば、まだ答えは見つからないのだ。
そんな未熟な青さを、元就は鼻で笑った。
馬鹿にしていたわけではない。存分に迷えばよいと、寧ろ肯定した。
それはもう迷うことができない元就が自分に零してくれた、判り難い本心だったのかもしれない。
「先程からじろじろと、何なのだ一体」
「あー……sorry, 見惚れちまったぜ。アンタの姿勢、清々しいほど真っ直ぐなんでな」
流石に長く注視し過ぎていたようで、怪訝な顔をした元就が眉を寄せてきた。
声をかけられて思わず言葉を詰まらせた政宗だったが、自分の本心を知るために此処へ連れてきたのは自分なのだから、いつものように照れ隠しのための憎まれ口は止めてなるべく素直でいようと思ったことを正しく伝えることにした。
とはいえ慣れていないため、頬に朱が立ち上ることは抑えられなかったが。
最近では元就と一緒の空間にいるだけでも身体が火照る。
先程までいた茶室では、よく自分が作法を間違えずに点てられたと逆に不思議なくらいだ。あの沈黙の室内で彼と二人きりだったのだから、政宗の頭の中は可哀想なくらいに混乱していた。
夕涼みの風で幾らか吹き飛ばされた今とて、元就と二人きりの状況は変わっていないのだから緊張は治まらない。
此度の誘いの本題に入ろうにも、なかなか言い出せなかった。
「姿勢など今更であろうが……まあ良い。此処の眺めは思いのほか気に入ったぞ。漣の音も心地良い。何より日輪がよく映える」
「Really? よかった、造らせた甲斐があるってもんだぜ!」
薄く微笑みながら波音に耳を寄せる元就の言葉に、政宗は一瞬瞠目してから呼吸を弾ませて大仰に破顔した。
実を言えば政宗がこの亭を建てたのはつい最近の事。
あまり国から出ない元就がそれでも奥州へと来てくれることが嬉しくて溜まらず、表向きは茶の湯や酒宴を楽しむために造らせたこの亭ではあったが、元就と二人きりで静かに過ごせるような場所があればと思いながら建設を命じていた。
これを小十郎が知れば卒倒するかもしれないが――結構な額が動いたというのにその目的が、たった一人の想い人、しかも男のために造らせたとすれば眩暈もしたくなるだろう――胸の内に固く隠したままだった。
本来であれば元就自身にも言う気はなかったのだが、彼の口から褒め言葉が出てきたため政宗は歓喜の余り思わず零してしまった。
元就は驚いた様子で政宗を見やったが、当の本人は珍しいほど屈託の無い笑顔を晒して上機嫌に沈む夕陽へと顔を向けていた。
料理を振舞ってみたり紅葉狩りへ誘ったり、最初に偶然出会った厳島へわざわざ何度も参拝に赴いてみたりと政宗は元就が興味を持ちそうなことを散々仕掛けていた。
他人への関心が軽薄な元就ではあるが、決して皆無なわけではない。
いつもの皮肉めいた口調ながら毎回誘い文句を詠うたびに過剰なほどびくついている心臓を悟られないよう政宗は涼しい顔を装うのだが、そんな彼の心配を余所に元就は大体、諾、と受け入れてくれるのだ。
無論、政宗は彼が好むであろうものを選んで話すのだが、それでも気を許してくれるか否かというのは別問題である。
だからこそ二言三言だけ交わされる他愛も無い言葉が、元就から自分に向けて発せられたのだと知る度に政宗は幼子のように嬉しくて堪らなくなった。
「陽も良いが月もなかなかだと思うぜ? まあ、生憎今夜は欠けているがな。今度来た時にでも月見酒と洒落込もうぜ」
徐々に暗くなっていく水平線を眺めながら、政宗は少しだけ残念そうに笑った。
元就が奥州に訪れる時期に周期性はないため、こうして折角の設えがあっても月見に誂え向きな日に重なることは滅多に無いだろう。明日には帰ってしまうから外出を渋っていた彼をようやくこの亭へと誘えたのだが、日取りまでを念頭には入れていなかったから、茶を点て景色を見ながら会話をして――その先がどうしても続かないことにたった今気付く。
ならばと次の約束を持ち掛けた政宗は、らしくなくはしゃいでしまった自分に気付いて慌てて声を窄めた。
失言だ。
元就が酒を断っているのは政宗とて知っていたし、別に親しい間柄と胸を張って言える関係ではないのだから友人のようにこうも軽々しくまた来るようにと勧めるのは図々しいような気がしていた。
しかし気まずげな視線を送ってくる政宗とは対照的に、元就は呆れや気に障った様子もなくいつもの淡々とした言葉を返してきた。
「酒は呑まぬ。が、白湯でよければ付き合ってやらぬわけではない。それに……」
元就はふいと頭を動かし、今まで見ていた海側ではなく竹林の奥にある山の方を見た。
つられて政宗も其方へ顔を向ける。
漆黒に近付く深い蒼闇の中を白い爪跡が裂いていた。
――上弦の月。
己が掲げる兜の型と同じ静かな夜の光が、没する前に一層の輝きを放っていた太陽を見守っていたかのようにそっと南へ上っていた。
欠けた月見もまた一興だが、どうせなら満ちて明るい望月の方が酒のつまみには華やかで盛り上がるだろう。
そう思っていた政宗は、じっと細い弓張り月を見上げている元就の横顔を不思議な気分で眺める。側にいる政宗のことも忘れしまったかのように熱心に仰ぎ見る姿は、日輪への祈りと大差ないほど一途にも見えた。
まるで彼を太陽どころか月にまで取られたかのようで、政宗は先程抱いた気まずさも相成り微かに眉を顰めてしまう。
童のような嫉妬を否定したくもあったが、けれど政宗は当初の目的など本当に確認するまでも無いのだとここまでのやり取りの中で感じていた。
多分、なんかじゃなくて。
彼の言葉に一喜一憂してしまうほど、本当に自分は元就の事を恋しく思っているのだろう。
――結果は見えていたが。
最後の一押しがどうしても欲しくて、こんな遠回りなやり方を選んでまでして今此処にいるのだ。
さっさと言ってしまえばいいというのにいざとなると一歩が踏み出せないほど、元就を好いてしまっているのだ。
切っ掛けが浮かばないまま黙って元就の言葉を待つ自分を、相手はどのように思っているのだろうか。
ぼんやりとしていた自覚と疑問を明瞭にさせながら、政宗は膝立ちして元就に近付き、彼と同じ角度から細い月を共に見上げてみる。
そうしたって世界が元就と同じように見えるわけではないのだが、少しでも近づけるのならと思うから彼の興味の矛先が何なのか気にかかるのだ。今までだってそうだった。
涼やかな眼差しでちらりと隣を見た元就は、そんな政宗の必死さが分かっているのかいないのか可笑しそうに唇を歪ませた。
「豪胆に夜を照らせる月が、欠けていながらも控え目に凪いだ光を注ぐのは嫌いではない」
忍び笑いを漏らしながら再び空を見上げた元就の横顔に、意表を突かれた政宗は釘付けとなる。
眩しい陽光に信仰心を捧げる元就だから、月には頓着しないだろうと考えていたから、彼自身の口からこのような台詞が出てくるなど思ってもみなかった。
優しげに小さく顔を綻ばせているから、妙な気分にさせられる。
片側を暗闇に囚われて、半身をもぎ取られたように本当の姿よりも弱々しく輝く月。夜の帳を孤独に照らしながら星達を従える、ちっぽけな王者。
――あれは俺だと、後悔と嘆きのあとで呟いた夜があった。
政宗は遠い過去を思い起こし、落ちた影を振り払うべく月から目を逸らそうとしたが叶わなかった。いつの間に伸びてきたのか月明かりにも負けぬ白い指先が政宗の頬に触れ、驚く間もなく一つ目の狭い視界に元就の貌が映し出される。
突然の接触と吐息も聞こえるほどの距離に、政宗は唖然としたまま相手を見つめることしかできなかったが、目の前に広がる元就の困惑交じりの微笑に自然と鼓動が跳ね上がったことは感じられた。
「まるでそなたの眼差しのようだと、時折考えてしまうほどにはな」
何処か戸惑うようでありながらもはにかむような笑みを浮かべられ、これでどうして黙っていられようか。
政宗は胸を突いた衝動に駆られるがまま、長い睫毛に縁取られた元就の目をじっと見つめて鼻先を近づけた。微かに先刻点てた茶の匂いが薫り、ほんの少し彼を独占したような気になってしまった自分に笑いながら政宗はそのままそっと唇を寄せた。
瞼を落としたのはどちらが先立ったろうか。
分かったのは、頬に添えられていた掌が離れずにいてくれたということ。政宗にはそれで十分だった。
触れ合うだけの口付けから離れた二人は、しばらく無言のまま見つめ合っていたが、不意に風が吹き抜けて笹の音をしゃらりと鳴らしたことで我に返ったように顔を逸らし合った。
特に政宗は思いがけない数々の出来事に、今更ながら身体が火照る。
満ちた月は魔性だとよく言うが、自分にとっては弦月の夜の方が心臓に悪いらしい。きっとこれからは欠けた月を見るたびに、今宵のことを思い出すだろう。――弦月を政宗に重ねて想ってくれる元就のように。
「毛利……」
「……よい。それより酒を呑むのだろう。宵が更けるのは早いぞ」
まともに相手の顔を見れなかったが、返ってきた返答には嫌悪の色が見られずに内心ほっとする。
従者達を呼びつけて酒を持ってくるよう命じ、政宗は息を吐き出して自分を落ち着かせた。
このまま流せばいつも通りでいられるが、けれど思いの丈が募ったからこそ口を吸ったのだと伝えねば自分の気持ちさえも裏切るようで堪らない。今日こそはと最初に決めていたのだから、もうこのまま引くわけにもいかないだろう。
答えは見つかっている。
もう一度触れたいと、疚しいくらいに願う想いがこんなにも膨れ上がっているのだから。
「明日は早朝から発つんだろ。一杯だけ付き合ってくれ。アンタに、言わなくちゃならねぇことがある」
酒の席に付き合えない元就を想い、そう言った政宗は照れ臭げに頭を掻いて穏やかな面差しで振り返る。
それを見上げた元就もまた静かに笑んだ。
月を見るよりも温かな面差しだということに政宗が気付くのは、もう間もなく。
- END or NEXT? -
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この話の月見亭は松島の観覧亭からイメージしてみたので、あんな感じだと思ってくれれば幸いです。
祭中はこれで終わりでしたが、続きの話があるのでそのうちくっつけていきます。
(2009/5/24)
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