Fly Away
千鶴は星となったまま、帰ってこなかった。
「今日は流星群が見えるって」
クラスメイトがはしゃいだように友人達とお喋りをしている。俺はそれを横目でちらりと一瞥し、何事も無かったように正面に向き直った。
開かれている窓の向こうの雑木林からは、蝉が喧しく鳴いていた。時々熱の篭った風が、ゆらりと白いカーテンを揺らした。
その度に、俺の前に置かれている硝子の花瓶が涼やかな音を立てた。挿されているのは大きな百合が一つと、引き立て役の霞草が幾つか。昼下がりの木漏れ日の中、二つの白い花はまるで現実味を帯びていない。
俺は頬をついたまま、花瓶を睨みつけた。
――埃を少しだけかぶった、今は誰もいない席。安西千鶴は確かにそこにいたのだ。
+ + + + +
千鶴は、俺よりも三つも年上だった。同年齢ばかりが固まってしまった俺の組の中では、少しだけ浮いていた。
けれど彼女はいつでも楽しそうに、クラスメイトの輪に入っていた。
俺はそんな千鶴をいつもこの席でじっと眺めていた。羨望だとか、嫉妬だとか、大層な理由はない。
彼女が一頻り楽しんだ後、俺の前の椅子に座るときの満足気な表情がただ好きだったのだ。
馴れ初めはとても簡単。椅子を引いた時に視線が交わり、千鶴はとても晴れやかな笑顔を浮かべてくれたからだ。
休み時間、クラスメイト達は後ろの方で集まって会話を楽しんでいる。その間、窓際の一番前と二番目の席はある意味で切り離された空間だった。
俺が千鶴に惹かれたのも、千鶴が俺に答えてくれたのも、そんな環境が作り出した必然なのだろうと思う。
手を繋いで河川敷を歩くまで、そう時間はかからなかった。
義務教育という制度が遠い過去となった現代、普通科の学校に通う者は激減したといっても過言ではない。多数が専門学を学びに、あるいは勉学と触れずに仕事をこなす。子供が社会的庇護対象であった時代は終わったのだ。子供と大人という言葉は、もはや死語になりつつある。
だけどこうして俺達は普通の学校に通っている。
できることが見つからない者や行く道を見失って路頭に迷った者は、皆ここに集まってくるのだ。供給は減ったものの、いまだ需要が尽きない理由だ。
夫を失い一層仕事に励む母親の背中を見て、俺は何となく虚しく感じていた。
したいこともない。やるべきこともない。
無気力な俺は、母に流されるまま学校に通うこととなった。
同じ境遇の者はたくさんいた。一回りも歳の違ったり、中には挫折を味わってここに来た人もいる。
初めて同じ目線で見てくれる者と出会い、共に過ごすうち、俺のぼやけた世界は徐々に鮮明になっていった。
そして、千鶴と出会ったことでそれは急速に早まった。
『わたしね、本当は宇宙飛行士なんだ』
ある日、いつものように河川敷を歩く俺に千鶴は言った。
驚きを通り越して、まぬけ顔の俺は唖然と口を開けたままだった。千鶴には笑われたけれど、本当に予期せぬ事態だったのだ。
『本当だよ? 出席日数足りなくて、今年で留年二回目だもん』
俺とは対照的に無邪気に笑う彼女。
何故学校に来ているのか、と俺は尋ねずにはいられなかった。
彼女は働いているのだ。何の取り得もない普通学校にいる意味がないではないかと思った。
千鶴は少しだけ悲しそうに笑い、鞄をぶらぶら揺らして道を歩いていく。
『なりたいからなったのは本当。でも、そのために色々なものを飛び越してきちゃったの。人生の過程、ってやつをね』
それから少しばかり、千鶴は自分の過去を打ち明けてくれた。
物心付いた時から彼女はずっと宇宙の神秘に魅入られていた。いつか星間飛行が実現するときには、真っ先に自分がテストパイロットになるのだと豪語していたという。
けれど、宇宙飛行の勉強と一般教養だけを受けてきた千鶴の後ろには、懐かしい思い出なんて何もなかった。
ただひたすら夢を実現するための階段だけが、延々と暗がりに続いていたのだと彼女は苦く笑った。
『夢だけを見て走ることはとても良いことだと思うし、充実するわ。でも、確実にそれだけでは視野が狭くなるのよね』
普段は全く感じないが、こういった物言いをするときの千鶴はやっぱり俺より年上なのだと思う。
将来のビジョンが何も見えない俺とは違って、彼女の目は輝きに満ちているような気がする。
少し卑屈に考えたことを見通したのか、千鶴は困ったような表情を浮かべた。弟を諭す姉のように見える。
『誰だってそうよ。でも、そこに留まるか進むかで変わるでしょう?』
現にわたしは変わったよ、と千鶴は続けた。
俺には千鶴が初めから眩しく見えていたから、どこがどう変わったのか検討も付かない。こうして考えてみれば、俺は千鶴のことをあまり知らないのだと急に恥ずかしくなった。
『結構はしゃいでいるのよ? 皆と内緒話したり、笑い合ったり、一緒に何かを創り上げたり……一世紀前の人達が変哲もない日常だと嘆いたこと、全部にね』
階段の底に明かりが灯ったのだと、嬉しそうに千鶴は語った。
俺はやっと理解する。
彼女も学校に来たことで、世界が色付いたのだ。
そして、何故今更になって打ち明けられたのかも。
『わたし、明日からまた飛ぶの。だからしばらく学校はお休み』
千鶴は空を見上げた。
俺も、空を見上げた。
梅雨が明けた、綺麗な空。あの大気の向こうに千鶴の行くべき場所があるのだと思うと、悔しかった。
遠すぎる。俺には届かない、無限の空間が千鶴の世界なのだ。
『君と会ってからの日々が一番充実していたよ。好きだと言われて、すごく嬉しかった』
そんなこと今更聞かなくても俺は知っている。
誰もいない放課後の教室で、ぼそりと漏らした言葉。聞こえづらいそれは、あまりうまい告白ではなかったけれど。
千鶴は、何度もありがとうと言ってくれた。
『ちょっと会えないけど、だからって終わりじゃないよ。わたしは帰ってくるから。待っててね?』
そうして、千鶴は手を振って行ってしまった。
河川敷と鉄橋が交差したところが、俺達のいつもの分かれ道。昨日と一昨日と何ら変わらない光景なのに、この日のさよならは少しだけ寂しく思えた。
また明日って、言われなかったから。
俺は待った。ずっと待った。
二人で見上げた空の下を、一人きりで家路に着く毎日。千鶴がいなくなってからも生活のリズムは淡々としていたけれど、以前のような煌きは戻ってこなかった。
夜になると無性に星が見たくなった。千鶴は何処で輝いているのだろうかと、毎晩のように夜空を仰いだ。
結局、千鶴は帰ってこなかった。
俺の目の前に戻ってきたのは、彼女の悲報と席に置かれた幾つかの花束だけだ。
慌しく流れるニュースでは、シャトルの外部で作業していた際に、命綱が宇宙ごみの欠片と衝突してそのまま地球の引力に引かれたと言っていた。
呆然と聞いていた俺に、ニュースキャスターは次々と無遠慮な説明を加えていく。
地球の軌道上にはデブリ帯が発生しているだとか。
大気圏突入の生存確率は皆無だとか。
安西千鶴がどれほどの才女であったのかとか。
俺にはもはや意味を無くした情報が、忌々しいまでに脳内を荒らしていく。
終わりじゃないって、言ったのに。
千鶴は、思い出になってしまった。
+ + + + +
千鶴がいないままの日々はあっという間に過ぎて行った。
最初は気落ちしたような友人達の姿は目立ったが、今ではその影もなりを潜めていた。しかし、彼女がいないことに慣れたわけではない。
現に流星群の話題を出していたクラスメイトは、千鶴の席を一瞥して溜息を吐いていた。
放課後、担任に呼ばれていた俺はやはり一人で教室に残っていた。
今年で無事に卒業できるというのに、俺はいまだに進むべき道を選び損ねていた。
自分の居場所は千鶴の隣だとばかり思っていたせいもある。指針の彼女はもういない。
始まった進路面談。夏休み直前なのにこうも決まっていない生徒はいないのだろう。他に待っている者の姿はない。
先生は俺を心配そうに見ていた。
千鶴のことで消沈しているのかと思われているのだろう。ここにも俺と千鶴が作り出した思い出を忘れないでくれる人がいる。嬉しくて、無性に泣きたくなった。
仕事先の紹介でもしようかとも言ってくれたが、気持ちだけありがたく貰って俺は首を振った。
もう、決めたことがあるから。
流星群が見える今夜、俺はまた夜空を見上げた。
ぽつぽつと光の雨が降り出す。あれはただの塵の欠片なのに、地上から見るとこんなにも美しい。
彼女の命を奪った大気の層の中に、彼女の綱を引き裂いた宇宙ごみが落下して燃え尽きているというのに。
感じた矛盾点に、何だか笑えてしまう。
千鶴もこんな風に輝きながら、宇宙を飛んだのだろうか。
二度と地上に戻らない彼女は、今もあそこにいるのだろうか。
俺は両手をかざした。
柔らかな空気に守られて、温かな笑顔に癒されて。彼女は礼を言っていたけれど、本当に感謝しなくてはいけないのは俺の方だ。
与えられることに満足して、少し背の高い千鶴の肩を抱き締めてやったこともなかった。彼女がくれた微笑みに相応しいものを返したこともなかっただろう。
俺はただ待っていたばかり。前を向く彼女を、後ろから見守っていただけだった。
だから今度は俺が迎えに行こう。
帰って来ないことに嘆いて、無為な時間を過ごすことよりかは意味がある。二人の時は終結してしまったけれど、彼女との出会いと別れは確かに俺の中で息づいているから。
遠いと思っていた、彼女が幼い頃から憧れた煌く宇宙。届かないと諦めかけていた場所。
だけど。
「決めたんだ、千鶴。俺は宇宙飛行士になるよ」
君の星を探すためなら、きっとソラも飛べるはず。
- END -
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