アツイヒ ... Side : Loki

 それは、蒸し暑い日のこと。

 俺はいつものように一人で外をふらついていた。
 やたらと俺を旅に誘うトールの馬鹿も、今日はいない。だから人懐っこいあいつが傍にいない俺に、敢えて近付くような酔狂な奴はいない。俺と視線が合うのが嫌らしく、擦れ違った者はそそくさと逃げて遠巻きから観察している。
 別に何をするわけでもない。びびるのは勝手だが、暑さのせいでその行為に余計苛々する。
 そうだ、暑さのせいだ。
 好意的に受け取られないことなんて普段と何にも変わらない。飄々と受け流せるのに、それが出来ないのは珍しいほどの気温のせい。
 だかといって誰かに当たる元気も浮かばず、俺は汗を掻きながら炎天下の道をぼんやりと進んでいた。


 ふらふらと当ても無く歩いていたからか、気が付けばこんな場所に着いてしまった。
 城壁のアーチを潜り、視線を少しだけ横にずらすと……――奴はいる。
 相変わらずのくそ真面目な顔で、まっすぐ前を見据えている。俺には到底見えない、遠い遠い世界を見ているのだろう。
 暑いはずなのに汗一つ掻いていない。白い肌は眩しくて直視できない。
 海から生まれた御子だからだろうか。表情一つ変わらない涼しげな面差しは、一瞬だけでも暑さを忘れさせてくれた。

 壁に寄りかかった俺はしばらく奴を眺めていた。
 気紛れだ。
 誰もが避ける俺の視線を受けても、あいつは平然としているから。


「何か用でもあるのか」


 不意に投げ掛けられた端整な声に、ぼやけた視点が一気に定まる。
 どれくらいの時が経ったのかあやふやだった。俺はいつのまにか座り込んでいたらしく、妙に目線が低くなっている。

 声の主はこちらを見ていた。曇りのない青い目が鋭くつり上がっている。どうせ、俺がまた何か企んでいるんじゃないかと窺っているのだろう。
 身体に篭った息を吐き出しながらも黙ったままの俺に、奴は痺れを切らしたようで。座っていた岩から立ち上がり、大股でこちらに迫ってくる。

 あ、涼しい。

 長身の影が俺の上に掛かり、程よい日陰が出来上がる。
 傍に他人の体温が近付いたというのに、さほど暑さは感じられない。むしろこいつの持つ独特の清浄な気配は、身の内に溜まっていた熱を緩和してくれるような気がした。

「聞こえているのか、ロキ」
「……暑くないのかい、ヘイムダル?」

 ちぐはぐした返事を返してしまい、心の中で苦笑する。逆光で見えないが奴は呆れた表情をしているだろう。
 阿呆を相手にしてしまったと言わんばかりの視線に、俺は微かに笑った。

 少しだけ軽くなった頭を抱えて、ゆっくりと立ち上がる。
 何だかだるさが無くなったような気がする。
 じっと目の前に立つ男を見上げるが、訝しそうにこちらを見ているだけで何も言わない。元々、お互いに話すことなんか皆無の相手だ。会話が盛り上がることなんて滅多に無い。
 ――そういえば、トールの変装の時くらいじゃないか。俺達の気があったのって。
 あの時の親友の慌てた姿を思い出し、もう一度口元が綻んだ。

「さっきから何なのだ?」
「何でもゴザイマセーン。お仕事頑張って下さいネー」

 ますます眉を顰めた奴をはぐらかし、俺は踵を返した。
 去ろうとする格好を見せたというのに、背後ではいまだ視線が感じられた。あいつが俺に感心を持つことは珍しく、振り返ろうとした。
 その時、轟音と共に風が押し寄せた。
 城壁のアーチへと外からの風が集まってきているのだ。
 蒸し暑い空気が一瞬で流され、何処からか運ばれたユグドラシルの葉が空を舞っていった。やけにあいつが涼しそうだったのは、このせいか。
 風は程なくして止んだ。
 あの涼しさが忘れられず、惜しみながら風が通り過ぎた跡に目を向けていると、奴が口を開いた。

「用は、ないのだな」

 え、と尋ね返す前に、あいつは元いた場所へと戻っていってしまった。
 折角振り向いた俺のことを気付くはずも無く、あいつは角笛を首に掛け直して、そのまま彫像のように岩の上に佇んだ。

 さっきまで手が届く距離にいたのに、まるで互いが別世界の者になったかのようだ。
 遠のいた俺達の間を、再び風が荒々しく吹き抜けていく。
 あいつは、気持ち良さそうに目を細めた。笑っているようにも、見えた。

 何処までもを見渡すことが出来る瞳で、あいつは今何を考えているのだろう。世界の最後を知らせる笛を手に、不眠不休のまま立ち続ける己の役目に、何を思っているのだろう。

 俺はもうあいつの事を見ていらず、居た堪れなさを胸に抱えて駆け出した。
 急に駆け出した俺を何だと思うだろう。
 きっと、気にも留めないのだろう。そこにいたことも、もう忘れているはずだから。


 ヘイムダル。
 その場所はお前にとって大事な場所かもしれないけれど。俺にはお前が、透明な牢獄の中にいるように見えるよ。

アメノヒ ... Side : Heimdall

 先日まで蒸し暑い日が続いていた。だから予測通り、今夜は土砂降りの雨。

 叩きつける水滴も、自然の恵みだと思うと忌々しくはない。今までもこれからも、私はそう思い続けて生きていく。終末の瞬間が訪れてしまえば、きっと雨など降ることは無いのだから。
 ――それはまだ、想像の域を脱してはいないけれども。


 叩きつける雨音に耳を寄せていると、何者かが城壁の外へと出てきたらしく、微かな足音が雨の間から響いていた。
 こんな雨の中、外出するなんて。どんな酔狂な奴だろうかと私は目を開く。
 気温の落差のせいか、夜の雨は普段よりも随分と冷たい。長い間外にいれば身体に障るだろう。
 自分の傍を通る時に注意しておかなければ、と私は岩の上から門を見下ろした。
 雨に打たれる小さな人影。傘を差していないことに私は驚き、本気で相手の頭の心配をしてしまう。
 だがやがてその姿を露になり、私は僅かに瞠目した。
 先日も用があるのか無いのかさっぱり分からないまま去っていった、あいつだったのだ。

 まさかこんな日に奴が現れるとは思わず、私は本当に驚いた。
 深夜と言っても良い時間帯に雨なぞ降っていれば、面倒臭がりなあいつは絶対に家から出ないだろうと踏んでいたのだが。
 そんな私の心情を知らず、あいつは岩によじ登り、目線の合う場所まで上がってきた。奴特有の質の悪い笑みを浮かべ、何故か私の隣に座り込む。

「雨の中までご苦労さん」
「残念だが、お前に構っている暇はないぞ」

 暇というのも変な表現だったが、あくまで私は仕事中だ。――この場所がある限り、私はここに立ち続けるのが義務だから。
 ただでさえ視界が悪いのだ。うっかり気を抜いていて、敵の不審な動きを見過ごすなんて言語道断である。
 こいつを構っている場合ではない。早く追い払いたかった。

 その意味を込めて眉を顰めても、奴は全く動じなかった。私の隣に座ったままじっとして、差さずにいる傘を抱きかかえている。
 水滴が伝う頬の上にある瞳は真摯で、こちらから視線をはずそうとしなかった。
 雨音が聞こえなくなるくらいの沈黙の中、あいつの顔をじっと眺めていた私は、不覚にも不思議なことに考えてしまった。
 慌てて振り払うように視線を逸らす。雨で濡れた前髪をかき上げて、私は拳を握り締めた。

 そんなわけ、ない。
 だってこいつはそんな奴ではない、はずだから。

 急に音が戻ってきて、雨足がさらに強くなってきた。
 弱まることの無い天候を見上げ、いい加減帰ったらどうだ、と奴に話しかけたが目を細めるだけで返事は無い。
 風邪でもひいてしまえば、こいつの良妻は心底心配する。それを奴は分かっているだろうに。

 傘は閉じられたままだった。長い間、外にいたせいで奴も濡れ鼠になっている。
 私には何がしたいのかさっぱり分からなかった。
 ――もっとも、奴の考えと私の考えが一致する場合など皆無に等しい。一度だけ、合ったような気もするが。
 それからさらに数分後、沈黙を破ったのは相手だった。

「……そろそろ、帰る」

 やっとのことで奴は帰る意思を示した。
 まるで時間が止まっていた世界が再び息を吹き返したように、硬直していた時が動き出す。
 立ち上がったあいつを名残惜しむように見上げてしまい、私は首を振った。
 隣に残っていた温もりが離れてしまい、少しだけ寂しいだなんて。きっと気の迷いだ。こんな寒い夜に、誰かがいてくれたことなんてなかったから。

 俯いていると急に雨が止んだ。不思議に思って瞼を開けると、傘の端から雫が滴っている様子が目に入った。これは紛れもなく奴が持っていた物だ。
 慌てた私は城壁の方に振り向く。その手には何も持っていない人影が、足早に走り去っていった。
 呼びかけても多分聞こえないだろう。
 そうやって、自分に都合の良い言い訳を導き出す。
 私は膝を抱えて、今なお降り注ぐ雨粒の流れを見つめ続けた。
 そして先程の場面を思い出した。

 普段は飄々とした目が、真剣に見つめていたのは何だったのだろう。
 濡れていた頬に流れていたものは、本当に雨の雫だったのだろうか。

 嗚呼、今夜の私はやはり可笑しい。

 あの時ロキが、泣いているように見えただなんて。

オワルヒ ... Side : Ragnarok

いつの日かは青かった空は、澱んだ灰に覆われ。世界中を吹き抜けていた風は荒ぶるばかりで、そよいでいた世界樹の葉はもはや何処にも無い。
 創世の日々から生まれていった多くの人々が、天変地異に見舞われて死んでいく。
 焔の巨人から放たれた火の手は、やがて神の国を平らげ地上までも侵食していくだろう。
 全てが終わりへと向かう。約束されていた終焉は、呆気なく訪れた。


 炎上する神々の国。屍の上に屍が積み重なり、壮麗な建物は無残な姿を曝け出している。
 もはや戦はヴァルハラ平原だけでは留まらず、栄華を誇ったアースガルドもまた戦地と化した。また一人、また一人と、次々と消えていく命に隔てはない。
 巨人も魔物も神々も、壮絶な死が迎えにやってくる。

 いまだに乱戦状態が続く内部とはうって変わり、城壁の外は不気味なほど静かだった。
 血痕や死体、地面に刺さる剣などから激しい争いが通り過ぎた後だと分かる。
 そんな戦場にまだ息がある者がいた。
 互いに相打ちになった二人は仰向けになり、月も太陽も消えてしまった空を見上げていた。
 恐れも悔いもなく死を待つ。
 息を引き取る前の穏やかな気持ちが、二人の胸には同じように芽生えていた。

 やがて、倒れている一人が口を開いた。
 漏れ出す言葉はか細くて聞き取りにくかったが、喋る者が他にいないためかよく響く。

「まだ、生きてるのか」
「お生憎様……神経だけは図太いからなぁ」

 もう一方は悪態をつき、すぐに咳き込んだ。口の中に鉄臭いものが広がっている。それを掌で受け止め、残された時間が少ないことを諦めたように悟る。
 二人は暗い空の一点を見つめたままだった。
 遠くで喧騒が聞こえたような気がしたが、もうどうすることも出来ない。助けに行きたいのか、死んだ者の仇を討ちたいのか、失った者へと嘆きたいのか。するべきことも見当たらず、二人はただ降り注いでくる浄化の雪を身体で受け止め続ける。

「なんか、すっきりした」
「ロキ?」
「あんなに憎しみに駆られたのも初めてだったけど、こんなに頭を空っぽにできたのも初めてだ」

 薄い胸が苦しげに上下している。しかし、苦悶の表情はなかった。
 代わりにロキは、清々しいほどの綺麗な笑顔を浮かべていた。

「あんたはどうだい? どんな気分なのさ、ヘイムダル」

 視線をそのままにして片方は言った。もう片方も動く気配はない。否、どちらも既に動けるような身体ではない。
 それでも二人は会話を続けた。傍から見れば暇乞いのように見えただろうか。

「正直言って分からない。何が良かったのかも、何が悪かったのかも」

 苦笑を浮かべる。これがヘイムダルの精一杯の笑みだった。
 使命からようやく解放されて感じたのは、身体の中身がなくなってしまったような感覚だった。虚無とは違う清々としたそれは、ロキの言う空っぽという表現が正しいのだろうか。

「それが本当の解放感ってやつじゃないの?」

 ヘイムダルの独白めいた呟きに、ロキはそう言って笑い声を上げた。
 牢獄から出た時の自分が感じていたものとは絶対に違う感情だ、と続ける。
 重た過ぎる鎖を外し、傍で死んだ女の遺体を抱え、暗い空に絶叫した。あの時胸に棲んでいたのは、自由になった喜びなどではない。溶岩のように滾る真っ黒な憎しみだけだった。
 綺麗なヘイムダルは、あんな感情をきっと知らない。
 知らなくて、いいんだろうと思う。

 隣を見やったヘイムダルは、飛び掛るようにして自分に刃を向けてきたロキを思い出す。
 全てを破壊しつくすような獰猛だったあの眼差しはもうない。
 暗い牢獄の中で、ロキは世界を壊すことを決意してしまった。その結果が、この惨状だとは分かっている。
 視線に気付いたロキは、いつかの日のように薄く微笑むだけで何も言わない。それがとても優しいものだと、今際になってヘイムダルは気付く。
 そして、やはりあの日に見たものは間違いじゃないのだと思った。


 雪はただ静かに全てを覆いつくしていく。
 再生の時が訪れる日を夢見て、世界を静寂の眠りに誘うために。
 冷たく白い粉は麻痺した肌では感じられない。それでも、二人はそれを脳裏に焼き付けようと凝視した。黒い空に、真っ白な花弁が舞うようなこの光景を。
 きっと次の世界に生まれるだろう、光溢れる大地を思い浮かべるように。

「俺、あんたのこと、嫌いじゃなかったよ」
「奇遇だな。私もさほど嫌じゃ、ない」

 舌がうまく回らぬまま、二人はとうとう目を閉じた。
 辺りは既に白銀で埋め尽くされている。終焉の戦いの舞台は、ゆっくりと幕を下ろし始める。
 白に染まる世界は、水を打ったように静寂に包まれた。
 やがて全ては灰と化し、美しき幻想と共に消え失せていくだろう。新しき再生の時を待ちながら――。



 二つの命の灯火が雪に埋もれて、消えた。
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あとがき

 仲がよろしくない上、最後は相打ちでお亡くなりになるこの二人。
 普段は水と油の如く合わないのだけれども、実は一番お互いに気になっているのでは?という妄想のもと出来上がった代物。
 ラグナロクでの本気の戦い後、ようやくちょっとだけ分かり合えれば良いと思います。夕陽の河川敷での殴り合い後のように(笑)
 結構昔に書いた文章を打ち直しして上げた物です。雰囲気重視なので、あんまり変えていませんが……。何年前だ、これ;

(2008/02/01)

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