終:囚われた瞳の先は -2-
荒々しく蹂躙された地の田畑は、見る影もなくなっていた。
元々、戦が起これば進軍に邪魔な木々は倒され焼かれる。農民達の村やその土地も、邪魔であれば無理にでも排除された。他国に攻め入っている状況なら、兵糧を絶たせるという手段にもなるからだ。
敗走国である中国も例に漏れずに酷い有様であった。
支配しやすいよう、後々民達が一揆を起こすほどの余力を与えぬようにする意図もあったのだろう。毛利は確かに戦において悪評高くはあったが、悪政だったわけではない。寧ろ、善政と呼べるほどの統治力を誇っていた。
それを織田が危惧するのは当たり前だ。信長も小大名から魔王にのし上がった身分であるから、同じように中国の守護者になった元就を警戒していないはずがなかった。
徹底的にまで叩き潰された国は、しばらく統治者をなくして沈黙していた。
それも、泰平が訪れた今となっては昔のこと。
陽光を浴びて煌く海面を眩しげに眺めていた元親は、ふと顔を上げる。水平線の向こうにやがて見慣れた陸が見えた。肩の上で喚く鸚鵡の喉元を撫でてやりながら甲板へ振り返った。
「野朗共、帆を畳め! 碇を下ろしな!」
「了解ですぜ、アニキ!」
瀬戸内海を渡ってきた船が一隻、四国から北上して中国の港へとゆっくりと入っていく。港といっても大層なものではなく、船を浜に直接寄せたようなものだったが。
その甲板から降りて来た元親は、乗せていた荷を下ろすよう部下達に指示をして自身は丘へと上がって行った。
海岸線沿いには、潮風を遮るように松の木が幾つか生えている。その幹の根元まで歩み寄った元親は、小高いその丘から眼前に広がる大地を眺めた。
前に来たときは散々な有様だった。この辺りには漁村があったのだろうが、家々は皆焼き払われ、炭化した木々が横たわっていた。その中に、人の屍も多く見られた。
あの時の痛ましい気持ちを思い出しながら、元親は砂が入った目を軽く拭う。
丘から繋がるなだらかな平地には、もう破壊の爪跡は見えない。けれどあの日のことを忘れないようにと、いくつもの卒塔婆が立ち並んでいた。
遠くではこの地に戻ってきた村人達が、上陸してきた一団を物珍しそうに見ていた。
無邪気な子供達の歓声を聞き、元親は自然に笑みを浮かべていた。彼らは再び集落を作り、豊かではないけれども笑顔で生きている。毛利の地を故郷だと信じているのだからこそなのだろう。
「すまねぇ、ちょいと手を合わせていってもいいかい?」
近づいてきた村人達に告げて、元親は墓場へと歩み寄った。
あの蝕の日に埋葬してやることもできなかった者達へ、今更かもしれないけれど少しでも冥福を祈ってやりたかった。
自己満足かもしれないが、これが自分らしさだと思うから。
「信親、付き合ってくれねぇか?」
荷を全て降ろし終え、陸路を行く準備を整えている息子へ元親は少々申し訳無さそうに告げた。
振り返った信親は微かに瞠目したが、苦笑いを浮かべるだけで断ることはしなかった。
本当に良い子に育ったもんだと、元親がこっそり零した。聞こえていたらしい信親は呆れたように溜息を吐き出す。
「親父殿の考えていることなぞ分かります。何年息子をやっていると御思いですか」
「はは、違いない!」
皮肉にも大きな声で笑う父に困ったように笑いかけ、信親は小船を出すよう指示を飛ばす。威風堂々とした背中は、全軍へ命令を下したあの日の凛々しき姿を思い起こさせた。
信親は、どんな時でも元親の味方をしてくれた。
元就が別邸にいることに気付かれた時だって、信親は決して元親を責めなかった。道理の適わない父の狂言めいた言葉に、きっと戦慄を覚えたはずだ。
薄暗い狂気を垣間見ても、それでも彼は元親を見捨てなかった。
何も言わずとも理解し、見守っていてくれている。
長曾我部が伊達に敗走したあの時も、彼は身を挺してまで元親を守り続けた。
そして最後まで諦めるなと叫んだのだ。
自分は、彼のためでも長曾我部のためでもなく、元就のためだと言い訳し続けた己の我侭を振りかざしていただけだったというのに。そのことを、信親は知っていたというのに。
信親の身体には、あの日に負った傷が根深く残っている。
何度も重ねてつけていたため残ってしまった元就の痣の痕と同じく、それは元親に罪の現実を今でも突き付ける。
全てが過ちだったとは思わない。
それでも沢山の人を傷付けて、此処にいるという事実を忘れたくはなかった。
自分という存在を確かに見ていてくれる者達を裏切れるほど、独り善がりにはなれないのだということに――元就のように、本当の意味で気付けたから。
元親は海へと視線を投げた。
これから向かう、二人が出会った始まりの場所を。
年月は確実に流れていったというのに、この島で聞く波音は涼やかで変わりがない。
周りの国がどれほど戦に疲弊していようとも、境内はまるでこの世と切り離されたように静かだった。
中国内では西よりに位置している厳島は、難を逃れて焼き払われることはなかった。もう少しでも京に近ければ、進軍してきた織田の兵に打ち壊されていたことだろう。
最後に見たときと何ら変わりのない光景に安堵し、元親は息子へと振り返る。
「こっからは俺一人で行く。待っててくれるか」
「あの方と一緒じゃなければ乗せてあげませんよ?」
信親は冗談めかしな言い方をして笑う。けれどそれが、紛れもなく真の願いであることを元親は知っている。最後まで諦めるなと叱咤し続けたのは、他でもない信親なのだから。
苦笑を浮かべた元親は境内へと踏み込んでいく。
見守る息子へ己の意思を伝えるよう、天に向かって拳を突き出しながら。
待たせていた人は切れ長な瞳を更につり上げ、相変わらずの不遜な態度で立っていた。
それを見上げながら、元親は階段をゆっくりと登っていく。
出会いの日も歩いた道程。段数の数さえ、元親の記憶に深く刻み込まれている。
橙色に染まる板張りの床を軋ませ、最後の一段を大きく踏み締めた。夕焼けに染まる空を背景に、痩身の影が静かに佇んでいた。
「遅い」
開口一番にそれかよ、と元親は呆れたように肩を竦め、元就の傍まで歩み寄る。
厳島を詣でていたのだろう、具足をつけていない軽装にも拘らず常よりもやや華美な衣服を纏っていた。滅多にお目にかからぬその姿に、元親は思わず口笛を吹いた。
眉を微かに寄せた元就は、視線を逸らして夕暮れに溶けていく瀬戸海へと顔を向けた。穏やかな潮風が彼の細い髪を撫でていく。
数週間前にあった時より顔色が良く見えるのは、太陽の光のせいだけだろうか。きっと機嫌が良いのだろう、と元親はこっそりと笑う。
「ったくよ、久しぶりに会えて嬉しいくらい言えねぇわけ?」
「ふん、ほざいていろ」
楽しそうに軽口を聞いた元親を一蹴した元就は、そっとその場に腰を下ろした。隣に立っていた元親も、同じように海を見ながら座り込む。
暫しの間、二人の沈黙は続いた。沈んでゆく夕陽をただ眺め続ける。
「俺は、寂しかったぜ」
不意に元親は、小声で零した。
いつも自信有り気に喋る彼の思わぬ言葉に、元就は瞠目して首を動かした。
穏やかな海色の瞳と視線が交わる。
「今回だけじゃねえさ。あんたが隣に居ない日々は、まるで星の無い夜の航海へ出るみてぇに心細かった」
にっと笑った男を仰ぎ見ながら、元就は微かに俯いた。
元親は向けられた頭に手を伸ばして、驚かさないようにそっと触れる。相手が振り払わないことを確認してからそのままゆっくりと撫でた。囲われていた時のように、元就はそれを甘んじて受け続ける。
二人きりの空間の中で、地位や立場など拒める理由はもう残されていないのだ。元就が元親の瞳に捕らわれた時から、それだけは変わらずに。
「でも元就が今日会いたいって言ってくれて、寂しくなくなった」
「それは」
元親の言葉を遮って、元就が勢いよく顔を上げた。
微かに驚いた相手を見つめながら、彼は精一杯の想いを吐き出すように告げる。
「我も……そなたが傍に居る時は、多分、寂しくなくなっていると思う」
まだ感情に名前を付ける事が難しいのだろうけれども。それでも、口篭りながら自身の偽りの無い気持ちを口にしてくれた元就に、元親は愛おしさが込み上げる。
湧き上がる衝動に身を任せ、その身体を思い切り抱き締めた。
「元就、好きだ」
肩口に顔を埋めながら、元親は真っ直ぐと言葉を紡いだ。
今まで自覚しておきながらも、胸の内でずっと燻ってばかりで表に出してこなかった台詞。直視されて、それを跳ね除けられることが怖くて言えなかったもの。
元親は喉元に痞えていたそれを、ようやく伝えたい人へと運んだ。
長い回り道の果てに。
「戯け。言うのが遅いわ」
苦笑交じりに返事を返した元就は、そっと手を相手の背中へと回す。
照れ臭げに顔を上げた元親は、子供のように無邪気な笑顔を浮かべて瞼を下ろす。雰囲気を察した元就も、真似をするように目を閉じた。
二人の唇に、優しい温もりが触れ合った。
熱の余韻を持て余しながら、幸福な心持ちを噛み締める。
元親は元就を抱き締めたまま、懐から一枚の汚れた紙切れを取り出した。見覚えのあるそれに、元就は困惑したように眉を顰めた。
「もういらねぇだろ?」
あの閉鎖された世界の盟約。拙い想いで作られた誓約書。
それを元親は清々とした顔で握り、それから海を見た。
「こんなもの無くても、俺達は互いを感じることができる」
ここでな、と元親は己の胸を親指で突く。
恥ずかしげも無く気障ったらしい言葉を吐く男に呆れながらも、元就は肩を竦めて口の端を少しだけ綻ばせた。
その表情を見届け、元親は勢いよく誓約書を半分に引き裂いた。
白い紙が潮風に煽られて空へと舞い上がり、西の方角へと流されていく。
いつの日か、あれは瀬戸の海へと溶けていくのだろう。紛い物の約束の中にあった、本当の恋情をこの場に残して。
元就は手を静かに合わせた。
沈む夕陽のためか、無くなった箱庭への哀悼を込めてなのか。
黙ってその横顔を見つめる元親には分からなかったけれども、振り返ったその飴色の瞳が自分を映している。
ただそれだけは、確かなこと。
「さぁて、元就行こうぜ」
「ああ」
夕焼けが終わる。
空と海が美しい朱色に交わり合い、鮮烈な輝きを放っていた。
今日という日が終わっていくのだ。新しい日を迎えるために、夜の帳を下ろすために。
元親と元就は歩き出した。
二人で進む明日へと、再び始まった物語を紡ぎ続けるために。
囲 目
- END -
(2007/03/29)
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