屍の檻



 ――自身が体験した中でも、この戦は十分惨い種類に入る。
 それが、清水宗治の正直な感想だった。
 かつての中国は幾度も合戦が続き、土地そのものが疲弊していたということをひしひしと感じる毎日だった。何度も際どい戦局も体験し、裏切りや討ち死の現場を見てきた。主である元就がその状況を作ったことも少なくは無い。だからこそ、絶望的な光景はある程度慣れているはずであったのに。
 織田の悪鬼は、全てを呑み込もうとしている。

「良いな、宗治。切腹なぞ決してするな。無駄死にぞ」

 冷たい双眸を流し、抑揚の無い声音が宗治にそう命じた。名指しで命令されれば頭を垂れるしか術がない。それは宗治だけではなく、毛利軍に属する者全てに共通する。
 いつもならばそうしてぴんと張り詰めている部屋の中は、まるで通夜のように薄暗い。

 上座に座る元就は、集まった者達の顔を面白くもなさそうに眺めていた。辺りからは啜り泣きが漏れている。負け戦の臭いが濃厚なこの空気に、誰も沈痛な面持ちをしていた。
 元就は宗治へ告げたように一人一人の名を呼んで、後追いを考えるな、この地に戻ることは策の妨げになるから邪魔だ、自ら死ぬ気力があるのならば最後まで毛利に命を捧げろ、と言った。
 普段から名を呼ばれたことの無い者、名前すら覚えていないだろう者、戦場に出ることのない世話役の女達にまで、隔てなく元就は名を呼んでいつもの冷たい眼差しを向けた。
 命を駒に例えるほど、人間味が無い人だと思っていた。
 けれども彼の中では、少なくともここにいる者へは個として認識があるのだろう。どうでもよいものの名称を覚えるほど、彼が生易しい人ではないことをこの軍に身を置く者は嫌でも知っている。

「父上……毛利は、私の手に余ります……」
「戯け。お前が居らねば誰が御旗を掲げるのだ。既に元春も隆景も部隊を撃破され行方知れず。残った嫡男がどれほど愚息であろうとも、後継者はお前だけだ、隆元」

 殿軍として残ると言った元就に縋り付いていた隆元は、涙を拭ったのだろう赤くなった目元を伏せながら項垂れていた。
 元就の意志は固く、隆元もとうとう逃げることを了承する。けれども押し寄せる不安は隠せるものではなく、ぽつりと落とされた震える声にその場に居た一同は憐れみを催していた。
 この部屋に集められた時に元就は隆元に家督を正式に譲った。家臣はそれに、諾と答えた瞬間から隆元は毛利の当主となった。隆元は何故と父親に尋ねたかったが、それが分からぬほど子供でもない。状況は予断を許さないのだから。
 そして宗治達もまた、理解が出来ないほど家中のことに疎くはない。
 両脇を固めてくれるはずの弟の姿が見えない中で、隆元は思わず弱音を吐いてしまったのだ。それが分かるからこそ、年若くしてこのような過酷な状況で家督を譲られた新たな主に、庇護の観念が浮かぶのだ。

 ――それもまた元就様の策なのだろうと、宍戸隆家は一人部屋の隅で目を細める。
 自分達の主となった隆元を守ろうとする意欲を促すように、わざと辛辣な言葉を選んでいるのだと感じる。
 先ほどの一人ずつに送った言葉もそうだ。言われなくても生きてやろう、と思わせるような台詞をわざと選び元就は発言していた。
 だが本当は皆、自分のように気づいているのだ。どれだけ不器用でも、確かに自分達を元就は見守っていたのだということを。
 隆家は軽い息を付き、痛む片腕――この部屋に集められる直前の、激しい戦闘で負傷していた。放って置けば切断することになるだろうが、治す時間などないことを隆家自身痛感している――を摩りながら上座を仰いだ。
 変わらない冷たい瞳と視線が交わる。
 能面を被ったような無表情を装っているが、微かに噛まれた唇が元就の悔しさと行き場のない哀しみを確かに形にしている。隆家もまた、無力な自分を嘆くように拳を握りこんだ。

「行くが良い。我の期待を裏切るな」

 取り巻く下々を見ていた元就は、隆家と目を合わせた後、項垂れたように顔を俯かせた。
 そうして見えなくなった表情の奥で、彼は何を祈っただろう。
 最後に、静かな声が全員に等しく落とされた。

「……皆に、日輪の御加護があらんことを」
「――っ御意!」

 嗚咽を噛み締めて彼らはそれに応えた。全員が一斉に拝礼した。
 あんなに怖くて、恐ろしくて、逃げたい日もあった元就の命令の言葉。なのに最後に掛けられた一言だけは、彼らしくもなく優しい音色に彩られていたと、宗治も隆家も目元が熱くなることを深く感じた。

 当主として元就が隆元へ送った最後の命は、落ち延びて毛利を絶やさぬこと。
 それはすなわち、どれだけの犠牲を払おうとも既にこの戦の勝敗が決しているということに他ならない。
 普通の相手であればたとえ頭を下げることとなろうが、自身の首を取られようが、家の存続のためならば元就は厭わない。
 だが、対する魔王は甘くはない。
 中国を濁流のように呑み込んだ毛利元就という人物の、危険因子を良く理解しているだろう。自分ならばそのような獅子身中の虫になりえる可能性を、早いうちに潰したいと元就は思うのだ。
 織田信長の冷徹な物の見方は、嬉しくない事に元就自身と造りが良く似ていた。
 だからこそ元就は分かっている。自分の直系の血を引く者を、決して信長は放っておくはずがないと。
 それゆえに、最高の戦力であり頭脳でもあった元就自身が殿に立たねばならないのだ。確実に時間を稼ぐために。

「元就様、せめて私だけでも御側において下さりませぬか」

 篭城しているこの高松城は宗治が治めていた。だから、ここまで攻め入られてしまった責任が自身に乗っていると思っている。
 興味なさげに振り返った元就は、兜を被り直しながら口を開く。

「貴様はもう要らぬ。新天地の城主にでもなるが良い」

 刃こぼれの激しい輪刀を携え、元就は去っていった。
 その背中を見送りながら溜息を吐き出した宗治に、隆元が隆家を伴って近づいてきた。

「父上は、御覚悟なされました。我々もまた覚悟せねばなりません」
「若殿」

 隆元の横顔にはもう迷いはなかった。あるのはただ、一抹の悲しさだけ。
 自分は結局、彼に何もかも背負わせてしまうしか道がないのかという、悲しさだけ。

「しっかりなさいませ、清水殿。義兄上――隆元様を、毛利の主をお守りするのが我らの役目。あの方の策の、最も重要な要でございましょう」

 隆家はにこりと笑い、それから宗治が見ていた方向へと視線を投げる。
 暗い廊下はまるで元就を隠したかのように、不気味なほど静まり返ってそこにある。黄泉路への入り口があればこのようなものなのだろうかと、不吉なことを淡々と考えてしまった己に呆れながら、隆家は腕を摩る。
 横目で隆元が心配そうに見ていたが、何でもないように微笑みかけた。

「新天地とは、私達がこれから身を隠さねばならない場所」

 宗治ははっとして隆元を見た。
 痛みを絶えるように眉を歪めながら、彼は苦笑にも似たような表情を浮かべていた。

「時間がない。元就様を裏切らぬためにも急ぐぞ」

 温和な雰囲気を引っ込め、隆元が凛とした声で下知を飛ばした。
 普段は父親に全く似てないこの義兄もまた、元就の血を確かに引いているのだと感じるのはこんな瞬間だ。
 隆家は不謹慎だと分かっていながらも、自分を待っているだろう妻を思い出した。彼女の元にも知らせがすぐに届くはずだ。元就の直系である一人なのだから。
 けれどきっと、妻が元就の娘でなくとも。あの方は、家臣の家族も逃がそうとするだろう。

 隆元は感覚のなくなってきた腕を億劫に持ち上げながら、隆元について階下へと走る。
 ――義兄上も、皆も、気付いていただろう。元就様が優しい人だってことを。
 でも立ちはだかる溝を前にして、向こうにどうしても辿り着けなくて。
 厳島で出会った西海の鬼が、あっという間に自分達を飛び越えて、元就の元へと言葉を投げ入れてしまったけれど。あれから元就は、自分達が彼を見ているということを確かに認識してくれた。
 そうして、安堵してくれたことを知っているから。

「義兄上、悔しいですね。今ここに、長曾我部殿が来てくれたらなんて思ってしまいました」
「私も、そうだ」

 隆元は困ったように笑った。隆家もまた苦笑した。
 後ろを付いてきていた宗治は無言だったが、心中ではやはり同じことを考えてしまっていた。
 氷の智将と言われ続けていた元就に、臆することなく炎を近づけたあの男がいたら――。
 毛利に味方をせずとも、元就の愛する瀬戸内の海を穢されることだけは避けられたのかもしれないのに、と。




 + + + + + +




 今となっては詮無き事だと自嘲を浮かべた元就は、人の気の途絶えた城内から外へ、ゆっくりと歩いていた。
 一人で歩く廊下は空虚な音をたてる。足元から冷えた木肌の冷たさが這い上がり、改めて独りとはどういうことなのかを元就に伝える。
 失うことが恐ろしいなどとは言えなかった。
 けれども、声をかけた者達は多少なりとも自分の内側の弱い部分を確かに承知していたのだと、泣き伏せるその表情の数々から知ってしまった。――知りたくなかったのに、知ってしまった。
 恐れられ、嫌煙され、遠巻きにされても、ただ戦う力があればそれだけで良かった。守れるのならば、それだけで良かった。
 だがその力ももはや無く、自分に出来ることはこの首を囮にして時間を稼ぐだけ。
 何て不甲斐無い。何て無力なのだ。
 己への憤りにじっと耐えながら、最後の命令を伝えた。出来るだけ冷たく。自分を恨んでくれればいいと、そう思いながら。
 なのに。

 ――なのに。

「我を、嫌ってはいなかったのだな……」

 零された言葉は暗闇に反響する。
 自分はこんなに頼りない声をしていただろうか、と元就はぼんやりと思いながら足を進めた。
 今更分かっても、どうしようもない。戦の結果が引っ繰り返されるわけでもなければ、この生き方自体を変えられるわけではない。
 だが、思うのだ。
 どうか日輪よと、祈ることも願うこともなく、それでも憧れ崇めていたあの崇高なる光に彼らの道を照らして欲しいと。
 ――どうか、生きて欲しいと。
 今はただそれだけを、望むのだ。

 残り少ない手勢を連れ、元就は戦い続けた。
 自らが返り血を浴び、相手の首を刎ね、味方であった骸を踏み分けてまで戦場を駆け続けた。行方知れずの将達の陣が壊滅している場所を直視しても、元就は立ち止まらない。
 思惑通りに事は運び、総大将の首を狙って織田の兵士達が群がってくる。それを何度も何度も退け、織田の本陣を目指した。
 自分に構うなと最初に命じたが、共に殿軍に居残った者達はそれを無視して元就を極力庇い続けた。叱咤を飛ばしても、彼らは止めない。逃げ出せば良いのに、誰一人元就の側から離れようとはしなかった。それどころか元就を守りながら、笑って死んでいく。

 声にならない声が喉元を通り過ぎ、その光景を焼き付けるかのように元就の目は見開かれていた。
 だが足を止めることは出来ない。倒れた者を振り返ることも出来ず、元就は走った。
 また一人、また一人と死んでいく。
 昔は自分の策で死んでいく者がいても、冷静にそれを見ることが出来たというのに。無駄死にではないから、意味ある死なのだから、と言い聞かせられていたというのに。
 いつから、こんなに弱くなってしまったのか。


 ――元親。
 ――そなたならば、我に答えをくれるだろうか。


「元就様っ!」

 脳裏に銀色の影が過ぎった瞬間、矢が自分の足に刺さった感触を覚えた。
 倒れそうになる身体に力を入れ、無理やり体勢を持ち直す。
 だが打ち所が悪かったらしく、足が麻痺したように動かない。痛みは全身に響くように広がっているというのに。
 敵は元就が立ち止まったその時を見逃さなかった。
 無数の矢がその場に降り注ぎ、元就の身体に容赦なく突き刺さる。雨で視界が悪いためか急所を狙ったものではなかったが、その量から見て確実に当てることだけを目的としているのだろう。
 元就は歯を食い縛りながら、同じように矢傷を受けた兵に支えられた。引き摺られるように岩陰に身を潜め、荒い吐息を少しでも整えようと深呼吸を何度か繰り返す。

「これ以上は危険です! 今ならまだ間に合います、お逃げ下され」
「馬鹿なことを申すでない! 我は、まだ戦える!」

 懇願するような声に怒鳴り返し、元就は突き刺さった矢を力任せに抜いた。
 一気に溢れ出した鮮血に、一瞬気が遠くなった。元から体力がある方ではない。この状態で長時間動くということは死を意味するだろう。
 だが、自分はまだ動ける。最後の刹那までも、役目を全うしなければいけない。

「我は、我は……ぐうっ!」

 最後の矢を引き抜いた際、とうとう元就は足腰の力を無くして岩にもたれたまま地に膝を付いた。握っていた刀を取り落とし、それを拾おうとするものの、手元が覚束無い。視界もぼやけて、頭の中が霞んできた。
 力を失くした身体を、兵士が支えた。振り払う余力も無く、元就は遠のき始めた意識を懸命に繋ぎ止める。
 騎馬の近づく蹄の音が雨音に混じって迫ってくる。
 ここで倒れるわけにはいけなかった。
 側にいる兵は十人にも満たない。応戦しようにも無理があるだろう。もう少し奥に行けば林が広がっている。馬に乗っているのならば中へは進めないだろう。
 そう考えた元就は、その場にいる者に掠れる声音で命じた。

「首を取られるのも時間の問題だろう。貴様等は、行け。この戦の状況を、隆元達に伝えろ」
「何を仰います、元就様。我々は最後まで御供します!」

 元就の言葉を聞かず、細い身体を二人がかりで支えて、彼らは林の方へと歩き出した。毛利軍として戦い続けてきたのだ。末端の兵とて、騎馬隊は木々の間を走るのが難しいくらい命じられずとも瞬時に理解できる。
 予想していなかった反発に瞠目していた元就は、それでも抵抗できない自分の身体を呪いたくなった。

 彼らは辺りを警戒しながら林を進んだ。雨粒が葉を叩く音の響き渡る世界は、まるで戦場を切り離されたかのように静かなものだった。だが追手は確かに迫っている。元就を連れたまま、彼らは満身創痍ながらも懸命に歩を進め続けた。
 無言で運ばれていた元就は、雨の香りにまぎれて嗅ぎ慣れた臭いを感じた。
 嫌な予感を覚えて、来た道を横目で見てみる。
 その刹那、爆薬の爆ぜた轟音が地面を微かに揺らした。同時に生まれた赤い炎が、木々を呑み込み始める。林ごと燃やして燻り出そうとでもしているのだろう。

「早く、置いて行け……奴等、火を放ったぞ」

 さらに言い募っても、兵士達は首を振っただけだった。
 追いかける者は既に人ではなく、全てを灰燼にする火の手。雨の中でも消えない強い炎は、勢いを衰えさせずに元就達の元へとやって来た。
 目の前には崖があり、登れるものではない。
 自分を肩から下ろした彼らを見上げ、ようやく置いて行く気になったのかと元就はぼんやりと思った。
 一人が他の者と何かを話し、それから名残惜しげにその場を離れて行った。彼は隆元達の下へ行ったのだろうと予想が付いた。
 だが残った者達は去ろうとはせず、もう一度元就を担ぎ直した。

「なっ……お前達……」

 彼らが元就を連れて向かったのは、崖に開いている小さな横穴だった。
 人間が、一人入れるくらいの小さな――。
 それを見て背筋を強張らせた元就は、彼らの顔を恐々と見上げた。
 ――微笑んで、いた。

「御武運を。貴方様に、日輪の御加護がありますことを」

 静かに横たえられた元就は、伸ばそうとした腕が既に微塵も動かなくなっていることを歯痒く思った。
 兵士の肩口に、赤い光が見え隠れしている。すぐそこまで炎が迫っているのだ。
 人の身体に遮られて暗闇に閉ざされていく洞穴の中で、元就は徐々に意識が掻き消える感覚に遣る瀬無く思う。
 不自然な人の山に、敵は気付くだろう。
 彼らがそこまで守ろうとしても、きっと、自分は――。

 意識を手放した元就を見守るように、あるいは最後に網膜に焼き付けるように、兵士達は穏やかな表情で見つめた。そして肩を寄せ合い、まるで囲いを作るように洞穴を塞ぐ。
 灼熱の炎が身体を焦がそうが。敵の刃がどれだけ身を刻もうが。
 彼らは、そこから一歩も動かなかった。


 雨が止み、敵がいなくなり、更地になった林の中、彼らは佇み続けた。身を凍らせてまで全てを守ろうとしていた愛しき主を、死しても尚。
 ――それから幾度か日が落ち、昇り、また沈んだ。
 流された血潮を吸ったような赤黒い月のある夜のこと。
 彼らが守り続けた命は、それを恋しく渇望していた鬼へと生きて渡された。



 - END -





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あの日何があったのか。どうして元就はあんな所にいたのか。
序章前、元親が戦場跡地にやって来る前の話でした。
基本的に鳥籠の幕間「Alive」と根本は同じなのですが、親就意識強めです。
(2007/03/03)


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