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さよならにも似た言葉


 少年は佇み、辺りを見渡す。
 一面の黄金。風に揺られ、陽光を照り返しながら海原のように稲穂がうねっている。茜色の斜陽が自分の輪郭を染め、長く伸びた影がその波の上に覆い被さっていた。
 自分が一体いつからそこにいたのか分からず、彼は困惑したように自分の眼下を眺める。
 身体の半分を隠すほど育った草が、延々と地平の向こうまで続いている。藍がかった空と繋がっているかのように。
 足の痺れも感じることなく、少年は光の射す方角へと振り返る。眩しい光が目を刺したが、彼は目を細めても閉じることはなかった。

 そこには黒い人影がぽつんと立っていた。

 自分しかいないと思っていた少年は、微かに驚愕した。紅の後光を背負った人影は少年の方を向いているようだったが、身動ぎ一つしない。
 あれは誰だろう、と少年は長らく動かしていなかった足を反転させようとした。
 だが、動かない。
 焦った彼はもう片方の足に力を入れる。それでも、まるで地面に貼りついたかのように、あるいは脳からの信号が届いていないかのように、両足は動こうとしなかった。
 稲穂に埋もれる足元を睨みつけ、少年は再び背後に立つ人影へと視線を転じる。

「ま……待って……」

 声変わりの最中である割れて掠れた声で言い募る。辛うじて動いた手を、無理な体勢になりながらも必死に伸ばす。
 人影はだんだんと遠のいていた。歩いているわけでも走っているわけでもないのに、立ち尽くしたその体勢のまま太陽の中へと吸い込まれているように見えた。
 赤い、赤い、焔の光の奥へと。
 焼き付いたような黒い影と爛々と輝く景色が目に痛い。それでも少年は縋るように指先を広げ、張り裂けるような声を上げ続けた。
 行ってしまえばもう取り戻しようがないのだと、感じたこともない喪失感が胸を駆け巡っていた。

「行かないでよ!」

 溢れ来る熱い衝動のまま叫ぶ。眼がだんだんと濡れてきたことを感じたが、それすらも構うことはできなかった。
 そうして外面にも気を取られずに求める少年に、ようやく人影は反応を示した。

「――傍にいるから、ね」

 酷く落ち着いた声音を紡ぐ、柔らかく微笑んだ表情。
 照りつける光の洪水の中で、少年は確かにそれを見た。


 + + + + +


 自分を覗き込んでいた人々の双眸が、嬉しそうに歪められた。涙が盛り上がった者や案したように息をついた者――。それぞれの顔を見上げてから、少年はぼんやりと白い天井を見上げた。
 頭上で会話する内容で、少年は自分が一命を取り止めたのだということを知った。落胆のような、安堵のような、不思議な気持ちが湧き上がる。

 瞼をゆっくりと閉じて思い出すのは、黄金に光る稲穂の草原。
 大事なあの人を追いかけられない、完結された世界。あれは天上にも近い場所であったのだろうか。

 寝ているベッドの横に添え付けられている小さなチェストを眺め、こちらが現実なのだと少年は打ちのめされる。
 小さな写真立ての中で、幼い少年と少女は笑っている。少女はもう、未来が広がるこの世にはどこにもいないのだけれども。

 追いかけないで。いつだって見守っているから。

 彼女の言葉は確かに脳裏に残って、少年の記憶に刻まれた。だからもう少年はきっと、あの綺麗な世界へと向かうことは許されない。
 心配そうに見ていた大人達に笑いかけ、少年は写真立てをそっと抱き締めた。手首に巻かれた包帯がよれて、薄い刃をたてた傷がぴりりと痛む。けれどあれほどまでに苦しかった心中は、あの草原に吹いていた風のように穏やかだった。

 いなくなる直前で彼女は笑った。もう忘れかけていた笑顔を、くれた。
 彼女にはもう会えないだろうけれど。
 最後に貰った別れにも似た言葉を抱えて、自分は歩いていかなければいけないのだ。
 空気に溶けた、少女の轍の先を。

 彼の頬は濡れていた。きつくきつく抱き締められた写真立てが、窮屈そうに音を立てる。
 悲痛な慟哭を、大人達はどう思っているのか分からない。今までと同じように、愛しい者のところへいけなかった悔しさなのか、大切な者を喪した哀悼なのか、それとも不条理な世に対する憎悪なのか。

 だが少年自身には分かる。
 これは、最後の暇乞いだ。
 少女を失って空っぽだった自分を哀れんでばかりだったから。今だけ――最後だけは、この涙を彼女へ捧げたかった。


 そうして少年は生きるために歩き出す。
 後ろで佇む少女にはもう、振り返ることなく。



- END -


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