異端生物 〜the blue eyes of the Siena〜 番外編

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- 君に出会えた夏の日 -

 サラは今年の夏でちょうど十四歳になる。
 山の麓にある運河の町はのんびりとした小さな町だったので、年頃の娘一人の誕生日にも、近所の人々が次々とお祝いの品を持ってくる。
 町の若者達は、出稼ぎに行くか、都会へと出て行ってしまっていたため、もう殆どいなかった。そのため、サラは町中から可愛がられていた。おまけに、彼女は町一番の名所である図書館の館長の娘だ。とりわけ有名人だった。

 同じ歳の子供はいなかったから、サラはいつも一人で遊んでいた。大人たちは心配していたが、彼女は特に気に留めていないように振舞っていた。
 そして今日も一人で、町中を散歩していた。
 運河の町も、昔は活気付いていた。サラが生まれるよりもずっと昔のことだから、彼女には騒がしい町の様子など想像もできなかった。
 活発だが読書が好きなサラにとっては、都会の喧騒に揉まれるより、ここに残って静かに暮らした方が合理的だと思えた。町を好んで出て行ってしまう人々の考えが分からなかった。
 だから彼女自身は、この町で一生を終えるのだろうと思っていた。
「サラちゃん、ちょうど良かったわ。これ、お裾分け」
 母親と仲の良い中年の女性が、道を行くサラに小さなかごを渡した。柑橘系の匂いが漂う。覗いて見ると、よく熟れたオレンジが入っていた。
 笑顔で受け取り、サラは女性に手を振った。


 それからしばらくして川の辺まで来ると、サラは大きく溜息を吐いた。
「……嬉しいけど……」
 先程までの微笑みは無く、途方に暮れたような少女の顔が水面に映りこむ。
「わたしは、皆の子供の代わりじゃないのよ……?」
 新鮮な果実を手に取り、思い切りそれを川へと投げ込む。石が水に叩きつけられるような音がした後、静かにオレンジが浮かんできた。
 なだらかな運河の流れに乗って、無言で果実は遠のいていく。
 爆発させた感情に息を切らせながら、サラはぼんやりとそれを眺めていた。
 今の自分を表したようなオレンジの動き。沈んで、浮かんで、流されていく有機物に、虚しさを覚えた。

 流れていくオレンジを最後まで見送ることなく、サラは再びかごの中へ手を入れかけた。
 ところが、空いた片手は空を切った。
 運河を見ていた彼女は、流されたはずの果実がすぐ側にあることに驚いた。
 ほんの数秒目を離していただけなのに、前方からやってくる人物の手の中には、確かにあのオレンジが握られていた。
「これ君の?」
 清浄な声が響く。穏やかな水の囁きにも似た、聞き触りの良い少年の声だ。
 やがてその人は、サラの前までやって来た。
 優しげな眼差しは青い。天球よりも深く、深海よりは明るい、不思議な瞳だ。短い髪も同じ色をしていて、何故か少し湿っていた。
 彼――どちらかというと細身だったが、声の低さから男だ――は、ちょうどサラと同じか少し上ほどの背格好だった。歳もほぼ同じ位だろう。
「ねぇ? これ、君の」
「ええ! うん! これ、わたしのよ。ありがとう!」
 少年の言葉を遮るように、サラは返答を捲くし立てる。驚きと嬉しさのあまりに、声を荒げ、語尾を強調してしまった。
 少年は果実を差し出した状態のまま、きょとんと少女を見た。
 不思議そうにこちらを見る視線に、思わずサラは頬を赤らめた。


「そっか。この町には他に子供がいないんだね」
「だからって、わたしを子供に見立ててほしくないわ」
 運河に渡された石造りの橋の上、欄干に腰掛けた二人は川の流れを見つめていた。
 町外れの橋には人気が無い。欄干に座ればたちまち町人に怒られるが、ここならば滅多に人は通らない。
 オレンジを剥きながら、サラは今まで溜めていたものを間髪入れずに喋り続けていた。名も知らぬ少年は否定も肯定もせず、頷きながら聞いていてくれた。
 サラは、同じ目線で物事を見てくれる人に初めて出会った。大人のように自分を見くびらず、老人達のように恩着せがましい好意も、同世代の少年には無かった。それが何とも爽快であり、何と気楽なことなのか。始終、彼女の笑顔は耐えなかった。

 会話が一段落し、すっきりした気分で少女はオレンジの実に齧り付いていた。熟れた果実の中には、充分なほどの甘い蜜が溜め込まれていた。
 その様子を少年は観察していた。サラに剥いてもらった皮を指で摘み上げ、裸になったオレンジとサラを見比べている。
「オレンジ食べたことないの?」
 訝しげに尋ねてみると、彼は首を縦に振った。
 いくら都会で生まれ育ったとしても、果実くらい見たことがあるだろう。市場に並ぶ商品としては定番である。また、菓子代わりに食卓に並ぶこともある。
 先程の会話の流れからも分かったが、少年はずいぶん世間知らずなようだった。
 対してサラは物知りだ。周りは大人ばかりだったので、人に教えるということをしたことはあまりない。一人っ子だということもあり、お姉さんぶれることが楽しく感じられていた。
「皮は剥いちゃってるから、このまま食べていいのよ。白い筋は、歯に引っかかるから気をつけて」
 言うや否や、少年はオレンジを食べ始めた。
「……おいしいね!」
 彼はそう言って笑顔を浮かべた。


 夢中に話していれば、いつの間にか空が朱色に染まり始めていた。
 夕暮れを知らせる鐘が響き出した。遠くで鳴いていた烏もねぐらに帰るらしく、山の向こうへ飛んでいった。
「今日はありがとう。楽しかった」
 橋から岸へ降りたサラは、西日を眺めながら笑った。
 一生縁遠いのだろうと思われた会合が成され、本当の自分を曝け出すことが出来て、彼女は心底嬉しかったに違いない。
 満足感に浸りながら、サラははっとした。別れの時が近づき、互いに名乗りあっていないことに気付いたのだ。
 少年は首を傾げ、「何だい?」と青い目を丸くさせていた。
「今更なんだけど……貴方の名前、教えてくれない?」
 上擦った声が出た。サラは少し恥ずかしくなった。まるで、再び会えることを期待しているように聞こえる。
 彼はじっと佇んだまま動かない。俯いたサラからは、少年の表情が見えない。
 今、彼は途方に暮れた顔をしていないか。困らせていないか。サラの不安は大きく膨らんだ。

「シエナ」

 返事は、あった。
 我が耳を疑い、サラは勢いよく面を上げた。
 シエナと確かに名乗った少年は、照れたように頭をかいて少女を見ていた。
「僕も聞きたかったんだ。君の名前を教えて」
 唐突な展開に付いていけずに、サラの口は鯉のように動くだけだった。
 真っ赤になってしまった顔を両手で隠し、彼女はゆるむ頬を引っ張る。そして精一杯の笑みを湛えて、シエナに答えた。
「わたし、サラ! この町の図書館の娘よ。今度、来たら尋ねてみて!」
「うん。必ず行くよ。約束する。また、色々教えて欲しい」
 約束と聞き、サラはシエナに手を差し出した。

 ――絵本で読んだ王子様は、お姫様の手の甲にキスをしてくれた。必ずまた、会えますようにと誓いを立てて。

 自分にはまだ早い。
 サラはそう思い、握手を求めたのだ。
「約束だよ」
 出された小さな手に戸惑い、少年の上がりかけた片手が止まった。だがそれもほんの数秒のことで、シエナは彼女の手をしっかりと握り締めた。


 + + + + +


 晩春の風に吹かれ、窓際でうたた寝をしていたサラは目を開けた。
 いつもどおりの紙とインクの匂いのする、図書館の一室。もたれかかった椅子の傍らにあるチェストの上には、棚から出してきた書物が重なっている。
 変わらない日常の風景。

 開かれた窓のカーテンを端へ押しやり、サラは外の景色を見た。
 シエナと出会った一年前の夏の日と、何ら変わらない町の外観がそこにはある。飽きを感じることもあるが、一年前と同様に、町を離れようとは決して思わなかった。
 誰よりも好きな人が、何よりも好んだ小さな町なのだから。
「シエナも、この空の下にいるのよね」
 天を仰ぎ見ながら、サラは呟いた。
 初夏を思わせる晴天の青空に、少年の姿が浮かんでは消えた。
「待ってるよ。わたしは貴方のこと大好きだもの」
 サラは祈るように両手を繋いだ。待つと決めたシエナの旅立ちの日、彼と彼女は約束したのだ。出会いの日と同じように、それぞれの手を固く握り。

 奥から母親の声がした。サラを探しているようだ。
 少女は浸っていた感傷を振るい落とし、椅子から立ち上がった。
「さて! 書庫の掃除を終わらせなくちゃ」
 サラは想いをしまいこみ、再び日常へと戻っていく。
 夏の日に感じた甘酸っぱい気持ちも、誰にも――彼にも伝えることは、きっとない。


- END -



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