故郷に続くこの道で
天下は伊達家の元に平定され、市井にも奥州筆頭たる独眼竜の名が広く轟くようになった頃。
彼の住まう城ではきな臭い噂が漂っていた。
元々政宗に対する遺恨は様々であり、彼を支えるべき三傑の一人は膝元であった奥州の取り纏めをするべく不在であった。
三人の中で一番年長の鬼庭延元は、戦続きであったために政宗の不在が多かった伊達の政の殆どをこなしてくれていたから、その信頼もあって奥州へと一時的にやってしまっていたのである。
専ら政宗自身に言えない事柄は義兄とでも言える延元に相談していた小十郎にとっては、これが少しばかり困った事になっていた。
政宗の采配には何の疑いもなかったし、延元が不在でも自分達でやっていける自信と小十郎達配下への信頼があったからこそに他ならないわけだから、別に不満などがあったわけでもない。
だが仮にも政宗よりも年少である伊達成実にこんなことを話すのもどうかと思ったし、かといって全く事情を知らない者になどそうそう言える内容でもないのでどうしようかと自室で悶々としてしまう。いっそ政宗自身へ率直に意見を求めればよいのではと考えてしまう己もいて、溜息を吐かずにはいられない。
当の本人はと言えば、本日の朝議も昼の執務も精力的にこなして午後の休暇をもぎ取っていた。
今頃は散々控えろと諫めていながらも全く止める気配のない、城下町の散策に乗り出しているだろう。その前は武家の下屋敷にばかり通っていたのだが、そちらの方が幾らかましだと言うものだ。
口うるさくする小十郎だが実力行使に出ないのを分かっているから余計に性質が悪い。けれどこの部分に関しては所詮甘くなってしまう自分を小十郎は重々承知でいたから、苦笑だけで済ませてしまう。
政宗と“彼”の物語をすぐ間近で見てきたからこそ、彼らが幸せそうにしている――ようやく傍にいられる事を許された今を、ささやかでも守っていければと思うのだ。
自室の濡縁へと赴いた小十郎は再び溜息を零して、高くなった秋の空を見上げてみた。
戦乱の時代は終わりを告げて、二人は同じ空を飛べているのだろうか。
鳥になりたかった竜と、竜に焦がれていた鷲。
彼らは今どの辺りで睦まじく羽休みをしている頃か。
* * *
政宗は出かけ頭に小十郎と遭遇した際に浮かべられた呆れ顔を思い返し、辟易としていた。
お堅い己の右目がそういう反応をするのは分かっているが、毎回の事なので気の長い方ではない政宗にとってはたまったものではない。それを従兄弟の成実に思わず愚痴ると、どっちもどっちだと肩を竦められたのには少々不服である。
「考え事か?」
ゆっくりと歪められた愁眉に気付いたらしい、傍らで反物を眺めていた眼差しがいつの間にかこちらを向いている。
眼帯をしなくなってから表情の変化が分かりやすくなったらしく、部下にも時折心配そうな声をかけられることがある。
煩わしいとは思わなくとも、隠す事に慣れていた身としては逆に困惑が先立ってしまっていたが、それが彼相手であると別段困るような事は何もなかった。
三日月の晩に出会い、触れ合った日々の中で政宗は知っているのだ。
彼――毛利元就には、どうしても感情の欠片を見出されてしまうと。
自分の心をただの政宗に戻せるのも、また独眼竜として奮い立たせられるのも、元就という唯一の存在。
確かに胸にあった拠り所として政宗の中で息づく感情は、約束という形を携えてようやく昇華された。あの別れの空の下で狂おしいばかりだった愛しい気持ちは、許された再会の丘で溢れてようやく伝えきれた。
成就されたからこそ、二人はこうして今の時を同じ速度で歩いてゆける。
まだまだ本当の意味で始まったばかりだった。
「いや、小十郎が今頃また頭を抱えていやがるのかと思ってな」
「……政宗」
「Ah, アンタにまでお小言くらいたくはねぇよ。小姑は片手じゃ数え切れねぇほどいるんだ、二人きりの時ぐらいはいいだろう?」
だらしなく姿態を投げ出した状態のまま顔だけを向けて、にやりと笑った。
元就は肩を竦めて溜息を吐いて見せたが、どことなく口元が柔らかい。
彼は彼なりにこの時間を楽しんでくれているのだと分かるから、政宗もつい嬉しくなってしまい声の調子が高くなる。
「それより決まったか? 寒くなる前に仕立てさせるつもりだから、今日明日には職人に預けるつもりなんだがよ」
はしたなく肌蹴たまま元就の隣まで身体を寄せた政宗は、その手の中にある反物をのぞき込もうとする。
周りには幾つかの反物が無造作に並べられているが、それは全て政宗が元就へと持ってきた物だった。
緑、青、金糸の入った細工模様、白に紫、花に蝶々などなど男物から女物まで色とりどりな種類に富んでいる。
こんな年嵩の隠居に贈る物ではないだろうと元就は政宗を諫めたのだが、結局はほだされて仕立てに出す布を選ばされていた。
この中で一等目立つだろう紅を基調としたものがないのは、既に一度贈られた例の羽織物の存在が政宗にとって大きな意味を持っていたためだ。
彼は何も言わなかったが、反物を広げた部屋へ通された元就はすぐに敢えて用意しなかっただろうことに思い当たり、むず痒い気持ちが芽生えた。
贈った側の竜がそうであるように、受け取った側の元就としてもあれは大事な代物だ。
もしかするとずっと手元に置いていた政宗より、彼と永別を覚悟した中での別れの後も思い出を手放せず刻まれた記憶に縋るようにして、幾度も思い描いていた元就の方が思い入れは強いのかもしれない。
比べるものではないのだが、互いに自分の方が未練がましく想いを募らせていたと信じきっていたから、こうして共にあることが許された現在でも気恥ずかしさが根本に居座っていて。
それらが確かな形となって残る羽織へも、想いは強くなる一方であった。
故にもしこの場に出されていたとしても、あれ以上の物を選べるはずもないのだ。
「しかし気が早いのではないか政宗。奥州ではもう冬支度であろうが、上方の気候はもっと緩やかぞ」
「No problem, これから北に行くんだから必要になるだろう」
「……北?」
何やら聞き捨てならない単語を耳にして、思わず元就は眉を寄せた。
自分の膝の辺りにだらしなく顎を乗せていた政宗は、そのまま仰向けになってその表情を下から覗き込み、笑う。
「奥州は冬支度だ。それなりに寒いからな」
「そなた、奥州へ戻るのか? 向こうで問題があったとは聞いておらぬが……」
天下統一を果たして日ノ本を統べているとはいえ、若い政宗の政にはまだまだ多くの手助けが必要とされている。毛利家の隠居であった元就がこうして政宗の側にいるのも、長く中国一帯を統治してきたその手腕を買われてのことだ――表向きには。
相談役として登城している元就は、伊達家が延元を奥州へやったのを知っている。寧ろ朝議でそれを論ずる前に、一度相談を持ち掛けられているのだから当然だ。
その際は特に何か騒動があったからなどとは誰の口からも上らなかった。月日が過ぎた今でも、深刻な知らせが駆け込んだという話もない。
様々な情報を頭で統合させながら怪訝そうに尋ねてきた元就に、嬉しそうな笑みを滲ませるばかりで政宗は中々本題を告げようとしない。
面白がっている。
不服そうに目を細めた元就は、そのままふにゃりと崩れている頬を抓り上げた。
しょうもない鈍い叫びが膝元から上がるが無視する。
悶絶した頭をさっさと床へ落として立ち上がった元就は、そのまま手にしていた反物を抱えて部屋を出た。
慌てて政宗は声をかける。
「おい元就っ、結局それにするのか?」
「保留だ、保留。我はもう毛利の屋敷に戻る。明日は貴様の方から来るがよいわ」
珍しく粗雑な物言いながらも、上品な仕草を崩さずに元就は廊下の向こうへと去っていく。
顔だけを濡れ縁へ覗かせてそれを見送っていた隻眼は、機嫌を損ねられたというのに赤い頬を擦りながら楽しげに笑んでいた。
想い人がいなくなった部屋でごろりと寝そべった政宗は、ひどく心が満ち溢れていることを自覚する。
天下を平定したことで乾きを癒してくれていた戦はなくなった。野望が叶ったのは本懐であるが、政宗を高揚させてくれる日々は同時に失われた。
元就と再会したあの日までは、徐々に褪せていく伊達政宗という個の魂を感じながら溜息の毎日を送っていた。
しかし、今は違う。
世界はこんなに色付いているのだと、元就と過ごす平穏な日々の中で政宗は気が付いた。
過去、二人で過ごしていた微睡みの楽園で、ある種の怯えと共に過ごしていた頃よりもずっとずっと輝いて見える。杞憂や遺恨がない状態で他人と暮らせるのがこれほどまでに心を軽くしてくれる事実が嬉しくて仕方ない。
舞い上がってしまっているとは自覚している。
だが今、天下を手にして更なる空虚感を得るよりはずっとまともな自分で存在していられるのだから、これ以上の素晴らしい日々は思い付きそうもなかった。
空っぽだった鳥籠の中から約束は羽ばたいて成就された。籠の外側に広がる世界は、もう二人を隔てることはないのだ。
だから、政宗は一つの覚悟を決めていた。
傷つく恐怖が足下を竦ませたとしても、元就は側にいてくれる。ずっと共に戦ってきた部下達にだって見限られることはないのだから。
眼帯を外すと決意したあの日と同じくらいかそれ以上の勇気を、もう一度。
政宗は縁側から臨む、陽光に輝く丘を見上げて柔らかく笑んだ。
* * *
毛利邸へ戻った元就は持ち帰った反物を無造作に床へ転がすと、柱を背もたれにして座り込んだ。
少し疲れてしまっているようだ。
月の半分は城に泊まる割合が多いが、政宗と四六時中一緒にいるわけではない。彼には彼の仕事があるし、自分だって同様である。
そうすると伊達家の譜代から始まり、政務のために集まっている他家の家臣達といった疎外感の拭えない場所に一人という場面は少なくなくなかった。
別段、人見知りする性質でもなくその状況自体には何の不安もなかったのだが、政宗が絡むと別らしい。
政宗に向けられる嫌悪や嫉みが、あからさまではないものの元就にも突き刺さることが今まで何度もあった。その逆も然りで、お互いに散々色々な場所から遺恨を抱かれているらしいと苦笑したのがそれなりに前の事だ。
政宗には立場があるから元就とて馬鹿な事はしない。
それが余計に陰口に拍車をかけているらしく、最近では政宗と元就の正しい事情を把握している一部の伊達家家臣しか知らないはずの関係を、身勝手な想像力で作り上げたような誹謗中傷と共に揶揄されている。
政宗の男妾だの傀儡だの嘲笑と品定めするような視線の数々にははっきりとした嫌悪があったが、中には単に懸想し合っているのではと可愛らしいものもあって失笑が零れた。
きな臭い噂があれども、あながち間違っていないからどうこう言えるわけではない。
政宗も元就もそういった輩をまともに相手するはずもなく、それぞれが淡々と仕事をこなしていたのだが。
一つの憂慮がここのところ大きく膨らんでいた。
政宗はどう思っているのか疑う余地はないのだろう。
彼は彼らしい分かり難いやり方ながら元就を大切にしてくれているし、会えない時間を埋めるように暇さえあれば毛利邸へ訪れたり、市井へ出かける誘いをくれたりと、明るい顔を見せてくれる。
かつての自分達の擦れ違いを経ての今がある事を正しく受け止めて、きっといまだに空っぽのままの鳥籠を思い出の箱の中に綺麗なまましまい込んでくれているのだろう。
だからこそ元就は、政宗と過ごす日々に何の不満もなかったはずだった。
でも、幸せな毎日があるからこそ未来に対して漠然とした不安を覚えるのは。失ってしまう恐怖を既に知っているからか。
溜息を吐き出した元就は、転がしたままの布へとぼんやり視線を這わせた。
政宗の御眼鏡に適う代物だから、あの部屋にあった物は実際全てが文句の付けどころはなかった。むしろ、彼が自分のために反物の前で云々と唸っただろうことを想像すると何であれ好ましく思える。
――だからこそ、いつか政宗が自分以外にそうするようになるだろうことを考えるだけでやり場のない気持ちが溢れ出しそうになった。
城に泊まる時は政宗と同じ床で寝食を共にしていて、元就が政宗とかつて蜜月を過ごしていたことを知っている面々などからは夫婦のような扱いをされる時もあった。
彼らにも受け入れられていることは分かっている。
事情を知りながら元就を政宗のところへやった毛利家も、元就が本当に望んでいた政宗の傍にいられる現状を快く見守ってくれている。
だが、自分は男だ。
家も枷も約束も、全てから解き放たれて毛利元就という一人の人間として政宗の隣にいられたとしても、生まれた時から決まっている性を覆すことは叶わない。
ましてや元就は政宗の臣でも身内でもなかった。二人を繋ぐこの儚い糸が途切れてしまえば、きっと呆気ないほど簡単に離れてしまうだろう。
女の身であればあんな馬鹿馬鹿しい中傷も貰わず、何の問題もなく政宗の家族になれたかもしれない。別離したとしても子を宿すことで証が生まれるのかもしれない。
同性だったとしても信頼や絆の形は人と人の間には生まれる。
しかし政宗にとっての片割れの席には、共に戦う運命を背負い続けることを選んだ右目の竜が既に存在している。
小十郎だけではない。
政宗を守り、育て、共に歩いてきた多くの者がいる。
比べることすらおこがましいだろう。元就は伊達軍に同行していた日々の中でそれを重々理解していた。
それに、元就は自分が女だったら良かったなどとは一片たりとも思ったことなどない。
小さな国を守るべくして戦い、中国を手に入れられたのは前線で戦い続けることのできる男の身なればこそだ。
そして――愛しかったと気付く事の叶った己の大切なものの多くが、不器用ながらも築いた“家”であり“家族”だったと元就はもう知っている。
隆元も元春も隆景も間違いなく自分の実子であって、それはきっと自分が男であったからこそもたらされた宝だろう。たとえ自分が女であって身篭ったとしてもそうして生まれるのはもう違う誰かのはずで、他の男に嫁いだ身なれば政宗と懇意になれるはずもなかった。
――お前は、怒っているだろうか。
埒の明かない思考の中で、元就は遠い昔に失った女性の姿を思い返す。
強い娘だったのをよく覚えている。こんな冷たい男に宝物を残してくれて、死に際まで微笑んでいたという彼女は今の自分をどう思うだろう。
ふっと口元を綻ばせた元就は立ち上がって、大人しく部屋の中へと引っ込んだ。
政宗が自分と鏡写しのように孤独であるのは気付いている。
彼自身からきちんと聞いたわけではないが、多くの仲間がいる半面で政宗の家族は誰一人として彼の側にはいなかった。血縁者が皆無というわけではなく、従弟や叔父も家臣団の中にいたが、元就のように直接的に同じ家で暮らしている者ではない。
尊敬していた父は敵もろとも、大切だった実弟には自害を命じて、政宗は彼らを殺してしまった。
唯一生きている母親はあの隻眼の因縁から嫌われ、彼女から夫と息子を奪ったことで溝は大きくなる一方。実家へと追い出してもう随分と経っていた。
たとえ元就が聞いたとしても政宗は虚勢を張って、いつものように笑うだけだろう。
そして彼は「アンタといられて幸せだ」と繰り返す。
元就は幸せだった。隠しようもなくそれが紛うことなく本心だ。
自分はもう隠居であるし、毛利家の安寧も確約された平和な時代へと移り変わったからもう戦う必要はない。
だがこんな自分よりずっと若い政宗にとって、この先は長い。
幸せを他人の定義で語られたくないと思われるかもしれないが、彼が言うほど自分が政宗を幸せにできているとは思えなかった。
そして与えられるような幸福など数えられるほど知らなかったから、元就には自分がかつて受け取った宝物が政宗にもあればきっと今以上に心が豊かになれるだろうと、そう信じていた。
天下人となり後継者問題が決して遠くはない現実として押し寄せるだろうし、両親も兄弟もいない政宗が新たに得ることが叶うのは妻と子供しかないだろう。
そのどちらも、毛利元就である自分が代われる者ではなかった。
男である事を後悔などしたことは一度もないし、これからもする必要などあるはずもない。
だが、沢山のものをくれた政宗に己が与えられるものといったら何一つないのだと気が付いてしまい、無視していたはずの誹りに対しても複雑な思案に暮れる場合も少なくはなくなって――。
政宗と共に、あんな風に他愛もなく過ごしている時は全く気にならないというのにどうしたことだろうか。
纏まらない頭を晴らすべく、元就は甘味と粗茶を運んでくるよう命じた。
この下屋敷には現在、元就以外の毛利家の縁者は滞在していない。
有能な住み込みの奉公達が屋敷を管理していて、隠居として暮らしている元就の世話もそつなくこなしていた。元就が毛利家の当主であった頃から仕えている者ばかりであったから、特に苦もなく穏やかな生活が続いている。
勿論彼らは、先日まで散々元就を訪ねに通ってきていた独眼竜の存在をよく知っていた。
それ故に彼と逢瀬をするため出掛けていったはずの屋敷の主が、疲労を漂わせた吐息を自室で漏らした事に顔を見合わせていた。
使いで城へ出向いた者も何名かいて、今、城内で漂っている噂も重々承知していたから余計に心配である。
元就があの竜の君と深い仲だというのは、毛利家当主である隆元自身から教えられている。口の堅い彼らは年若い天下人と自分達を守り続けてようやく人並みの穏やかな暮らしを手に入れた元就の行く末を、微笑ましく見守っていた。
伊達家の纏めている城でもその関係は一部の者しか知らないらしく、彼らもまた元就に仕えている者以外にこの話題を出したことは一切ない。
それ故に噂の出所は不明のままだったが、不穏なそれに懸念を抱いているのは自分達だけではなく、きっと政宗の従者達も同様だろう。
元就に命じられた一式の膳を運び終えた奉公人達は、温かな陽光が差し込む土間で顔を合わせながらこの先の二人がどうなるのか、気遣わしげな視線を外へと送ったのだった。
* * *
城へ戻った政宗は、遭遇するなり小十郎に部屋と引き摺られていった。説教かと身構えて裏口から帰ってきたものだから、その反応は当然だと受け入れられるため政宗も四の五の言い訳はしなかった。
ところが座らされて戸をきちんと閉められ、人払いまでされた自室の真ん中で聞いた言葉は想像と違っていた。
「……政宗様、最近の城内での不穏な空気に気付かれておいでですか」
「Ah? 俺へのやっかみやらあの人への中傷なんかしょっちゅうじゃねぇか。その事については捨て置くとお前にも言ったはずだが」
「事情を知らぬ連中の戯言と混同されない方がよいかと。政も安定してきた故の愚策でありましょうが――政宗に身内を娶らせようとする輩がちらほらと表立って行動し始めた様子で」
妻子のない政宗であるが、若くて器量良し、更には天下をも獲った今を時めく権力者だ。日ノ本の戦乱が終わりこれ幸いにと様々な家柄の者達が群がるのも予想できていた。
とはいえ政宗自身にそんな気はない。のらりくらりとかわしているが、以前小十郎を誤解したようにあからさまな態度に出られると苛立ちを隠そうともしなかった。
それほどに元就が大事なのだと小十郎達には理解できていたが、政宗と元就の関係を公にすることはできず、事情を知らない者が後から後から伊達家の権勢を抱き込もうと躍起になっていた。
政宗が嫌がっているのは周知の事実であったからさほど表面化していなかったが、天下人となってそれなりの時間が経過した先頃に城内で噂が流布されるほど表立っての行動が目立つようになったのだ。
とはいえ政宗に跡継ぎがいないのは問題だ。
政宗と元就が一緒になって戯れているのを目撃するだけで、頬を赤らめる成実には少々込み入った話まではできずに悶々としていた小十郎ではあったが、いつまでも引き伸ばしにしておくわけにはいかないと腹を括って政宗自身へと告げる事にした。
繊細ながらも気性の荒い政宗はきっと怒るだろう。
特に政宗との関係を邪推して、自分の出世に影響が出るからと元就を傷付けでもしたのならば一族徒党全てを処刑しろと言いかねない。
流石に落ち着きが出てきているから無茶はしないだろうが、問題が発生してからでは遅い。
恐る恐る報告を述べた小十郎をしばらく静かに見つめていた政宗は、ふっと目を細めて少しだけ顔を俯かせる。
「跡目のない小僧の政権など砂上の楼閣、ってところか」
自嘲を滲ませた声に、小十郎の眉間が深まった。
至福の日々を謳歌して主君は浮付いていると感じていたものの、やはり彼は慧眼鋭き独眼竜である。きな臭い噂には薄々気付いていた様子で、驚く素振りも見せずに淡々としていた。
多分、その言葉も城内の何処かで耳にしたことがあるのだろう。
自分への嘲りを知っているのならば、もっと酷い言われ様の元就への陰口なども当の昔に耳にしているのかもしれない。
しかし、予想に反して政宗は落ち着いていた。
本人自身もこれほど落ち着いていられることが不思議だった。
「……あのな、小十郎」
改めて名を呼ばれて見ると、政宗の視線は漆箱に注がれていた。あの、例の赤い羽織物が畳まれているものだ。
「戦は無くなっても人はいつか死ぬものだ」
「!」
「でも俺は“約束”した。あの人より早く死なないと――俺自身の身体が何処へ行こうが、誰と何をしていようが、政宗の心はあの人の空で寄り添っている。安芸を出たあの日、既に決めていた事だ」
零れ落ちた微笑はあの頃よりずっと大人びていたが、宿る決意の色は変わらないまま清廉としていた。
「俺にとっての元就は比翼の鳥じゃない。俺達はそれぞれの翼で天を飛んでいたんだからな。でも、あの人が一番大事な掛け替えのない人であるのには変わりない」
だから、と政宗は困ったようにはにかんだ。
「俺は最後まで元就の傍にいる。俺が、そうしたいんだ」
照れ臭げにしながらも、はっきり言い切る。
政宗にこうも断言されてしまえば小十郎だってもう言葉を失う他ない。
いずれ元就がいなくなったのなら――政宗は平静でいられないだろうに。そんな想像をすることすら、本当は怖くて仕方ないはずなのに。
彼の覚悟を半身たる小十郎が跳ね除けられるわけがない。
「ではこの件についてはどうにかしておきましょう。政宗様の御覚悟がどれほどのものなのか、既に承知済みですし」
「珍しくお小言なしか。さっさと妻子を作った方がお前としては肩の荷が降りるんじゃねぇか?」
「馬鹿を仰らないで下され。延元殿に託したあの文を、政宗様がどのような心中で書かれたか分からぬ小十郎ではありませぬぞ」
軽口を叩いた政宗に、至極真面目な顔をした。
政宗は苦笑して何も言わなかった。
次の日、再び政宗は元就を訪ねた。
少々暗い気持ちのまま就寝した元就は勿論まだ反物をどれにするのか決めていなかったのだが、朝から明るい声音で挨拶をくれた政宗の相貌を目にすると憂鬱な気持ちもすぐに薄れる。
正直に反物をまだ決めていないと口にすると、政宗はほんの少し落胆した様子であったが、やっぱりどこか楽しげにしていた。
「昨日から何なのだ」
「気になるか?」
「……」
「拗ねないでくれよ、My darling. そういうアンタもこの間から少し具合が悪そうで心配なんだけど?」
意外と分かり易い元就の反応に顔を緩めながら、政宗は正面から切り出すことにした。
元就が自分の動向を気にしてくれているのは嬉しいのだが、それはこちらとて同じだというのに彼はいつ気付いてくれるのか。
政宗は胸の奥でこっそり嘆息を吐き出して、相手の出方を窺った。
「……我が、知らぬわけなかろう。我にはこれ以上の幸いをそなたに与える術がないのは事実だ」
「これ以上なんてないぜ」
ぽつりぽつりと零れた元就の願いを政宗は柔らかく否定した。
「俺とアンタの間柄に名前を付けようとは思わないし、思えない。強いて言うのなら恋人で、浅く言えば家族。世界で一番愛している者の傍にいられる俺のどこが不幸なんだ」
元就に大切にされている。それだけで政宗は嬉しかった。
彼がその人生全てを捧げて守ってきたものと同列か、もしかすると違う部分でそれ以上に愛されている。政宗にとっての重要な事実はそれだけだ。
「だが、我はそなたに何も」
「沢山もらったぜ。だからこれからは俺からお返しさせてくれよ。なあ元就、アンタは今幸せか?」
頑なな愛しい人の米神に口付けを落として、政宗は問い掛ける。
何度も元就の方から問い掛けられてきた答えを、今度は元就自身へ求めた。
それは分かりきっている答えだと言うのに。
「っずるいぞ政宗! いつもいつも肝心な時に――」
白い肌を赤らめた元就を両腕で逃がさないように抱き込んだ。
はっと息を呑んだ細い身体の心音に耳を澄ませて、政宗はこれ以上のない幸せな時間を今まさに感じ入る。
「俺って愛されているな」
「ば、馬鹿者が! それより貴様、我の質問に答えぬか!」
「Sorry, Sorry, つい舞い上がっちまったぜ」
いつもの軽薄な笑い方をされて怒声を上げる元就。
対照的に語尾が楽しげに揺れる政宗。
近くを通った家の者が、やはりお二人は一緒にいられるのがお似合いだと廊下で含み笑いを漏らしていたのだが当人は知る由もない。
「元就の言う家族っていうのがどういうものなのか、残念だが俺にはあまり理解できないと思う」
腕の中で少し大人しくなった元就の目を真っ直ぐ見下ろしながら、話は切り出された。
遠い記憶を思い出している隻眼は仄かに陰った。
しかしそれもすぐに瞼の奥へと消え去る。
残ったのはただただ意志を募らせた、天下を制する竜の眼差し。
「でもそれを得ることでもっと幸せになれるんだとしたら、俺はやっぱりアンタと共にありたい」
「だが政宗、我は」
「今の状態がアンタの中でそうじゃないんなら、アンタの定義に則ってこれから家族になればいいだろう」
言い募ろうとする元就の唇に指先を押し付けて、己の焦る気持ちを抑えながら一気に捲し立てた。
「俺と一緒に、奥州へ来てくれないか?」
瞬きを忘れたまま見開かれた双眸に微笑みかけて、政宗は抱き締めた掌に力を込めた。震えそうになる心ごと、決意の御旗を握り込む。
「アンタとの事を話さなくちゃいけない奴がいる。家族に認められれば、それはアンタの中で家族ってことになるだろ?」
「政宗、そなた……大丈夫なのか?」
驚きや疑問よりも先に心配をしてくる元就が誰よりも愛しい。
政宗は大きく頷くと、伸ばされた指先をしっかりと握り返した。
「会えないまま後悔するよりはずっといい。元就が教えてくれたことだ」
やがて――北から一つの手紙が届く。
それは奥州を纏めている延元から政宗へ個人的に宛てられた一報で。
短い二人の旅路がここから始まる。
新しい決意と共につくられた羽織物の色を知るのはこの物語の続きを知る者だけ。
- END -
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本編が擦れ違い系なのでもうこの辺りだと新婚さん過ぎる感じも。十周年リクエストありがとうございました。お待たせいたしました。
こちらのお話は、2012/5/4発行の「鳥籠」再編集版にも収録してます。
本編+他の番外編は5/1から公開一時休止しますが、こちらはリクエスト作品なので発行後も公開しておきます。
(2012/04/18)
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