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常闇の唄


 風が奏でる幻想即興。雲間から覗く夜の燈籠。
 ここは真っ暗、別の世界。
 言葉を交わすのは、異界の住人のみ。鳥は身を寄せ、獣は蹲る。
 ここは真っ暗、別の世界。

 夜の者は皆、宵の灯の下僕なのだ。


 + + + + +


 屋敷を出てからどのくらい時が経っただろう。
 ただの散歩だったはずが、いつの間にかこれほど遠くまできてしまった。
 目の前には、生温い風にそよぐ草原があった。真っ直ぐと地平線まで、その雄大な姿が横たわっていた。

 月明かりもない薄暗い大地に、背筋が冷えていく。
 帰ろう、と思った。

 だがその時、聞こえた。軽やかで甘い女の声が。


「――ここは真っ暗、別の世界」


 歌われたものは暗く淀める内容だった。それでも足は止まらない。
 ふらりふらりと、歌声の元へ近づいていく。

 柔らかな胸に、瑪瑙の竪琴を寄せる麗人がそこにいた。
 腰まで届くほどの長い白髪は、ぼんやりと蛍のように光を湛えている。
 彼女が腰を掛けている朽ちた樹木は闇に染まっていた。常ならば気にも留めないその老樹も、彼女を引き立てる高級な黒檀の椅子のようだった。

「坊、何処から来なすったのかえ」

 女性はぼんやりとした声で尋ねてきた。暗闇に半濁していた歌声は消え、そこには彼女と自分しかいない。
 顔中に熱が集まる感覚に慌てた。自分はずいぶんと彼女を見つめていたような気がする。
 無言でそれを指摘された気がして、反射的に俯いてしまった。

「はよう帰った方が良いぞ。我が唄ったであろ? 夜は、魔性が現れるぞ」

 乾いた風が背筋を震わせた。
 彼女の言うとおり、人の気が無いこの草原は、常日頃から眺めている光景とはまるで違う。別の次元がずれ込んでいるとでも表現すべきか。
 とにかく、この場所に長くいることはあまり心地が良くない。

 けれど。

 自分は美しい声音を聞いてしまった。彼女の恐ろしいほど整った顔立ちを間近で見てしまい、年老いた老婆のような口調が生み出す、何とも言えない調和をこの耳に入れてしまった。

「坊? 聞いておるのだろう。それとも迷ったのかえ?」

 軽く頭を振り、否定をする。では何故、と女性は問うた。
 自分の中に、彼女を納得させるような答えは持ち合わせていない。あるのは焦燥感とかすかな期待。
 もう一度彼女は問うた。

「貴女の唄が、聞きたい」

 しばしの沈黙が流れる。ぴくりとも表情を変えずに、彼女は再び竪琴を抱いた。
 ほろりほろりと、空気が揺れ始めた。先程と全く同じ音階に、満足感が胸に満ちていく。
 彼女の朗々とした歌声だけが、静寂の時を切り裂いている。


 一曲終えた彼女に、小さな拍手を送る。相変わらず陶磁の肌は最低限の動きしか見せない。
 ついっと視線を巡らせば、弦を弾いていた細いたおやかな指先が目に入る。裾から覗く白魚のような手は、精霊の如く染み一つ無い。爪の先までもが一つの芸術品のように、艶やかであり、また清楚でもあった。

「まだ、今なら間に合うぞよ。坊、元来た道へ戻れ」

 竪琴の玄を弄びながら、彼女が再び言った。姿勢を変えたのか、着擦れの音がする。
 なおも引き下がろうとしない自分に焦れたのか、彼女はすとんと老樹から降りて来た。羽のような身軽さで、高嶺の花だった女が自分の目の前に立っている。ますます体温は上がった。

 近づいてくる女の足に釘付けになりそうな自分を叱咤し、彼女の容姿をじっくりと眺めた。
 先程は暗がりであまり見ることができなかったが、やはり、美しかった。
 何の感慨も浮かばぬ、緋色の目が印象深い。笑顔がそこに溢れれば、喜ばしいことだろうにと思う。

 彼女は足を止めた。棒のようなすらりとした足が、草むらの上に生えている。背は自分と同じくらいだった。

「何故戻らぬ」

 瞼を薄く開け、切れ長くなった瞳に惹かれる。
 年甲斐も無く深呼吸しそうになった自分に、苦笑しそうになった。

「貴女は美しいな」
「ほう。我を口説くのかえ。変な男じゃのう」

 口元に裾を寄せ、彼女は喉を鳴らして笑い声を上げた。
 ようやく笑った顔が拝めるのかと思ったが、彼女の目は全く様子を変えていない。口元だけが弧を描いているのだろう。それも、遮られてしまった。
 肩を落としそうになる。けれど彼女は嬉しそうにしていたから、無様な格好はしなかった。

「良い男じゃ。なれば、やはりここから去った方が良いぞ」
「では貴女にも来て欲しい」

 離れてしまいそうな気配に、思わず手を掴んでしまった。まるで温度の無い冷たさに怯む。
 まさか彼女が魔物では、と疑問が浮かんだ。
 しかし、それならば何故自分を必死に帰そうとするのだろうか。

「駄目ならば、またここに来ても良いか」
「駄目ではない。駄目ではないが……ああ、早く!」

 動じることのなかった彼女が、初めて声を荒げた。自分の問いにも迷いを見せ、必死に帰れと言い繕う。彼女も自分を好いてくれているというのに、どうしたことだろう。
 何故、と問おうと口を開きかけたその時。

 草原が煌びやかな光に包まれた。
 彼女の白髪と同様に、ぼんやりとした光を帯びた草花は幻想的な風景を作り上げていた。

 一瞬、それに見惚れた。その刹那に彼女は泣き出しそうに、眉を寄せた。
 歪んだ顔もまた美しいなと思ったとき、彼女の輪郭がぼやけて見えた。

「月、が……逃げて……」

 その声を最後に、彼女の姿がゆっくりと崩れていく。握っていた手も急激な軽さとなり、紙が水に溶けていくかのように消えた。
 呆然と、美しくも儚い情景に釘付けとなった。

 突然、頭上に走る影。重い頭を慌てて起こし、振り向く。
 何故気が付かなかったのだろうか。この身に落ちる、月光の妖しさに。

 衝撃を耐えることが出来ず、地面へと体が投げ出された。黒い影が牙を向く。
 猛烈な痛みと熱に浮かされた瞳が最後に捉えたのは、満月を背景に立つ老樹の姿。巨大な丸い檻の中に囚われた、美しき木。
 手を伸ばす。重力に貼り付けられる。

 意識が、遠のく。


 + + + + +


 竪琴の音色が草原を渡る。祈りにも似た、悲しげな旋律。愛しげな音色。
 白髪の女は、最初と同じように枯れ木の上に座っていた。
 変化の乏しい暗闇を悔いるように見つめる。決して浮かぶことはなかった温かい雫が、緋の双眸から流れ落ちる。

「ああ、だから帰れと言うたのに。何とも惜しきことをした」

 肉を裂き、臓を引き摺る音がする。
 黒いけだもの達が、今の今までそこに立っていた者に喰らいついている。

 彼女は瞼を下ろした。体温の無い両手で、ぎゅっと耳を塞いだ。
 好いてくれた男の死した姿を、認めたくはなかった。

 再び、草原が幻の如く輝き出す。女は空を仰いだ。忌々しい、望月の顔が雲間から窺い知れた。
 憎らしや、と呟く女の身体はまたしても崩れ出す。
 地上を照らす優しき光は毒素のように、華奢な人型を汚染していくのだ。

「己、月め。我を捕らえるばかりか、闇の魔物を眷族とし……輝く毎にこの仕打ち」

 彼女は再び視線を落とした。
 満月の度に狂い彷徨う、影たる魔物の姿を見止めた。
 すぐ傍には、倒れた男の亡骸。最後まで、自分に向かって手を差し出した優しき青年。

「――我もまた、今宵でしまいのようだ。坊と同じところに、行けるかもな……」

 一粒の涙が風に乗り、そして消えた。女の気配も無くなる。
 月は完全に姿を見せていた。輝きの中に沈む目玉のような紋様が、老樹の背後で笑っている。
 それが合図となったのか、異形の者が動き出した。
 朽ちた老樹の根を、貪るように傷つけていく。女の悲鳴のような音が上がった。
 それから数分後、重い物が地に伏したような振動が響き渡った。

 草原には、もはや障害物は何も無い。ただ碧緑の海が、何処までも何処までも広がっているだけだった。
 静寂の闇の中を、月だけが見下している。

 囚われていた老樹と、彼女を求めた青年が、仲良く並んで息を引き取った。


 END

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