Alive



 疲弊しきった兵士達の横顔を、軍の総大将はただ冷たく眺めていた。
 国の中央を陣取る大国を相手に――神をも恐れず、自らを魔王と称するような悪鬼との戦いから、彼らはようやく一時的な休息を取れることとなった。
 いかに守りの堅い中国の大毛利とて、相手は強大であった。数知れぬほどの犠牲を払い、薄汚い謀略と自らさえも省みない戦略を惜しみなく使い、大将の元就は戦に負けを許さなかった。
 ――負ければ、全てが灰塵と化す。
 何もかもを打ち捨ててまで守り続けている故郷を奪われることは許しがたく、勝機は見えずとも屈服だけはできないのだ。
 織田は完膚なきまでに、奪ったその地を己の色に染める。元就が守ろうとする家もまた平気で絶やすだろうことは、家中の誰にでも予想ができた。
 だからこそ元就は、全力を持って相手をした。
 自分が傷付こうとも、兵士に凍てついた命を下しそうとも、怨み辛みの言葉を吐かれようとも、鋭い眼光は微塵も揺らがなかった。
 桂元澄はそんな元就の細い背中を黙って眺めながら、馬首を静かに進めていた。
 元就は泣き言など全く口にはしない。
 嘆いたところで、弱音を吐いたところで、彼は報いがあるのだと信じていないのだ。
 あれほど敬い奉っている輝きの星にさえも、後悔の言葉を告げたり、救いを求めさえしない。
 痛々しいまでに佇む彼は、そうして必要としない物を次々と切り捨てていって、最後には世間に凍れる智将と恐れ慄かれた。
 疎まれる名を囁かれても、彼にとっては体の良い鎧の一つにしかなりはしなかった。噂で自分がそう言われている事を知っても、元就は薄く哂っただけだ。
 いつから、と元澄は悔恨のように己の内へと語りかける。
 彼はいつからこうなってしまったのか。どうして自分は、止められなかったのか。
 考えても考えても、元就の中の変化の方が――あるいは、崩壊が――早すぎて自分は食い止めるには遅すぎたのだとそればかり思う。

「元澄」

 囁くような低い声音に呼ばれ、元澄は不穏な思考を振り切って顔を上げた。
 彼の顔を覆うかのような兜の隙間から、つり上がった琥珀の瞳がこちらを向いている。
 太陽に縋りながら、泥塗れになっても平気で進もうとするその目は、時折暗闇の中で光を見失った子供のように見える。
 彼は今宵のような夜闇にも、月の恩恵があるということを理解できているのだろうか。

「高松城が見えた。開門を促せ」
「御意」

 命令に逆らう言葉は端から出ない。元就に仕える者は、皆そうだ。
 元澄は手勢を数人連れ、馬を走らせた。
 追い抜いた主君へと視線を投げ、自分が抜けた位置に見知った将が寄ったことを視認する。元就の周りにも、馴染みの者が付いていることも見えた。
 それでも何故か心がざわめいた。離れるのは良くないと、元澄の中で嫌な胸騒ぎが轟く。
 ――どうして今宵は、瀬戸内の潮騒がこれほどまでに聞こえてくるのだろうか。



 入城して間もなく、城の周りには紫の七つ片喰紋が迫ってきていた。
 疲弊した兵を抱えながら正面衝突することは叶わず、元就は篭城するに指示を飛ばした。
 この城は、後方支援として物資を微かに蓄えてはある。だが織田との戦いでその数もあまり信用できない。
 元就は唇の端を噛み締めながら、天守から眼下の布陣を睨み付けていた。その後ろを元澄は付き従う。
 長曾我部とは別に同盟を組んでいるわけではない。
 ただ以前戦った厳島について、不可侵条約を結んだだけ。それきり、長曾我部の主である元親とは会っていない。
 攻めてくる気配もなく、また元親自身正々堂々と闘うことを好んでいたため、長い間四国とは貿易のみの付き合いだった。
 だからこの襲撃は、全くもって計算外だ。悪い予感はこの事だったのか。
 元澄はこんな時に策の一つも浮かばない自分の無力さを嘆き、心の中で自身を責め立てる。

「将を集めろ。軍議を開く」

 それでも。
 元就の言葉に、頷くことしか出来なかった。


「貴方が行く必要はありませぬ!」

 何度目の軍議か分からない。けれど、誰ともなくこれが最後なのだと感じていた。
 疲弊していた毛利軍と、倍以上数のいる長曾我部軍。誰もが見えていた戦運びに、末端の兵士は次々に投降していった。
 それでも元就は城を明け渡すことをせず、本国から来るだろう援軍を待ち続けた。
 しかし、それも限界だ。
 元就自ら陣頭に立ち戦いを続けていたが、これ以上耐えられる保障は皆無だ。
 声を荒げた志道広良の切実な視線を眺めながら、元澄は元就の返答を待った。
 元就はこの城の主ではない。毛利の、ひいては中国全土の長だ。たとえこの城を奪われたとしても、彼が生きていることの方がよほど重要である。
 敗戦色が濃くなり撤退の意向を尋ねたものの、元就は頑なに戦を止めようとはしなかった。
 だからこそ、ついに広良は叫んだのだ。
 反抗の意思ではない。主君を守りたいがための、諌言だった。
 眉を顰めた元就を見れば、意に介さないような不機嫌な顔のようにも思える。

 けれど彼は。
 彼は、本当は――。

「我は、毛利の駒だ」

 冷たい声が、静寂を生んだ。
 すると雨音が一層耳障りに聞こえ、外から響く兵士達の衝突の音がにわかに騒がしく感じる。
 外で戦っているのは、元就の子供達だ。
 その事実が一層、先程発言された元就の言葉を重くさせた。

「動かぬ駒なぞ不要なだけだ。囲まれたのなら、我が道を作るまで。――もう一度言うぞ。前線に、立つ」

 揺ぎ無い声に、広良はがくりと肩を落として俯いた。
 元澄はふらついた彼の背を支えてやり、突き刺すような視線をこちらに向けているだろう元就を仰ぎ見た。
 そこに確かにある覚悟を覗き、この方を止めることは無理なのだろうと気が付いてしまう。

「……降服はせずとも、和平を結ぶことは出来ぬのですか」
「自らが優勢である状況で、そのような甘い事を選ぶ鬼ではあるまい。奴の狙いは、我が首だろう」

 最後の暇乞いのように広良の縋った声は、冷笑と共に一蹴された。
 さっさと手筈を整えろと、元就は踵を返したけれども。
 その後姿は、まるで先程の自分と同じように。無力感に、打ち震えているように見えた。

 ――本当は、元就様は。




 + + + + + +




 結局、高松城城下は乱戦に揉まれる事となった。
 元就の側で戦っていたはずの元澄は、いつの間にか彼と逸れた。敵を切り倒しながら、ただひたすら元就の安否だけを祈っていた。
 しかし、数の多さには敵わない。
 後方に下げたはずの隆元達の軍にも、敵兵の手が伸びている。疲弊し続けている毛利には、もはや生き残る術がない。
 ――我が国が、踏みにじられてゆく。
 元澄は泥塗れに倒れている死体の山を眺め、燃えていく街並みを遠くから見て、叩きつけるような冷たい雨を仰ぐ。
 元就の背中が浮かび上がり、霞むように消えていく。その喪失感に背筋が震えた。
 脳裏に過ぎった最悪の事態を幾度も振り払いながら、彼は進んだ。

「元就様! 元就様、何処におられるのですか!」

 喉が枯れて血の味が口内に広がる。それでも元澄は、彼の名を叫び続けた。
 彼の存在は、家中の希望そのもの。
 幼い頃より味方が全くと言っていいほどいなかった元就は、それでも断絶寸前に追い込まれた毛利を守るため戦い続け、中国の大大名家にまで成長させた。
 失ったものはとても多くて、元就の中で何かが欠けていくたびに元澄は哀しくなっていた。
 そんな同情すら跳ね除けて、孤高の鷲として元就は高くから毛利を守り続けていた。
 あの力強き翼に、どんなに憧れただろう。
 元就に命を助けられた時からずっと、元澄は風になりたかった。
 少しでも空に近付けるよう。温かな太陽の傍で飛べるよう。元就を、支えていきたかった。
 己の考えが既に過去形になっていることに僅かに苦笑し、元澄は見慣れた切り口で倒されている敵兵を見つけて一層足を速める。
 無力な自分に出来る事は、もうこれしかないのだと苦い決断へと踏み出すように。


 辺りの敵を振り払った元就は、広良が連れてきた馬に凭れかかるようにして立っていた。
 足元がふらついている。息も荒い。采配はすでに手放され、輪刀は何処かへ弾かれたまま行方知れずだ。
 兵糧を他へと回すべく、この篭城の期間中元就は大して食べていない。そのうえ連戦を重ね、神経も相当参っているはずだ。
 だが膝を付くこともなく、彼は気力だけで戦い続けている。
 負けは許されないからこそ。兵を捨て駒にすると言われている彼が、そうしてまでも頑なに守り続けているものがあるからこそ。
 広良はどうすれば良いのか分からなかった。
 このままでは良くないと分かっていながらも、元就の意志の固さと清廉な精神を抑え付けながら停戦に持っていくことが、本当に毛利のためになるか判断が付かなかった。
 ただ一つだけ確かに願うことは。
 この目の前の主が崩れ落ちないようにと、それだけだった。 

「元就様っ!」

 焦れた逡巡をしていた広良は、駆け寄ってきた元澄の声を聞き、弾かれたように振り向く。
 必死の形相で駆けてきた彼の眼には、何かの決意が映されている。
 それが何なのか気付くより先に、広良は本能的に元就の手を引いた。他人に触れられることを嫌う元就が、微かに瞠目した様子が視界の端に映る。
 申し訳ありませんと心の中で呟いた時には、冷たい刃が食い込む感覚がした。
 庇うように立ち位置を入れ替えた広良は、自分の背中から広がった猛烈な痛みに歯を食い縛る。敵の投げたのだろう槍が、肩と脇の近くに刺さっていた。

「元澄殿、殿を、頼む!」

 馬の手綱を元澄に投げ渡し、元就をそちらへ押しやり、広良は自分の刀を抜刀するなり向かい来る敵の波へと一人飛び込んだ。
 あっという間の出来事に反応することも出来ず、元就は押されるがままに元澄へと倒れこんだ。

「お逃げ下さい、元就様」
「な、にを、勝手な……」

 掠れた声が非難する。掴まれた腕に爪を立てられ、皮膚が痛んだ。しかしそんな痛みなど、元就を失うという可能性の前では些細なことだ。
 元澄の真剣な眼差しに呑まれ、元就は続く言葉を失った。
 彼の負担を出来るだけ軽くするため、傷付いた兜を外して軽すぎる身体を抱き上げる。抵抗を示す元就に困ったように笑いかけ、元澄は自分ごと馬に無理やり乗せた。

「放せ! 我の命に逆らう気か!」

 傷だらけの籠手で元澄は頬を殴られたが、苦笑を返すだけで元就を抱えたまま馬を走らせた。
 本当は、笑える余裕など無い。元就の拳の力の無さに、背筋がぞっとしていた。
 気丈な方だと知っている。けれど身体は嘘をつかない。彼はもう、武器も握れないほど疲弊しきっている。
 雨で体温の下がった青白い顔を見下ろしながら、元澄は元就に回した方の腕に力を込めた。
 嫌がられても、貶されても構わない。自分は彼を連れて行かねばならないのだから。
 元就を生かすために。

 兵士達の隙間を縫いながら馬が疾走する。
 大人を二人も乗せて、失速せずに走る馬に無言で感謝の念を送りながら、元澄は陣の端まで辿り着いた。
 端といっても、ここも前線となんら変わらない状況だ。嫡子の隆元が必死の応戦をしているが。じりじりと追い詰められていた。
 隆元の周りには他の将達も揃っている。元就は前線へ赴く自身よりも、後方へと移った彼らに付けと命令していた。
 役立たずだからだとか、策に不要だと言いながら。
 けれどその本心は、どうだったのだろう。
 彼らを巻き込みたくなかったのか。撤退するのに好都合な場所にいさせたかったのか。家の未来を守るため、家族を死なせないため、守って欲しいと思っていたのか。

「元澄、いい加減降ろせ」
「それはできませぬ」

 凍えた声が威圧的に響く。それでも元澄は譲らない。
 馬を走らせたまま、彼は隆元の側へと向かった。そこには防衛線を守っている元春の姿も見える。

「元就様はこのまま京の方へと落ち延びて下さい」
「何だと? 貴様は我がこの戦で敗れるとそう思っておるのか」

 微かな畏怖を浮かばせる鋭い双眸に晒されながら、元澄はそれでも笑みを絶やさなかった。
 主の策で死ぬのも、主の生命の糸を伸ばすのも、結局は元澄にとって同じことだった。
 彼のため――彼が望むもののため。
 怖くても逃げ出さなかったのは、元就の心は決して本質から薄汚れているわけではないと知っているから。

「いいえ、貴方は負けません。貴方が生き続ける限り、毛利は死にません」

 戦場に不釣合いなほど、元澄は優しい笑みを浮かべてそう答えた。
 穏やか過ぎる笑顔に、元就は呆気に取られる。まるで、彼の言葉が理解できていないかのように。
 それに気付いていながらも元澄は表情を変えない。馬の速度は落ちていないはずなのに、二人の間の時だけが奇妙なほどゆっくりと進んでいく。

「たとえ今は地に落ちようとも、どれだけ穢されようとも……貴方が守ってきた高潔な魂を、我々は決して失くしませぬ」

 眦を細めて、元澄はそっと元就の身体から手を放した。
 だが、元就は彼の顔を凝視したまま動けなかった。固まったままの手に、しっかりと手綱が巻かれた。
 放さぬように。――離れぬように。

「ですから待っております。いつの日か、貴方の愛したこの地に帰って来ることを。どれだけ焦土と化しても、必ず花が咲く日を待ち続けます」

 元澄は両手で元就の手を握った。手綱を握らされ、名残惜しげに力強く包まれた。
 だから、と一拍間を空けてから、元澄は最後の――今生の別れだと決意して、言葉を紡いだ。

「生きて下さい、元就様」

 ――貴方が生きることが、私の生きることだから。
 元澄は手綱で馬を叩き加速させると、そのまま鞍から飛び降りた。
 転げ落ちるように泥に足を立たせて振り返ると、琥珀の眼と目が合った。信じられないという風に見開かれたそれに、元澄は笑いかける。
 会話が何処まで聞こえていたのか分からないが、空気を察していたのだろう。走り去る元就に向かって、周りに残っていた毛利の兵達が勝鬨のように腕を天へと上げて声を上げる。
 皆、一様に笑っていた。
 さよならではなく、いってらっしゃい、と――そう伝えるかのように。

「身勝手な行動をお許し下され、隆元様」

 大将がいなくなったというのに士気の上がった毛利軍。彼らを率いる青年に、元澄はそう告げた。
 父親に似ずに温和な隆元は、柔らかく目を細めた。

「きっと私も父上と同じ配置になっていたら、同じことをしていた。ありがとう、元澄殿」

 少しだけ寂しそうに見えるのは、きっと父に守られてばかりいる自分の不甲斐無さを痛感しているのだろうと思った。
 元就の背中も、同じような気配を漂わせていたから。

「長曾我部殿は元就様の死が分かるまで、追撃を止めぬでしょう。辛いお役目を申し渡すことになりますが――」
「良い。これ以上国が穢されるのは不本意だ。……元春、敵陣までの道を作って欲しい」

 沈痛な面持ちのまま、隆元は元春に願った。弟は黙って頷き、号令をかける。
 そして逆隣に立っていた将に、父の影武者を連れてくるよう命じる。
 心優しく潔癖な面のある隆元にとっては、謀略を張り巡らせることは苦痛だった。必要のためとはいえ、仲間である者の首を落とすことなぞ以ての外だ。
 けれど、最愛の父を守るため。彼の、そして自分の愛した家と国、そして仲間と民を守るため。
 隆元は確たる意志を抱いて、彼なりの戦いを始めようとしていた。
 元澄は黙って隆元を見守っていたが、不意に空を見上げた。淀んだ雲は重苦しく、冷たい雨音はいつまで経っても消えやしない。
 それでも、雲の向こう側が開ける日が来ることを自分達は知っている。そこに飛ぶ者がいるということも。

「どうか、御無事で……」

 喧騒の中、元澄は天にあるだろう太陽を。夜を照らす月を思う。
 その光が、彼の導きになりますようにと。
 ――本当はとても脆くて。臆病で。不器用な、あの方を。
 再び空へと羽ばたかせてくれるような、誰かに出会えることを願いながら。



 - END -





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桂元澄の話、みたいな感じですが――序章のさらに前哨戦です。
元澄は何だか自分の中で株高めです。元就に命を助けられているから一層、元就のために生きている人という感じが強いので、今回の話の主役に。
彼の視点なので、明確に誰が死んだとかも書きませんでした。
(2007/02/15)


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