はたしてそれは陽の朱か血の紅か
伊達の仮屋敷は引っ切り無しに人が出入りする。
何せ、既に日の本の半分を掌握し、最大の難関であろうと言われていた織田を見事に打ち負かしたのだ。そうして華々しく都入りした伊達の殿様に、今のうちに取り入っておこうと商人達がこぞってやって来る。
奥州は田舎だが、政宗は京の雅なものが決して嫌いではない。
そのため無下に追いやられることもなく、時には屋敷に人の列が出来ていたりもする。
何とも言えない光景に片倉小十郎は頭が痛くなったが、その辺りは鬼庭延元の管轄であるため、特に口を挟むことはしなかった。
――しばらく滞在するとはいえ、再び戦地に赴かなくてはならないため、流石に持ち運びの出来ない物は買わせなかったが。
そうして今日も興味津々で商品を眺めて回った政宗は、本日手に入れた細工物を上機嫌で部屋へと持ち帰ってきた。
「ほお。悪趣味な物ばかりを好んでいると思いきや、見る目はあるようだな」
「悪趣味は余計だって。アンタが質素なだけだろう」
元就と同じ時間を過ごすことは、それなりに居心地が良かった。
会話の切れ端に見え隠れする元就の清廉な精神に、政宗は惚れた贔屓目もあるが、とても気に入っていた。
もしかすると政敵になっていた相手だが、今この場所では関係が無い。
ここにいるのは政宗と元就。奥州の王でもなく、中国の守護者でもないのだから。
嫌みったらしく言ってきた相手に苦笑いを返し、政宗は胡坐をかいて元就の隣に座り込んだ。
元就は都の華美が好まないようだが、政宗が一々持ってくる珍しい物に興味関心は尽きない。今も珍しげに、手元に握られている細工物を眺めている。
「綺麗だな。……隆元が見たら喜ぶだろうに」
小さく独り言のように呟かれた言葉に、政宗は内心どきりとした。
その名は聞いた覚えがある。
長曾我部が毛利軍を扱うために、人質として扱われていると言われている毛利の嫡子の名だ。つまりは、元就の息子。
拘束されてどんな扱いをされているかは分からないが、生きてはいるらしい。
元就がいない以上、毛利の者達にとっての主君は長男の隆元だ。彼すらも死んでいたのなら、きっと毛利は背水の陣をとってでも長曾我部に逆襲していただろう。もしくは、家中は乱れに乱れたに決まっている。
戦の流れを読み、長曾我部に降るという冷静な判断は間違ってはいない。人質だとしても永らえる事が出来るのだ。屈したとしても、毛利の血筋は消えていない。
父親の威光の影に隠れている次期当主は、元就に似ずにお人好しだと聞く。けれどもその戦の経過を見る限り、政宗には確かに彼にも元就の血を流れているのだと感じた。
そして彼らがどんなに虐げられようとも、元就を慕っているという証がそこにあるような気がして。
彼を待っている場所が確かにあるのだと、政宗は考えるたびにその事実に気が付いてしまう。
――元就は、知っているだろうか。
自分の口から知らせる勇気が、まだ政宗には無かった。
いつかは彼を返さなくてはいけないのだろうけれど。いつかは彼を、迎えにくる人がいるのだろうけれども。
政宗はその一歩が踏み出せないまま足踏みしている。
「独眼竜?」
急に黙り込んでしまった政宗を、元就は不思議そうに覗き込んできた。
右目が晒されているその顔に手を伸ばし、歪な痕が残っている皮膚に触れる。
驚いた政宗は思わず目を見開いた。
「熱は膿んでいないな。外気に晒していると痛いか?」
元就は安堵のような溜息を吐き出し、それから手を外した。
異形な右顔を、何てことの無いように触られた。政宗はその事実にただ唖然とするばかりで、咄嗟に返事を返すことさえ思い浮かばなかった。
元就の前で晒すことには慣れたとはいえ、やはり素肌ごしに触られるにはまだ抵抗感があった。
右目の辺りが、長いこと接触を断っていたせいもあるだろうが、それ以上に奥州に降る新雪の様な指先が、この爛れた病の痕に触れることで穢れやしないかという不安がそうさせた。
だが同時に、冷たい中に仄かに宿っている体温が元就のものだと思うことで、奇妙なほど安堵感を覚えたのも確かだった。
元就の問い掛けにどうにか顔を横に振ると、彼は表情を変えた様子もなく再び手元の細工物を見下ろした。
その動作を政宗は片目で追う。
長くなった前髪が元就の顔を隠したが、呟かれた言葉は二人きりの部屋ではよく聞こえた。
「なら良い。ここにはそなたを心配する者が沢山おる故、我慢するでないぞ」
元就らしからぬ発言に政宗は一瞬瞠目したが、自分を心配しているのだと理解し、ゆるゆると唇の端がつり上がる事を自覚した。
こんな優しい気持ちを、今までの自分はどうして知らずにいたのだろうか。
元就が出て行くと言い、政宗がみっともない告白で――政宗自身だけがそう感じている――それを阻んでから既に幾日が経ったろう。
相変わらず二人は同じ生活を続けたまま、戦場の臭いを思い出せなくなるほど柔らかい木漏れ日の中で日々を送っている。
爪を薙ぐたびに降り注ぐ、返り血の温度も。命令を下すたびに聞こえてくる、無数の断末魔も。事切れた、命の無い土気色の死体の山も。まるで幻だったかのように、毎日が穏やか過ぎるほど静かに過ぎて行く。
殺伐とした戦が恋しいことも確かにあったが、あの日恋慕を自覚した政宗にとっては、この小さな楽園が続いて行けば良いのに、と考える気持ちが消えずにいる。
華やかなる都は桃源郷の如く、人の心を惑わすというが、確かに自分は変わった。
戦とは違う高揚感。仲間と過ごす時とは違う優しい感情。
――こんな気持ちは、知らなかった。
この温かみがいつまでも続けばいいと、柄にもなく政宗は誰かに祈りたくなった。
だから最初にそれを見かけた時、彼が常に浮かべている表情の乏しい横顔ではなく、朝陽の中で見せてくれた小さな笑顔が思い浮かんだのだろうか。
何度目かの商人達の訪れで品定めをしていた政宗は、北国の紅葉を思わせる赤い反物を見つけた。
瞳を奪われるような鮮やかな色彩に、金糸で縁取りされた刺繍。
決して派手すぎるわけでもなく、錦の織物にしては質素な部類にはいるだろうそれを、政宗はしばらく凝視していた。
視線に気付いた商人は他の華美な錦を勧めてきたのだが、政宗は軽く手を振ってそれを拒んだ。
隅にあったその織物を買うよう指示し、政宗は立ち上がる。
「主人、これを羽織に仕立てられるか」
突然の事に驚きながらも商人が首を縦にしたことを見届け、政宗は満足気に頷いた。
出来上がりを持って来た時に仕立ての分を払うよう、帳簿を付けていた部下に言い付け、政宗は屋敷の奥へと戻った。
小十郎が聞いたら、きっと呆れた顔をするだろうとは分かっているけれども。
元就にあの赤が似合うはずだと想像してしまい、買わずにはいられなかった。
「Well, 気に入ってくれるかねぇ」
物にあまり執着を持たないだろう元就が、それでも少しだけでも喜んでくれるのならば。
――少しでも、自分が元就といたという証が残ってくれるのならば。
自分は随分と救われるのだろうと、無意識の内に感じている自分に政宗は苦笑を浮かべた。
+ + + + + +
「我にか?」
「Yes. アンタへのPresentだぜ」
しばらくして屋敷に献上された漆塗りの黒い箱。朱色で模様が描かれたそれを、政宗は元就へと手渡した。
眉を寄せて不審そうな元就は、 政宗の顔と箱を交互に見やる。
贈り物をされる謂れがないのだから、不思議に思っているのだろう。そんな元就に軽く笑い、政宗はとにかく開けてみろと顎を癪った。
現れた羽織は、見事な物であった。
京の匠が丹精を込めたという話は、確かなようだ。
きっと政宗が着るのだと思ったのだろう、採寸が少し大きいような気もする。身体付きはともかく、背丈はそれほど差があるわけではないので問題はなかった。
「貴様、馬鹿か? このような物を贈られたとて、我には何も返せぬぞ」
「俺が贈りたいから贈っただけだ! 別に恩着せがましくやるわけじゃねぇよ」
元就は顔を顰めたまま、箱から出した羽織を両手で広げる。
見返りを求めての贈与だと勘違いされた政宗は、吐き捨てるように言ってそっぽを向いた。
やはりそうとしか受け取られないのだと、軽い落胆を覚える。
「……貰っても、良いのか」
後ろ向きな考えに落ち込みそうになった政宗は、低く響いた声にはっと顔を上げた。
困惑気味の伏し目がちな琥珀と、隻眼がぶつかった。
戸惑いに揺れる瞳に、政宗は理解する。
それはかつて自分が母親から拒絶された時、父が連れてきた小姓の少年に差し出された手を見つめた時と、同じ目だ。
彼も自分を嫌わずにいてくれるのだろうかと不安になり、その手を取って良いものか逡巡し、結局は自分の弱さに負けて逃げ出してしまった。
幼い頃の政宗は人見知りだったせいもあり、彼と手を繋ぐことが出来たのはそれから少し後だった。
その小姓の少年――小十郎は、今では一番信頼できる相手になったのだが。
元就はあの頃の政宗のように、受け取っても良い物か判断が付いていないのだ。きっと赤の他人から無償で何かを貰う事など、彼は殆ど経験していない。得る時にはいつも何か必要で、大切なものを失くさなければ手に入れることができなかったのだろう。
そんな元就の不安を払いたくて、政宗は大きく頷く。
尻込みしていた子供の自分を引っ張って、外の広さを教えてくれた小十郎のようになれることを願いながら。
「アンタに受け取って欲しいんだ」
真っ直ぐに元就を見つめ返せば、歪んでいた顔から緊張がなくなった。
彼はそのまま立ち上がり、着ている物の上から錦を羽織ってみせた。鮮やかな赤が、白い肌に良く映える。
やはり見立て通りだと、感嘆めいた溜息を吐いた政宗は、それ以上に羽織を身に付けてくれた元就への愛しさを感じる。
「見事な赤だな。大事にしよう」
そうして微かに笑みを浮かべてくれた元就を抱き締めたくて、政宗は腕を伸ばそうとした。
だが掌の先にある光景に、彼の表情が凍った。
穏やかな温い風が吹きぬけていく、静かな午後。まるで争いなどないような時間の中にいるというのに。
――元就が血塗れで立っているように見えたのは、何故なのか。
「っ……すまねぇ……」
荒く息を吐きながら、政宗は自分が無理やり剥がした羽織を見つめる。
綺麗な錦の織物。
その赤は、血の色ではないはずなのに。
「いや……ではこうしよう」
元就は突然のその行為に微かに瞠目していたが、何も問うことはなく穏やかな表情で漆の箱を手に取った。
羽織を丁寧に折り畳み、その中へと静かにしまい込む。
その恭しく優しい手付きに、政宗は胸を突かれたような気分になった。
蓋が閉まった箱を抱く腕ごと元就を抱き締め、政宗は縋りつくようにその肩口に額を押し付ける。
元就は黙って、彼の髪を撫でていた。
こんな気持ちは、知らなかった。知らずにいれば苦しくなかったろうか。
本当に失うという事が、どれだけ恐ろしいか。知らずにいた方が、愛しい人と共にいられる幸福を、素直に酔いしれられたというのに。
- END -
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弐〜参の幕間。参章の1話で話題に出ているエピソードです。
錦の羽織りは結構重要な扱いなので、幕間の話も長めになりました…。
少しずつやってくる別れの兆しが見え隠れ。
(2007/02/24)
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