手向けの死人花
紅い鳥居を越えれば、そこは別世界。
振り返ってみても、延々と続いていた石畳の階段はほの暗い闇に吸い込まれるようにして掻き消えていた。
帯留めの紐を揺らして歩けば、先についている鈴がからからと音を鳴らす。暗闇に反響するそれに肩がびくついたが、今更引き返すことは出来ない。
手に持つのは、鳥居にも負けないほどの鮮やかな赤い彼岸花。生温い夜風が木々を揺らすたびに、その細い花弁の先も大きく揺れた。
「御社様、御社様、どうぞお納め下さい」
ざわつく林を駆け抜けるように、早足で少女が進む。
真っ黒な視界の中で、彼女の持っている彼岸花と連なり立っている鳥居だけが色彩を保っている。
自らの身体を見下ろしてみるが、足元から下半身まですっかり闇に喰われていた。鈴の音色だけが、少女の存在を確かなものにしている。
「御社様」
御神木に巻かれている、白い札が彼女の目先に見えてきた。
最初にくぐった鳥居からここまで大した距離が無いはずなのだが、こうして一人で歩く夜道はまるで永久に続く迷宮のように感じた。
少女は息を切らせながら、彼岸花を茎を力強く握り直した。
早足が駆け足になり、石を敷き詰めた道の上をぺたりぺたりと素足が突き進む。足からは血が滲み、あちらこちらが泥に塗れていた。
けれど彼女は痛みも寒さも感じていなかった。ただ自分のやるべきことだけが、身体を動かしていた。
「御社様……」
まるでそれだけが支えのように、少女は求めうる名前を連呼し続けた。
救ってくれえるのは彼の人のみ。
だからこそ、少女は暗いこの別世界をひた走っている。
+ + + + +
両親が死んだのは、季節が夏に入ろうとしていた頃だった。
今年は天災と飢饉によって子供は沢山死んでいった。辛うじて彼女と歳の離れた弟は食い繋げたが、逆に両親が衰弱していった。
健やかに生きなさい、と言われるがままに彼女は弟を守りながら必死で生き抜いてきた。
何も無い田舎に比べれば少しでも希望があるのではと、遠い都まで流れてきた。
その間、彼女は何度も生死の境を見てきた。その度に、死神とも呼ばれる見えざる者達を目にした。
弟もまた、生きているのだか死んでいるのだか分からないときが時折あった。そして彼もまた、何もない空間に向かって手を伸ばすことがあった。
そうして気が付けば、二人は常に人ではない者達の姿を刻銘に視認できるようになっていた。
幼い子供らは人ならざる者達に見守られながら、都を放浪した。
煌びやかな貴人達を通りの角で見る度に、どうして自分達はこんなに惨めなのだろうという考えが過ぎった。
結局、都に来ても現状は何も変わらなかった。
逆に、長旅での疲労が出たのか弟が間もなく死んでしまった。
これならば集落を出ずにいた方が良かったのかもしれないと、少女は崩れ落ちた門の片隅で泣いた。
門の周りには異様な気配が漂っていて、都では鬼や妖魔が出ると評判だった。
けれど彼女にはもう見えざる者達しか傍にいない。弟の死骸を抱き締めながら、彼女は周りを右往左往する霊魂達をぼんやりと見つめた。
『泣くナァ』
『泣くナァ』
彼らは少女に同調しているのか、しきりと慰めの言葉を紡ぐ。念の篭ったそれらを聞いても、彼女の中には何の感情も呼び起こすことはなかった。
やがては雨が降り始める。糸のような水滴は、彼女の頬をゆっくりと濡らしていった。
少女は柱によりかかり、ふと視線を上げた。
門の内側は荒れ果てていて、雑草が伸び放題だった。そのくたびれた光景の中に咲く赤色が見えた。
鮮烈な印象を与える彼岸花。黄泉路を彩る曼珠沙華。
彼女は惹かれるままにその花の前に近寄った。毒を孕んでいる花だというのに、無彩色の世界の中では一層美しい。
『御社様の花ダァ』
『御社様なら助けてくださるゾォ』
手を伸ばした彼女は、真摯な顔付きで霊魂達に向き直る。
彼女には縋れる相手は見えざる者達しかいない。
少女は彼らに尋ねた。
御社様に救いを求めるには、どうすればいいのかと。
+ + + + +
彼女はこうしてこの道を走ることになった。
都の人間に必要ないと捨てられた寂しいこの神域。それが世間から見捨てられた自分達に似ているような気がして、彼女は乾いていた涙を再び流した。
「御社様ぁ……!」
朽ちた境内に飛び込み、少女は花を捧げた。一心不乱に祈るのは、世に生まれて二年も経たずに死んでいった哀れな弟のこと。貧しくとも優しかった父と母のこと。
「お願いします! お願いします! あたしは、どうなっても構わないから!」
懇願の声が、深い夜闇に響き渡る。
悲痛な言霊が林を駆け抜け、荒く吹き抜ける風の中に吸い込まれていった。
床に頭をこすり付けていた少女は、ふと何かの気配を感じた。常に側にいる死の香りではなく、れっきとした生身の存在を。
驚いて顔を上げれば、彼女の痩せ細った身体を見下ろしている男がいる。
ぼろを纏い、見目の良いものは昔父親に作ってもらった錆だらけの鈴だけという自分とは違い、染み一つ無い白い水干を着ている。艶やかな黒髪は彼の青白い肌を無造作に彩り、暗い湖のような瞳がじっとこちらを見つめていた。
貴人とすれ違った時の居た堪れなさを感じ、慌てて彼女は後退りする。
男はかがめていた腰を起し、少女に話しかけた。
「どうなっても構わないとな」
落ち着いた声が響く。威圧感に比べ、少しばかり幼く聞こえた。
少女はしばらく呆然と男を見上げていたが、その言葉に反応して勢いよく頷いた。
見た目は自分達と何も変わらないように見える彼が御社様なのだろうかと疑いが脳裏を掠めたが、纏う空気は亡霊達と同じく負を感じる。
「では、お前の望みは何だ?」
「父と母と弟に会いたい! こんな惨めな生活じゃなくて、あたし達も笑って生きたいの!」
促された少女は、堰切ったように望みを口にした。今までずっと立ててきた叫びが、嘆きの涙と共に吐き出される。
「お願いします、御社様! どうかどうか、叶えて下さい!」
男は黙ってそれを身に受けた。
彼女の願いが嗚咽に変わり始めた頃、彼は神棚の彼岸花を手にした。
赤い、赤い花。
無表情なまでに噤んでいた口の端をゆるりと持ち上げ、男は少女に振り返った。
「では、とびきりの楽園をあげようぞ」
笑って男は、紅の花弁を少女に手向けた。
夜が明け、柔らかな光が木漏れ日となって林の中に差し込む。
紅の塗装が剥げかけた鳥居も、朽ちた境内も、昨夜と何も変わらずにそこにある。
そよ風に吹かれながら、黒髪の男は社の階段に腰をかけていた。
彼は木の葉の歌声を聞きながら、霊魂達の去っていく姿を見送っていた。
『あの子も仲間ダァ』
『これでずっと皆と一緒ダァ』
耳障りな彼らの声を打ち払うように、男は握っていた彼岸花を目線に持ち上げた。
少女は家族と会えた頃だろうか。
川辺の向こう岸の、飢えも苦しみも無い綺麗な花畑に辿り着けただろうか。
きっとその楽園には、見事な赤い彼岸花が咲き乱れている。
男は目を細め、萎びかけた彼岸花を遠くに林の奥へと投げた。
地に落ちた花を一瞥し、彼は社の奥へと消えていった。
血のように鮮やかだった花弁は色を失い、真っ白に染まっていた。
END
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